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マイ・ライフ・アズ・ア・リビングデッド #1

1、平和の町に生まれて

 私が生まれたのは昭和三十四年(一九五九年)十二月十三日、長崎市の、長崎大学病院とは道路(現・医学部通り)を挟んだ山里町であるが、現在、この町は、町名が平和町に変わっている――というのも、この場所は原爆落下中心地、平和祈念像のある平和公園、さらに浦上天主堂のすぐ近くだからである。それまで、新地中華街にほど近い十人町に住んでいた一家がここに越してきたのは昭和二十六年(一九五一年)のことで、原爆落下から既に六年を経ていたものの、周囲はまだ焼け野原のありさまで、私の祖父・清次郎はそこに土地だけ借り、別に購入した二階建ての家屋を解体して、リアカーで運び、移築したのだが、それを誰の助けを借りず独りでやったというの驚きだ。清次郎は休む間もなく、引っ越しの挨拶回りをしていたが、十一月十五日、出向いた先で突然倒れそのまま亡くなってしまった。歿年四十九歳。残留放射能の影響があったのかどうかはわからないが、そもそも家族全員、十人町で被爆していた被爆者であった。

 母が嫁いだのはその後で、当然、母は祖父のことを知らない。妊娠すると正面の長崎大学病院に入院した。同室に岩崎さんという人がいて、後にその子と小中学校(西北小学校、岩屋中学校)で同級生となるのだが、彼は天才の誉れ高く、部屋には本がぎっしり並んでいると噂されていて、母は何かといえば「岩崎くんは」「岩崎くんは」と比較するので余計勉強するやる気が失せた。

 出生時の体重がかなり大きかったようで健康優良児のコンクールに出された。優勝間違い無しと目されていたらしいが、最後のハイハイ競争でルートを大きく逸れて落選したと母から聞いた。ドロップアウトの人生は既にこの時から始まっていた。ちなみに小学校低学年までは、整列すると一番後ろだったのが、徐々に前になり、高校ではとうとう最前列になってしまった。伸び悩み、というわけだ。

(つづく)


写真 昭和三十五年五月二十三日、平和祈念像の前で母に抱かれて


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