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連載小説「水戸黄門 千手殺人事件」(5)(終)

   5

 藤井紋太夫の墓があるというので訪ねてみた。
 場所は水戸藩邸跡の小石川後楽園から徒歩一〇分ほどの坂の上にある浄土宗の寺・傳通院でんづういん
 お墓のどこに藤井紋太夫の墓があるのかわからなかったので、お墓の入口にある繊月せんげつ会館で「参拝のしおり」を百円で購入。墓地見取図に1〜24まで番号が振ってあり、9番が「藤井紋太夫(水戸徳川家)」の墓とある。
 地図を見ながら、初代将軍徳川家康の生母・於大の方(1番)、堺屋太一(5番)まで進み左折、二代将軍徳川秀忠の長女・千姫(6番)、三田将軍徳川家光の三男・亀松君(7番)、その先に藤井紋太夫の墓があるはずなのだが……見つからない。
「おかしいなあ」
 周囲を行ったり来たりして探してみる。しおりには書かれていなかった六代将軍徳川家宣三男大五郎君、尾張中納言綱誠十四女嘉知姫、八代将軍吉宗二女芳姫、十一代将軍家斉十五男久五郎君、十一代将軍家斉御女子十六姫、三代将軍徳川家光公正室、六代将軍家宜長男家千代君、十一代将軍家斉八女舒姫、十一代将軍家斉九女寿姫、十一代将軍家斉十六男信之進君はあったが、藤井紋太夫の墓がない。石段を降りた先にもお墓が並んでいたのでそちらも回ってみたが、そこは徳川家と関係ない(と思われる)家のお墓だった。
 しかたなく繊月会館に戻り、作務衣を着た受付の女性に尋ねてみる。
「ああ、それでしたら、下に降りる石段の踊り場のところですよ」
 もう一度行ってみる。石段の踊り場の左右に墓はあった。その右側のが藤井紋太夫の墓で「光含院孤峯心了居士」という字が刻まれていた。藤井紋太夫の戒名だ。「光」は水戸黄門/徳川光圀の「光」。「孤峯こほう」は(ネットのコトバンクによると)一つだけ聳え立つ山の意で、張説の『梁六を洞庭山より送りて作る』という詩に出てくる。

   巴陵一望洞庭秋,日见孤峰水上浮
   (巴陵一望す、洞庭の秋 日に見る、孤峯の水上に浮ぶを)

 異国に左遷させられた作者の憂鬱な気分と故郷への憧れを詠んだものだそうだ。
 わたしは両手を合わせて藤井紋太夫の墓に拝んだ。紋太夫の冥福と、祟られないことを願って。

