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週間レビュー(2022-5-8)_デザインされた平和はいずれは壊れしまうのかな

GWは日々のリズムが崩れてしまい、習慣がふわふわしてしまい居心地が良くなかったけれど、色々と取り組んだ。
来週設計課題が中間提出だけど間に合うのかどうかというところ。


2日 説明的すぎないプレゼンテーション

クライアントとのプレゼンテーションは、案について魅力的に説明すること以上に、相手の抱える課題を丁寧に解きほぐしていくことが重要なこと実践の中で学んだ。自分の案を煮詰めて、それを魅力的に直球で当てることは、おそらく同業者の間では前提があるから成り立つが、複数の業者に対しては異なるんだと思う。何を本当は懸念しているか、何を解決してほしいと心で思っているのか、何がピンときてないのかを探りながら当てていくことが大事だ。
コールハウスはクライアントに「天才的な案を見ている」と唸らせるくらいプレゼンテーションが上手いそうだが、彼のデザインソリューションやAMOのリサーチなどを背景に出されたら、造形としての作家性ではなくある種メタ的にクライアントはデザインに納得できるんだろうと思った。

3日 西洋美術館と文化会館

上野で飲み会があったので、リニューアルされた西洋美術館と文化会館を見学する。コルビジェの西洋美術館と前川國男の文化会館、この二つの建築が対峙するあの場所がとても好きで空間としての豊かさを心から感じる。
西洋美術館は以前はもう少し木々が生い茂っていたが、それらはさっぱりなくなってメンテナンスのしやすいように人工芝に置き換えられていた。それもそれで広々としていて子供たちが美術館の前で走り回っていてとてもいい空間だなと思った。豊かな場所とはこういうことだなと心が軽くなった。

文化会館、まばらに配置される照明計画が秀逸
この角度が外観では一番かっこいい。手すりは半分のみでピロティが垣間見える。
西洋美術館から文化会館を望む。間にあるスペースに人が溜まっている。

4日 おやすみ

久々に飲んだので二日酔いと疲れで落ちて一日寝ていた。本当に過度なお酒はできるだけ避けたい。

5日 水溜まりの水をどれだけすくえるかは重要なことなのか?

自分より年上の人と話すことがここ最近多かったのでその対比からの気がつきがたくさん生まれた。
やはり、目的のためにプロセスは選ばないという個人的な姿勢をなくしてビジネス的な感覚には共感はしにくくて、一連のプロセス自体を自己の表現と捉えるのかそうではないのかで感覚は違うのだろうなと思う。(だから自分は、ビジネスが苦手なんだろうと思う。)
また、「どこにいて何をしているのか?」より「あなたは誰なのか、個としては何を考えてるのか」が自分は気になるし、「どの規模のプロジェクトなのかではなくて、なぜあなたがそのプロジェクトに取り組んでいるのか」が気になってしまう。
けれど、その感覚は大体ずれているようでなんだかいつももどかしく思う。

資本を動かす人は、動かすことを考えているから、動かす理由や動かした後のことは対して考えも無いのかもなとも感覚的に思ってしあうし、それをエリートという集団的なグループアイデンティティの共通する振る舞いとして黙認しているのかもしれない。それも結局は環境が生んだものだろうと自分はバックグラウンドもあると思うが思ってしまう。(これも心が狭いけれど、能力主義偏重とはそういうものだ)
とりあえず、自分はどこに水たまりのように金が溜まっていて、その水溜まりからせっせと水を掬い取っていく…掬い取った量でヒビが満たされる…そのような社会への関わり方は個人としては違うと思った。
水溜りが流れる新しい地形を創造するのも建築家の役割なんだろう。

6日 クリエイティビティを発露させる場所を選ぶ

講義を聞いているより本を読んでいる時の方が断然幸福を感じる。
もはや講義という形式は成り立たないんじゃないか、大学というシステムは破綻寸前なのだと日々思うのだけど、それを打ち破るだけのクリエイティビティを受け入れるのはなかなかできないんだろうと思う。そして変えるのも面倒だから、結局現状維持を選択するんだろう。
そういう局面を何度か味わってきたけれど、結局それを正義感で変えようとすればするほど、自分が疲れてしまうから、本当に興味がないのであればすぐにやめることにしている。それがいいのか悪いのかは正直わからない。

7日 空間としての肖像画

たまたま原宿あたりで時間を持て余したので、ルイヴィトン表参道店でラシード・ジョンソンのインスタレーションを覗く。彼の作品である「Plateau」で印象的だったのは、その空間的肖像画ともいうべき表現としての出力方法で、たぶんに建築的だと感じた。

グリットが張り巡らされ、その中に物体が生々しく置かれる。何かの部屋のような展示方法。

グリットの表現は彼自身の思考の形式を示しているようにも見え、グリットに植物たちが置かれることで余計に植物たちとの考え方の基準が異なっていることが見え隠れする。またグリット内部に置かれているものの眺めていく中で共通点を導き出したり、逆にそのもの一つ一つの配置の理由を探りたくなるような謎解きのような感覚を覚えたりする。
物体としての強烈なインパクトというより、彼の脳内やアイデンティティ、バックグラウンドを読み解いていく中で、自分と作者の間で共通点を探し当てていく脳内でのプロセスが個人的には面白かった。

