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週末レビュー(2022年1月23日)_区切りのあるものとないもの。

今週の出来事と雑感

・期末テスト
ほとんどの時間を期末試験の勉強に費やした気がする。なので、制作や思考に時間を使うことができていない。来週もそれは一緒。だけれど、今やりたくなくてもやらないとまた苦労するんだろうと言い聞かせながら勉強している。あと1週間。

数学、物理、化学など高校生の時にしこたま勉強した内容を改めて勉強する羽目になっているが、数年経つと違う感触がある。高校生の時は、理解というより延々に問題のトレースをしていた。(テストを乗り切るために…)
今はかなり違って、カントの純性理性批判と電磁気学の発展が関連したりするとテンションが上がるし、プログラミングと線形代数の活用とかを知ると俄然、その成り立ちに興味を持ちはじめたりしていることに気が付いたりした。

現代社会の技術的な基盤はここにあるんだな、この分野は自分で勝手に探求したいと思って学ぶのと、安易な文字列の暗記作業や、どこぞの国家の委員会が理解度別に切り取って編集した教科書をトレースをして学ぶのでは全然違う。受験システムがどうとか、国家の人材戦略がどうとか詳しく述べるほど知識はないけれど、全体的にそういう学び方に社会が変わったら、大半の退屈な10代や消費に追われる10代の毎日は変わるんじゃないかなと思う。

関連して、共通テストの東大の殺傷事件は心が痛くなった。
決して暴力行為は許されるものではないけれど、社会的やコミュニティ的な抑圧や求められる規格的なものを簡単に飲み込む前に、ちゃんと吐き出しても良い、それでも良いよという人が周りに少しでもいたらいいのになずっと思っている。

でも、自分が高校生の時も同様にうつ状態だったのでなんとも言えない感情になる。4年くらい手伝っているAO入試予備校で受験生と話をしていても、苦しくなることが多い。自分の15歳〜18歳のこの時期のことちゃんと言語化したいし、何か彼らに対してできることがあったらやりたいなと思う。

・設計演習と設計製図
どちらも通年でちゃんとやりきった。これは個人的には快挙…。
どちらの講義も反省も学び大量にあるので、どこかでまとめようと思っている。設計演習は早稲田の名物授業なだけあり、1週間1課題というハードでお金のかかる講義だけど、やはり履修してよかった。
とにかく講評してくれる講師が良いし、下手な展覧会に行くよりも、純粋に人の作品や考えに没入できる。かつ自分の表現の幅の狭さや感性の鈍さを感じ取れる。自分の好きなものや嫌いなもの、自然にやりたくなってしまうことも身体でわかる。設計製図も自分の下手くそな部分や相対的に秀でているところ、設計の感覚や考えるべき観点やプロセスも理解することができた。

あとはほんの少し卒業設計の手伝いを。卒設の友人数人全員、自分は建築の道ではない…と言うが、そもそも建築を1つの道であると考えるのがナンセンスだと感じる。物質として、プロセスとしては狭いように見えるが、概念としてはどの分野よりも包括的だからだ。

規則正しいのか不明だが、今週は少し生活のリズムを変えてみようと思う。

読んだ本・観たもの

”国際展とアーキテクトー国際芸術祭「あいち2022」に至る事例を中心に”

大学の講義の一環のイベントで、愛知トリエンナーレ2022のチーフ・キュレーター(学芸統括)飯田志保子さんとチーフアーキテクトの山岸 綾さんの話を伺った。
そもそも、芸術祭とは何か、社会的な意義や構成方法、キュレーターの役割や芸術祭の変遷のお話を聞き、なるほど、単なるイベントではなく出力された総合作品のようなものかと理解した。

特に「年をあけての開催(ビエンナーレは2年に一度、トリエンナーレは3年に一度」「コンセプトをもとにアーティストが応答する」「土地性を持つ(特定の場所や空間での開催)」という3つの条件の設定によって育まれるものがあること。これは、単発的で属人的な社会への出力と異なり、この条件を持つからこその出力の良さなのだと思う。ぜひ愛知トリエンナーレもその他の美術祭もこれから足を運ぼうと思った。(あと、あいとり2019以降の芸術に関しても質問をしたので、これもまとようと思う。)