   6

「ふうん、それはちょっと気になるな」
 わたしの話を聞いた立眼関は腕組みしてうんうんと肯いた。「なぜって、水戸黄門が事件の直前に踊った能の題目『千手』とちょっと似たところがあって……うーん。偶然の符合なんだろうか、あるいは……」
「ちょっと待ってくれ」立眼関がわたしを置いてけぼりにして沈思黙考に落ちそうだったので、わたしは慌ててそれを止めた。「その前に『千手』がどんな内容か教えてくれないか」
 立眼関は意外な顔で、「おや。ぼくに本を渡す前、きみは読んでなかったのかい? 本文でたったの三ページしかなかったのに」
「読んだけど、よくわからなかった」
「それにしても、きみは変わった本を持ってきてくれた」
 と立眼関がベッドサイドから取り上げたのは、わたしが図書館から借りてきた『観世流・声の百番集6・千手』という本で、サイズは新書版でも四六判でもA判でもなく、真四角だった。
「これは本というよりレコードなんだよ。プレイヤーがなかったので聴けなかったが」
「確かに持ってきたのはぼくだけど、予約したのはきみだよ」
「ああ、そうだった。失礼」と立眼関は詫びてから、『千手』の内容を説明した。
「平清盛の子・平重衡たいらのしげひらは一ノ谷の合戦で源氏に捕われ、鎌倉へ送られた。この後、奈良で斬られることになっていたが、源頼朝は重衡を憐れんで、千手という遊女を重衡のところに遣わした。重衡は千手を通じて、出家の意志のあることを頼朝に伝えたが拒否された。千手は悲しむ重衡の気持ちを慰めようと踊りを舞い、いよいよ重衡が出発する時には涙で重衡を見送った――という話だ」
「水戸黄門が演じたのは、平重衡かい?」
「いや、シテの千手だ」
「重衡だったら、張説に近いかもしれないね。知らない異国に住む悲しさ……」
「ぼくだって二人と似た境遇だよ。ああ、早く退院して家に帰りたい……」
 その時、ぽつぽつと、雨が窓を打つ音が聞こえてきた。しんみりした気分を盛り上げてくれるお誂え向きの舞台効果。自然も憎い演出をするものだ。
 立眼関は気を取り直して、
「『千手』が動機解明のヒントになるかと思ったんだが、残念ながらよくわからない。それよりも、事件の疑問点をあげてみようと思うんだ」
「うん、それがいいね」
「第一に、鈴木氏も指摘しているところだが、水戸黄門が鏡の間に藤井紋太夫を呼ぶ時に、障子を閉めさせたり、人払いをした形跡があること」
「水戸黄門は口論の末に殺したと行っているが、そうじゃなく、計画的だったということかい?」
「その通り。口論ならふつう怒鳴ったり、叫んだり、口角泡飛ばして大きな声でやるはずなのに、次の間にいた井上玄桐は聞こえなかったと書いているんだ。ひそひそ声の口論から殺人に発展するなんてありうるだろうか?」
「実際の殺人事件を見たことはないけれど、ドラマだとぜったいにないね。ひそひそ声なら密談だ。悪代官と越後屋の」
「そうだね。今のが第二の疑問だ。第三は、殺害方法だ。膝で首を押さえつけて肋骨の上を刺す。玄桐はそこから骨盤まで刺し通せたかもと書いている。あまりに不自然なものだから、矢田挿雲は脇腹から反対側の脇腹へとアレンジしたくらいだ」
 わたしは椅子から立ちあがり、しゃがんで床に膝をつけて、実際にそのポーズを試してみた。
「うーん、できないことはないけど難しいね。だいいち、着物をきているから肋骨の上を刺すには襟元をはだけないといけない。右手で襟をはだけ、左手で刀を突き刺したってわけ?」
「まだある。抜く時に血は一滴も出なかったと書かれてある」
「普通は抜く時にブシュー!だけど、その後に、がらがらと音をたてて出たわけか」
「第四に、藤井紋太夫は家来なんだから切腹を申し付ければよいはずなのに、なぜわざわざ斬ったのかということだ。これは当時から疑問に思われていたようで、吉川英治の『梅里先生行状記』では、水戸黄門に陰謀の証拠を掴まれた紋太夫が追い詰められて、自分から手討ちにしてくれと涙ながらに頼んだことにしてある。水戸黄門は慈悲の心からその願いをかなえてやったと」
「うーん、無理があるなあ」
「何もなしに斬り殺した方がもっと無理がある、と吉川英治も考えたのさ」
「なるほど」
「第五に、藤井紋太夫の子どもたちの処置だ。子どもたちには罪なしと、藤田将監しょうげんに預けた。藤田将監は、吉川英治の本だと藤井紋太夫の悪の連判状に名前を連ねてるんだけど、とんだ濡れ衣のようだ。玄桐は、父を殺されたんだから子供に仇を討たれる可能性もあったんだけど、そのときは運命だったとあきらめるしかないと書いている。もっとも、子どもたちはその後、藤田将監の計らいで出家したそうだ」
「連判状が本物なら他にも手討ちか切腹した家臣がいると思うんだけど、いたの?」
「さあ」立眼関はひょいと肩をすぼめた。
「第六は、きみがお参りに行った墓だね。賊臣をどうして徳川家ゆかりの傳通院に葬ったのか。しかも戒名には自分の名前から〈光〉を与えた。身内か腹心の部下ならわかるけど」
「後悔の念かもしれないね」
「疑問点はそんなところかな」立眼関はそこで一息ついて、吸飲みの水を一口飲んでから、
「以上を踏まえて、事件を推理してみたいと思う。重要なのは三つ。
 一、事件はいつ起きたのか?
 二、事件はどこで起きたのか?」
「それは最初にきみが教えてくれたよ。何年だったかは忘れたけど、場所は江戸の水戸藩邸」
「具体的にはそうだけどマクロ的に俯瞰してみたいんだ。たとえば、水戸黄門の一生のどんな時期にあたるのか」
「ああ、そういうことか。で、三つ目は?」
「三は、その事件のせいでどんなことがあったのか。神津恭介の犯罪経済学じゃないけれど、計画的な犯行というものは何かしらの利益を期待して行われるはずだ。たとえば、お金を手に入れたいとか、恋人を独占したいとか。水戸黄門ほどの学識ある、しかも人生経験も豊かな老人が無計画にかっとなって人を殺すなんておかしいよ。だからみんないろいろ理由を考えてるんだ。じゃあ、実際に何かあったのか、なかったのか、調べてみないといけない」
「わかった。じゃあ、何からやる? って、一番めだな。〈いつ〉?」
「水戸黄門の人生の簡単なタイムラインを作ってみよう」
 鈴木氏の本の巻末の略年表を見ながら、立眼関が口で言ったことを、わたしはメモに書きとめた。(年齢は数え年)

