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随筆『ぼくの好きな先生(男性篇)』

 中学三年の猛勉強のおかげでなんとか高校に入学できたぼくに、学校から連絡があった。入学式で新入生総代をやってくれというのである。あがり症だし、イ段がうまく発音できない(たとえば「キチガイ」と言おうとすると「チチガイ」になる)ので丁重にお断わりした。小説『大江戸フランケンシュタイン』を出版した時、お世話になった人から頼まれてしかたなくJAさんの成人式スピーチをやったのだが、そりゃあ悲惨なものだった。人前でのスピーチはほんとうに苦手である。
 ところで高校は普通科志願だったのに、数学の成績が良かったとかで造船科に編入させられた。自分はずっと文系だと言い張っていたが、実は高校は理系だった。理系の意識が希薄なのは、籍は造船科だが、進学クラスで文系の大学を目指していたからだ。当時部員ゼロだった文芸部を復興し、部長におさまった。
 その文芸部の顧問だったのが佐賀出身の長本先生。進学クラスの担当でもあられた。映画ファンで、日活ロマンポルノ『女教師』に主演した永島暎子の話になった時、知り合いが彼女の母校の八代高校の先生をやっているから、卒業写真をもらえないか頼んでみる、なんて本気とも冗談ともつかない話をやっていた。
 教頭の平山先生も映画ファンだった。長崎東高校の校長を定年退職してから、うちの高校に来られた。当時ぼくは長崎市の映画サークル《ムービー・ディック》の(おそらく)最年少会員で、平山先生もまた会員だった。教頭室にちょくちょく遊びに行って映画の話をした。学内で吉永小百合の『キューポラのある街』上映を決めたのは、ぼくと教頭先生ではなかったか?

 造船科の授業には出ていたが、授業の一部は免除された。たとえば、応用数学。教科書を一度も開いていなかったので卒業時でも新品同然で古本屋で売れた。微分積分が何なのかを最近まで知らなかったのはそういう理由である。
 担任の塚本先生は国語の先生で、ある時、授業で、安部公房の『詩人の生涯』をやった。先生の解釈に疑問を持ち、ぼくが異論を唱えたら、先生は黙って聞いてくれて、それから、
「うん。おまえの意見は素晴らしいと思う。だが、それでは授業が進まないので、授業は俺の解釈で進めさせてくれ」
 かっこいいなあ、と思った。
 塚本先生は大のジャズ・ファンでもあり、卒業後、友人たちと自宅にお邪魔した時、「おまえたちも大人になったんだからジャズを聴け」と、チャーリー・パーカーやらジョン・コルトレーンのレコードを貸してくれた。ぼくたちはそれを回し聴いた。チャーリー・パーカーはルイ・マル監督の『好奇心』で知っていたので、すぐはまった(たしか「オン・サボイ」のVOL.6だった) ところが次に聴いたやつがレコードを車の中に置き忘れ、熱で盤がぐにゃぐにゃに歪んでしまった。返すに返せずどうしようと思ったら、先生から返してくれと催促があり、返しに行った。
「ああ〜、おれのコルトレーンが……」
 本当に申し訳ないことをした。

 大学は長崎大学の教育学部社会科選考。ほんとうは文学部か心理学部、あるいは社会学部が志望だったのだが、県内にはなく、また翌年には弟も大学入試を控えていたので、地元の国立大学しか選択肢がなく、しかたなく社会科にした。
 ゼミは法学ゼミ。これもまた法学を学びたかったわけではなく、楽だときいたからだ。指導は舟越耿一教授。「授業も大事だが、社会勉強も大事」というお言葉に甘えて、あまり授業に出なかった。卒論は『法と大脳生理学』。法の生成過程と脳の認知機能の発達をクロスオーバーさせたもので、舟超教授からは「……SFだな」と言われた。
 なお舟越教授の現在の奥様は大学の同級生(ただしゼミは別)で中学の一年後輩である(ぼくが一浪したから)。

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