シアバターにケンテ生地の紋様を描くだけで今のアフリカ人の大方は表現できるし、社会からも個人にとしてもアフリカという抽象概念は人に表現できてしまうという文化的なレッテルの表現の仕方は、何か自分の中にある日本的なアイデンティティの希薄化を考えた時になるほど!と腑に落ちた。

総じて、自分のアイデンティティや自己を構成する複雑な要素をものや空間で表すとしたらどうなるのか?はとても気になるのでどこかの作品表現などでチャレンジしてみたい。

CDプレイヤーや彼のアイデンティティを示す本、シアバターの塊、植物がグリット内に置かれる。
割れた花瓶と、それに描かれたケンテ生地の雑な紋様

8日 設計課題の進捗

ようやく設計課題のコンセプトがリサーチを経て空間にはまり出した。(残り1週間で中間提出なわけだけど…間に合うのかな…)箇条書きでまとめていく。

▼設計の内容
- 個人の記念館のようなものにフォーカスする必要はなく、おそらく吉阪隆正は自身の作品をアーカイブとして綺麗に展示されることを望んでいないと思う。なので記念館という枠組みはまず捨てさる。
- 八王子セミナーハウスは事業計画書と自分の体験から振り返った時、完全に老朽化、財政難であり、今回の提案を吉阪の思想を体現するようないわゆる設計的なソリューションはグルーミングアーキテクチャーに分類されるのでこれも考え方として捨てる。目指すはビルバオ・エフェクトのような建築デザインと場所の力によるセミナーハウスの概念的、空間的な進化である。
- 第四世代の美術館のアナロジーでカンファレンス会場、会議場などのなんらかのプログラムの上で用いられる交流空間を語ることができる。
リッチでホワイトカラーの会合が行われるようなリゾート併合(第一世代)、ホワイトキューブのようなあらゆるプログラムに対して柔軟な体制をとることができる都内近郊型のカンファレンス会場(第二世代)、特定のプログラムやコンセプトのもと運営され利用できる会場(第三世代)、民自由に会場の貸し借りする小さな民間に開かれたイベントスペース(第四世代)と定義できそう。では第五世代のカンファレンス会場とはが命題である。
- 第五世代の観点としては、バーチャルに従属するフィジカルに対しての折り合いの付け方がヒントになる。第四世代までは、パンデミック以降にフィジカル空間がトランジションできなかったためにリモートでも参加可能にしてくださいという要望に対して答え続けている。これはつまり、バーチャルにフィジカルが従属したといえる。
- この問題の解き方としては、3つのコミュニケーションスペースの方向性がある。
①フィジカルではなくシームレスなバーチャルコミュニケーションスペースを実現すること。
②バーチャルとフィジカルをシームレスにつなぐスターウォーズ的コミュニケーションを実現すること。
③身体性を喚起させ、身体がなければ発生しないであろうコミュニケーションを誘発させる強い人間の野生性と地縁スペースを生み出すこと。
今回は吉阪の建築と相性の良い③から空間を想起させる。
- 身体的なコミュニケーションを失い始めている事は、宮台真司の没主体、鉄の檻の議論からも垣間見える。逆に巨頭会議などはたぶんに身体的なコミュニケーションを重視されるが、社会に対してコスト踏まない立場にいる人間のコミュニケーションはどんどんと安価な道具(Zoomなど)に脅かされ、メディアが絞られてしまう。結果身体的な創造力の範疇を絞っていく。これに対してアンチテーゼとなるのが今回のセミナーハウスのカンファレンス会場である。
- よって、場所によって身体性を刺激し、その場所でなければ生まれないコミュニケーションを創発させる、またはホワイトキューブに作品を柔軟に入れるようなことではなく、場所ありきでプログラムを考えるような、強い空間性を想起させるカンファレンス会場を生み出す。UXのような滑らかさではなく、ストレスや面倒、非合理性が生み出す偶発的な刺激を発生させる。
- いつかはスイスの片田舎で行われているようなダボス会議すらも誘致できる場所を目指し、身体的なコミュニケーションやその可能性を次の次元に押し上げる。これは最新のテクノロジーと並ぶ手工業的な知性の戦いである。

「私」は具体的な存在であり、具体のまま全体でありたいとするなら、その拡がりは限界以上に超えられない。その小さな世界の大切さを、大きな組織は吹っとばしてしまったのがいけないのだ。世界の平和が成立しないのは、巨頭会談のような密度のうすい組織相互だけに頼っているからで、小さな個人の世界の小さな鎖を無数につなぐことのできる方が、どれだけ実質的かということを忘れた所にある。われわれはもっと自分らの周囲を大切にすべきだ。

<建築>一九六七年

設計思想は吉阪のこの言葉から始めた。
あと一週間で終わるのか不安しかないがとりあえず頑張るしかない。

Chilldspotを今週ずっと聴いていて、ありがたかった。彼らは自分より3つも若い。学ぶものが多い。

3月からずっとだが、世の中の状況がヤバすぎて、自分が作るべきものがわからないなと思っている。なので、とりあえずいろんな人と話してみようと思う。ぶっ込んで進むことも重要なのかもしれないけれど、虚勢から始めるのではなくて着実に言語化できるものを増やして、実の力で前に進みたい。

来週も頑張る。


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