 一六二八年(寛永五年)   一歳 水戸で生まれる。
 一六三三年(寛永一〇年)  六歳 江戸の水戸藩邸に移る。
 一六五四年(承応二年)  二七歳 結婚。
 一六五七年(明暦三年)  三〇歳 『大日本史』の編纂をスタート。
 一六六一年(寛文元年)  三四歳 二代水戸藩主となる。
 一六六三年(寛文三年)  三六歳 甥の綱條を養子とする。
 一六六五年(寛文五年)  三八歳 舜水朱を水戸藩に招く。
 一六九〇年(元禄三年)  六三歳 水戸藩主を綱條に譲り、水戸に隠居する。
 一六九一年(元禄四年)  六四歳 水戸の西山に山荘を作り住まう。
                  瑞龍山の『梅里先生墓』を建てる。
 一六九二年(元禄五年)  六五歳 侍塚古墳を発掘調査。
 一六九三年(元禄六年)  六六歳 犬の毛皮を綱吉に献上したとの噂が広まる。
 一六九四年(元禄六年)  六七歳 綱吉の命により江戸に出る。
                  藤井紋太夫を刺殺する。
 一六九五年(元禄七年)  六八歳 江戸を出て、水戸に帰る。
 一六九六年(元禄九年)  六九歳 髪を短くして仏教に帰依。
 一七〇〇年(元禄十三年) 七三歳 西山で没。

