家族でも、分かり合えないことがある
ホロスコープの話。
私は、太陽におうし座、月にうお座を持っている。
ところが、
我が家には、
おうし座、おとめ座、やぎの座
地の星座を持ってる人が極端に少ない。
そんなこともあってか、
この後に及んで家族とって私は
なかなかに理解に苦しむイキモノなのだそうだ。
母は、
「思考回路の仕組みがちっともわからないけど、
いいやつだと思っている。」
と言っていた。笑
(なんじゃそりゃ。笑)
核家族化が進んでる現代、
似た質の人が家族にいなくて孤独を感じたり、
大切にされていないと感じたりしてしまう人は
増えているのかもしれない。
私が家族の中でこじらせていたもの。
それは自分の持つ質の「異端さ」だった。
マイノリティゆえ理解されにくく、
尊重されにくい自分の本質。
だからといって
私が蔑ろにされたわけではなく、
ただ「違った」ということなのだと
今だから思う。
違うから、大切にする方法が違う。
愛し方が違う。
そのせいで抱えた深い孤独や、
分かってもらえないむなしさも
今でもたくさん残っている。
だから「違う」ということは時に残酷だ。
それでも。
「違う」と理解した上で
認め合うことはきっとできる。
そして、同質ならではの深い共感の中、
孤独を埋められる相手もこの世には必ずいる。
ということなんだと思う。
振り返ってみたら、
多感な中高生の頃
好きだったミュージシャンは
みんな地の星座だったのだった。
家の中に地の星座が少なくて、
地の星座マイペース成分が
満たされなかった私は、
知らず知らずのうちに音楽から
地の星座成分を吸収して、
心の安定を図っていたらしい。
自分の感覚が置かれた環境下で
いかにマイノリティでも、
満たされないものがあっても、
人はそこを埋める方法を自然と選び取れる
持ってるんだなあ、賢いなあと思う。
極端な場合、
この「違い」がもらたす傷は、
親殺し子殺しのような最悪の事態を生み得るのだと思う。
だから、小さな「違い」と侮ってはいけない。
ただ一方で、これはただの「違い」なのだ。
私たちは「違い」を抱えていても、
尊重し合える。
支え合える。
そして、「違い」を超えたいと願う心が、
新たしい世界に私たちを誘う。
「同じ」であることにほっとできる人たちと
分かり合うことも必ずできる。
そういうことなんだと思う。