・再編集と建築
また、最近は人間の出力するものの再編集性と編集性について考えている。
芸術祭は時代に対して複数人による即応的なものであり、作品自体は流動的な編集性を持たない。これは建築も同様である。
しかし世の中は若宮和男さんが書くように「再編集性」が前提の社会である。文字を書くをとっても、PCであれば消すことができる。(毛筆ならそうは行かない)価値のリプレースや代替が容易になったとでも言えるかもしれない。

建築を建てるという行為は再編集性とは程遠いところに美しさがあると思うが、茶器の目利きをできる人が現代に少ないように、建築の編集できない価値のようなものは時代に忘れられていくのではないかと思う。というよりも再編集可能な建築空間がさらに人々に求められるのだろうか。
再編集性はデジタルの得意とするものではあるが、何か人間の美的な感覚を忘れているようにも感じる。

タンジブルなものを「建てる」というパラダイムからのシフト
「批評性としての社会性」という坂本先生の話、「地域性」に寄り添う妹島さんの建築、ヨコミゾマコトさんの「文化的地域遺伝子」そして青井さんの「中道態(内態)としての創作と3つの社会性」、どの話も共感するところ多く、また刺激も受けたのですが、一方で思ったのは、「建築は相変わらず建てることを前提として社会を捉えているのだなあ」ということでした。建築は、たしかに社会の中に物理的に置かれ、社会を触発し、影響を及ぼします。しかし、社会性socialをいう時、いま物理世界だけではなく、インターネットの中やヴァーチャルな世界での社会性の比重が大きくなってきています。建築はそういった社会性を考慮しなくてよいのでしょうか?
青井さんのお話に「3つの社会性」と言う話がありました。建築は、建築家が一人能動的につくるのではなく他者との協働とその力学系の変化で生み出されるもので、設計時から社会性を内在せざるをえず(=第1の社会性)、さらに完成された後は建築家の手を離れて利用者によって生きられていき別の社会性に開かれる(=第2の社会性)。しかしこのような他者を前提とした社会性があったとしても、建築家は建築をある時点で区切り「完成」させるのであり、この行為こそが彼を社会において「建築家」たらしめる(=第3の社会性)のではないか。
建築家とは、ある時点で建築を区切り完成させる人である。
これに対し、インターネットの世界は「完成」する感覚はうすく、継続的に変化していきます。その社会で育った、gen-Zやデジタルネイティブのモードは、その前の世代と比べはるかに継続的変化を前提としたモードになってきている。(テキストでも写真でも「再編集」へのハードルは小さくなっています)
UGCではコンテンツが民主化され、たとえ創業者であってもコントロールが難しい(ザッカーバーグはfacebookの「作者」でしょうか?)。ブロックチェーンではさらにプラットフォーマーという「神」を排除した分散型の社会が目指されています。また「所有から共有へ」というモードの変化もあります。こういう社会のモードの変化の中で、建築は何をしていくのか。その役割やモードはどう変わっていくのか。シンポジウムの場でも、若い世代の建築家は「署名による完成」をあまり重視しない方向にシフトしつつある、という話がありましたが、そもそも「建てる」すら前提としない社会との関係性の設計、「社会性」の議論の中に、そういう議論がもう少しあってもよかった。あの場にSAMPOとかがいたらどういう議論が展開されたのだろう。

書きたいこと考えたいと思ったこと

時間と密度の空間、非力ながら時間を歪ませること
空間を作ることは、時間に密度を与えることなのではないかと落合さんのnoteを読んでいて改めて思った。抗えない時間の流れを歪ませると言うのだろうか?タイムマシンのようにテックの暴力的な解決策ではなく、もうちょっと非力な人間の解決方法の良さみたいなところに興味がある。

記憶に残らないことと記憶に残るものの違いを作るのが空間であるとき、全ての行動が情報化記録化され一様にデータとなる時代に時間に記憶を作ることは何を意味し、空間はどう変わるべきなんだろうか?そこのところを考えたいと思った。

・建築に自らが向かう感覚を作る
いつしか竹原義二が「建築に与えられるのではなく、向かっていけ」と僕に言ったが、本当にそうだと思う。都市や建築はメディアとなり、人を黙らせて与えることに専念してしまった。そうではなくて我々から気がつく、向かっていくような建築空間をつくる、増やす必要があると思っている。眺めると観察するでは全然違う。観察する人を増やせる空間を作りたい。

・深澤直人の講義をまとめる
本当にいいセッションだった。内容から自分の立ち位置をまとめたい。

表紙はジュール・ゲランによるシカゴ・プラン。ドローイングがかっこいい。

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