「これを見てどう思う?」と」立眼関が尋ねた。
「事件が起きたのは水戸に隠居した後だったんだね。いや、隠居後に知り合った井上玄桐がいたんだから、その前ってことはありえないんだけど。そして、綱吉に呼ばれて江戸に滞在している間に事件は起きた」
「うん」
「ところで、梅里先生墓って何だい? 死ぬ前に墓を作ってたってこと?」
「そうらしい。墓に刻む文面も自分で考え、他人に添削してもらったとか」
「どんなことが書かれてるの?」
「自分の略歴だ。結びにはこう書いてあるらしい」立眼関は鈴木氏の本を開いて、その部分を読みあげた。「〝月は瑞竜の雲に隠れるといえども、光はしばらく西山の峯にとどまる。碑を建て銘をろくするはぞ。源の光圀。あざな子竜しりゅう〟」
「あれれ!」わたしは驚きのあまり素っ頓狂な声を上げた。「〈光〉と〈峯〉――藤井紋太夫の戒名に使われてる字が二つも出てきた」
「本当だ」立眼関も意外な顔をした。「紋太夫の戒名をつける時、無意識に、自分の墓に刻んだ句が頭をよぎったんだろうか……」
「それにしても綱吉はどうして水戸黄門を江戸に呼んだんだろう? まさか、犬の皮の噂を真に受けてってことはないよね」
「あるもんか。だって送られたとされてる当人なんだから」
「じゃあ、何で?」
「重要なことだと思うから、その詳細を鈴木氏の本から拾ってみよう」立眼関は鈴木氏の本の付箋のついた別のページを開いて、「水戸黄門が綱吉から江戸に参府するよう言われたのは元禄六年の十二月。伝えたのは、江戸にいた藤井紋太夫。この時は水戸黄門の部下ではなく、三代目藩主・綱條の部下だった。それに対して水戸黄門は幕府老中の阿部正武に、健康上の理由から辞退したいと手紙を送ったが、かなわず、翌年二月二十八日、水戸を出て江戸に向かった。気が進まなかったんだろう、わざわざ遠回りして、小石川の水戸藩邸に着いたのは三月四日。三月六日、老中阿部が挨拶に来るが、何のために呼んだのかの説明はなし。十五日、ようやく江戸城で綱吉と三年ぶりの再会を果たすが、とくに格別の話はなし。その後も音沙汰無しの状態が続き、不安になった水戸黄門は従兄弟の紀伊藩主・徳川光貞に手紙で相談したところ、前にも話したけど、柳沢吉保に取り次ぎを頼んで、綱吉と二度目の対面。それが四月二十六日のこと。ところがそこで、徳川一門や前田・井伊らの大名と一緒に綱吉の『論語』講義を聴かされた。この綱吉の講義、月に何度も、場内に何百名も集めて、時には大名の江戸邸、幕臣の私邸まで出張してやってたそうだ」
「みんな迷惑だったろうなあ」をあたしが言うと、
「そりゃあ迷惑だ」と立眼関も言い。ふたりはで苦笑した。
「綱吉は水戸黄門にも『大学』の講義をするよう命じた。水戸黄門はこの時のことを知り合いの今出川大納言に送った手紙でこう書いている。〝「光圀儀も即席において講談御所望のところ、首尾よく相つとめ、怡悦いえつのいたりにござ候」〟」
「綱吉に褒められて嬉しかったのかな?」
「嬉しかったというより、ほっとしたのかもね。それから能楽、饗宴があって、文台、硯箱をもらってその日は終了。ところがまた八ヶ月間、音沙汰なし。次に登城したのは十月三〇日。またもや綱吉の『論語』講義を聴かされた。その後、綱吉から何か能を演じてくれと頼まれ、水戸黄門は『葵上』を舞った」
「六条御息所になって綱吉に取り憑きたかったのかな」
「そうかもしれない。で、唐織五巻を貰って帰る」
「藤井紋太夫を殺したのはその一ヶ月後だね、そういえば『千手』を踊る時唐織を着てたって言ったけど、その唐織で作ったのかな?」
「どうだろう」
「で、水戸黄門は江戸にはいつまでいたの?」
「次の年の一月十六日だ」
「えーっ! じゃあ、事件のたった二ヶ月後じゃない!」
「本当だ!」立眼関もびっくりしたようで、驚きを隠せずに、鈴木氏の本をもう一度見直した。〝「病もあれば封地ほうちまかりて心のままに身を養わるべき」〟と幕府から帰国の許可が出たのは十二月二十五日……。つまりだよ、
 十月三十日   綱吉の前で能『葵上』を舞う
 十一月二十三日 能『千手』を舞った後、藤井紋太夫を殺害
 十二月二十五日 幕府(綱吉)から帰国の許可がおりる
 一月六日    江戸を出る
 ……もしかしたら、綱吉が帰国を許可したのは、藤井紋太夫事件のせいかもしれない。綱吉は武士の刃傷沙汰が大嫌いなんだ。将軍就任当初、先代・家綱の法事の場で大名の殺人があったりしたから。赤穂浪士の事件だって厳しく処罰した。〈病〉というのも体の病ではなく心の病を指すのかもしれない」
「じゃ、じゃあ、もしかして、水戸黄門は水戸に帰りたくてわざと殺人事件を?」
「犯罪経済学的観点から考えるとその可能性は高い。いや、もしそうだとすると、殺人かどうかもわからないぞ!」
「どういうこと?」
