小説「小間物屋を開く」最終回(全8回)
「肩の力を抜いてください」
「はい」
若くてチャーミングな女性インストラクターに言われて、パイプ椅子に座っていたぼくは、だらーんと肩の力を抜いた。しかし、
「抜いてください」
もう一度同じことを言われた。
ぼくは面食らって、「あの、抜いてますけど……」
「抜いてませんね。鏡、見てください」
「は、はい」ぼくは正面に置かれてある姿見を見た。「……抜いてるように見えますけど」
「抜いてないです。傾いてます」
「ああ、そういえば……」
言われてみれば確かに、左右の肩の高さが平行ではなかった。左肩が上がり、右肩が下がっている。そのことは以前にも指摘されたことがあった。免許証更新の証明写真撮影の時だ。しかし、自分では傾いているという意識がなく、たとえ傾いていたにせよ、それは自分にとって自然な形なんだと思っていた。
「どうすればいいですか?」
「意識して、肩を下に落としてみてください」
「は、はい」
ぼくは肩の力を抜くのではなく、意識して、押しつけるように、肩に下向きの力を加えてみた。
「そうそう。よくなりました。その感じです」
インストラクターは優しい笑顔でぼくを褒めてくれた。
いつの頃からか、ぼくは力んだ状態がデフォルトだったようだ。何をやるにも我武者羅(がむしゃら)で、自分でもワーカホリック気味とは思ってはいたけれど、これほどとは……。
★
退院してからも、ぼくはリハビリのため、病院に通っていた。ストレッチ、ウォーキング、筋トレはスポーツジムでもやっていたが、以前と同じ負荷をかけることは禁じられた。たとえば、ウォーキングなら時速4・5キロ。それまではランニング後のクールダウンの速度である。もう少し速度を上げても大丈夫な気はしたが、自分勝手な判断はせず、専門家の言うことに従順に従うことにした。
リハビリの一環として、リラクゼーションの講習を薦められた。NASA式のリラクゼーションだという。鼻で大きく息を吸い、口から大きく吐き出すのだが、吐き出す時は時間をかけてゆっくりと、肺の中の空気を残らず吐く。その時に肩の力を抜くことも教わった。
★
リハビリを終えて、病院の中庭に出てみようと思ったのは、窓の外がぽかぽかで暖かそうに見えたからだ。
ぼくは木のベンチに腰掛けて、余計な肩の力を抜き、新緑の香りを胸一杯に吸い込んだ。習ったばかりのリラクゼーションの復習だ。
目の前の石畳の上に、雀が一羽、どこからか飛んできた。チュンチュンと囀る雀に向かって、ぼくはにこっと微笑んで、それから手を振った。
雀は何の反応も示さず、ぷいっとどこかに飛び立った。
ぼくはもう一度大きく息を吸い、長い長い息を吐いた。
(了)
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