随筆『ぼくの好きな先生(女性篇)』
ぼくほど素晴らしい先生たちに恵まれた人間はいないかも
しれません。そうした先生たちとの出会いがあったから、
いまのぼくがある。ほんとうに感謝しかありません。恥ず
かしい話なんですが、そんな先生たちのことを伝え残した
くて書きました。
小学校6年生の時だ。買い物に出かけていた母が真っ赤な顔して帰ってきた。
「あー、恥ずかしか」
何があったのか尋ねると、会う人会う人から、おたくの息子さん、勉強ができるんですってねえ、と言われたらしい。
ぼくも驚いた。自慢じゃないが、勉強なんかぜんぜんできなかったからだ。
勉強ができたのは――たとえば、イワサキくん。ぼくと誕生日が同じなのは、ぼくと同じ病院の同じ病室で同じ日に産まれたからで、母親は、どうしてイワサキくんはあんなに勉強ができて、おまえはできないのか……とことあるごとに嘆いていた。イワサキくんの頭の良さは友達の間でも評判で、四面を本棚に囲まれた書斎で、難しい本を虫眼鏡を使って読んでいると、いう噂が立っていた。
いろいろ調べていくと、ぼくが勉強ができるという噂の出処が判明した。なんと、担任の松本先生だった。池内淳子似の松本先生がPTAの席で、○○くん(ぼくの本名)は中学になったら伸びますよ、と言ったのを、他のお母さんたちが勘違いしたらしい。
しかし、松本先生はなんでそんなことを言ったのか。どうもぼくのIQテストの結果が良かったらしいのだ。
しかし、本人はまったく伸びそうな気配を感じなかったので無意味な話と聞き流し、一方、母親は躍起になって噂の火消しをしてまわった。
中学生になった。一学期の前期テスト。嘘みたいなことが起こった。国語の点がクラスでトップだったのだ。そんなことは生まれて初めてで、夢でも見てるのかと思った。
国語の先生は担任でもある野田先生。結婚してすぐにご主人を事故で亡くされたそうで、それからは未亡人を貫かれていた。
テストは通常の国語のテストではなく、作文のみ。「内容に問題はありますが」と前置きしたうえで、野田先生は僕の作文を褒めてくださった。確かに、問題はあった。ぼくと母親の殴り合い、蹴り合いを延々と書いていたからだ。現在だったら、母親同伴で児童相談所に行くよう指導されたことだろう。
つまり、野田先生はぼくの文章、ひいてはぼくのアイデンティティを認めてくれた最初の人になる。
中学を卒業した後も、近くの商店街で母親とちょくとく顔を合わせることがあったそうで、そのたびに、ぼくはどうしてるか、文章を書いているか、尋ねてくださった。
しかし、いままで褒められたことがない人間が褒められるのは、諸刃の剣でもあった。
松本先生の言った通りじゃん。何も努力してないのに、いい成績を取れたじゃん。
ぼくはそれを言い訳に、以前よりさらに勉強をしなくなった。
当然のことだが、成績はぐんぐんさがり、ついには最下位近くまで落ちてしまった……。
中学三年になった。
高校受験であるが、ぼくの成績ではどこにも入れそうにない。それなのに本人はまったく危機感なく、授業中も漫画ばかり描いていた。
担任の先生は、女性の関先生。渋いチェック柄のスーツと、縁のある眼鏡が印象的な社会の先生。
夏休み前のある日、関先生に呼ばれて、橙色に染まった放課後の教室に行ってみると、同級生で優等生のタナカくんもいた。
「タナカくんが勉強を教えてくれることになりました」と関先生に言われた。
えっ、何のこと??? ぽかーんとしているぼくを、タナカくんが「頑張ろう!」と励ました。
……つまり、こういうことだ。関先生はぼくの成績を何とかしたいと思い、タナカくんに家庭教師を頼んでくれたのだ。それにしても、よく頼んだものだ。合格は揺るぎないといえ、タナカくんだって受験生なのに。
中学三年にして一次関数が何なのかも理解できなかったぼくに、タナカくんは辛抱強く、五教科すべてを教えてくれた。おかげで成績がぐんぐん伸びた。成績が上位なら伸び幅も小さかったであろうが、底の底だったので、ごぼう抜きだった。
内申書のせいで、高校受験は間に合わなかったが、結果的に、国立大学に入ることができた。大学生になって、クラス会で関先生に再会したら、ぼくは関先生の大学の後輩になったことがわかった。関先生が喜んでくださったことは言うまでもない。(タナカくんも大学は別だが同じ国立大生で、ぼくが肩を並べたことを喜んでくれた)
高校でも、塚本先生、長本先生、平山教頭、大学では舟越耿一先生と、良い先生に巡り会えたが、それはまた別の機会に。(男性だから後回し、というわけではない)。
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