「狂言殺人さ。事件の疑問点、事前の人払い、ひそひそ声の口論、不自然な刀の刺し方、抜いても血が流れなかったこと、残された子供の扱い、そして自分の名を入れた戒名をつけ、徳川家ゆかりの墓に埋葬したこと……」
「ちょっと待って。ぼくにもわかるようひとつひとつ説明してくれないか」
「すまんすまん。つい興奮して先走ってしまった。じゃあ、わかりやすいようドラマ形式で説明してみよう。十月三十日、水戸黄門が江戸城から水戸藩邸に帰ってきたところから。迎えた藤井紋太夫が水戸黄門にこう尋ねる。
『光圀様、いかがでしたか?』
『急に能を舞えと言われて困ったよ』
『で、何を演じられました?』
『葵の上だ。もっともかなり間抜きしたんだが、さいわい気づかれなかった』
 水戸黄門は能を演る時に間を抜きがちなことは井上玄桐が書いている。
『褒美まで頂いた、ほら、これだ』
 と、水戸黄門は唐織五巻を紋太夫に見せる。
『どうやら将軍様のお気召されたようですな。よろしゅうございました』
『とんでもない。お気に召されたのは光栄だが、毎回毎回何かやれと申される。しかも、ずっとほっておかれ、忘れた頃に来いという。ああ、早く水戸に帰りたい』
『病気を理由にお暇を頂いてはどうですか?』
『だめだ。病気なら江戸参府の断りに最初に申し上げたのに取り合ってもらえなかった』
『そうですか。それは困りました。だったら、将軍様に嫌われることをしたらいかがでしょう。たとえば、町で言われてますように犬の皮を贈呈するとか』
『ぶるる。おそろしいことをいう。そんなことをしてみろ。水戸藩がお取り潰しになるかもしれん。お取り潰しとはまではいかずとも、遠い地に国替えになり、参勤交代を義務づけられたら、水戸藩は破産だ。そんなことになったら綱條に申し訳ない』
『では、他のことで。そうそう、将軍は武士や江戸町民の殺伐粗暴がお嫌いなようです』
『それはわしもだ』
 若い頃、非人を斬ったというのは、水戸黄門本人が言ったことで、もしかしたらこの事件の伏線のために言った嘘かもしれない。
『でしたら、こういうのはいかがでしょう。光圀様が拙者をお手討ちいたすのです』
『ば、ばかなことを言うな。なんでおまえを手討ちにせねばならん。罪なき者を手討ちでもしたら気が触れたと思われる』
『そこです。気が触れた、気の病だと思わせるのです。それを知った将軍様はきっと光圀様をお嫌いになり、病気療養のため、帰国を認めてくださるでしょう』
 もし家臣に切腹を命じたのなら、あたりまえのことで、気が触れたとは思われないよね。また、そんな悪いことをしたら斬られてもしかたがないと万人に思われてもいけない。通常、犯人は自己保身の心理から、連判状みたいな証拠があるのならそれをみんな見せるだろうし、なかったら捏造するところを、水戸黄門は何もしなかった。それは狂ったように見せたかったからじゃないのかな。
『しかし、そのためにおまえは死ぬというのか……』
『いいえ。死にません。芝居を演じるのです。能の小道具の刀を用いましょう。木製で銀箔を貼ったもの。それを拙者の着物の中に襟元から差し込みます。そして抜いた後に拙者が腹に隠した袋を押し、中に入っている赤い液体を噴き出させます。練習を積めば、きっと本当に斬ったように見えるでしょう』
 リアルに考えたら、人を斬るなら真っ向斬りとか袈裟斬りだが、それだと細工がしにくい。もちろん、首を刎ねるなんて論外だ。襟元に刀を差し込むという不自然な斬り方をしたのはそのためだ。当時の武士はさほど殺傷の現場を見ていないはずだから、それで十分騙せたと思う。
 毛氈で死体を隠したのは、紋太夫が生きてることを隠すため。
 あえて能の催しの日を選んだのは、家人が客の饗応に忙しいのを狙ってやったんだな」
「藤井紋太夫は実は死んでいない。死んだように見せかけたトリックだったってわけか」
「もっとも、この仮説を立証するには、藤井紋太夫がその後も生きていたという証拠を見つけないといけない」
「生きていたとしたら、どこだろう?」
「息子ふたりが出家したとあったね。同じ寺にいたのかもしれない。水戸黄門と関係の深いお寺はいくつかあるから、事件直後、出家した者はいなかったか。もしそれが孤峯って名前なら紋太夫の可能性は非情に高い」
「『千手』も紋太夫の戒名の孤峯も、江戸にはいたくない、早く水戸の西山に帰りたいというメッセージかもね」
「そもそも人材発掘に秀でた水戸黄門が、後々自分を裏切るような者になるような人間に目をかけるかって話だ」
「そうだね」わたしもうなづいた。「ああ、その仮説が本当だったらいいなあ。それで冤罪がとけ、名誉回復できれば、藤井紋太夫も浮かばれる」
 窓の外、いつしか雨をやんでいて、虹がかかっていた。その虹の上で、西村晃の黄門様が誰だかわからない藤井紋太夫を従えて、かんらかんら明るく高笑いしている姿が思い浮かんだ。

(了)

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