随筆『鉄道の見えるパノラマ』
弟が産まれるのをきっかけに、わが家は原爆爆心地のすぐ近くの坂本町から、若竹町に引っ越すことになった。それまでは借地だったのだが、新しい家はそうではなく、土地も家屋も自分のものだった。小山のちょうど真ん中に位置し、上と下から宅地造成をしたために、うちの目の前にある林は建機が入り込めなくなり、手つかずのまま取り残された。整地していれば家十軒はゆうにおさまるその林の一部を母は花畑に変え、また、崖の上にあったパチンコ店の社長は要らなくなったパチンコ台を不法投棄していた。ぼくはその中から一台を家に持ってかえり、ともだちを招いてパチンコに興じた。手打ちのパチンコだから時間をかけて、一球一球に集中してやっていたのが、大学生になって先輩に連れていかれたパチンコ屋は、電動で、あっという間に球を打ち尽くし、パチンコはそれっきりやったことはない。
林を抜けた先には二軒長屋の市営住宅があり、そこに母の弟にあたるおじさん一家が住んでいた。間には高い崖があったのだが、父が丸太で階段を作り、草刈りもして、行き来できるようにした。ぼくと弟、それにいとこたちはその途中にあった、大木の陰に隠れた洞に、めいめい好きなおもちゃを持ち寄って、秘密基地にして遊んだ。ところが母とおじさんはしょっちゅう喧嘩して、そのたびに林道の入口に柵が設けられ、通行を禁じられた。
山の途中なので石段の登り下りはきつかったが、そのぶん、見晴らしは良かった。原田貴和子・知世姉妹も通った小学校の向こうには、長崎本線が斜めに横切り、ディーゼル機関車、たまに蒸気機関車も走った。父は鉄道ファンだったので、もしかしたらこの眺めが欲しくて、この土地に決めたのかもしれない。
ぼくと弟は平日の夕方になると、その長崎本線と併走する国道二〇六号線に向かって縁側から手を振っていた。母の妹のご主人であるおじさんが運転する鉄工所の従業員送迎バスが、その時間ピッタリに通過していたのだ。かなりの距離で顔は見えなかったが、ライトをぴかっと点滅させて応えてくれた。
ある時、嘉穂で大衆演劇をやっているという遠い親戚のおばあさんがふらっと家を訪ねてきた。父親と何やら話しこんで、内容はよくわからなかったが、夕焼けで茜色に染まった広大なパノラマを背景に、二人の姿がシルエットになって見えたのが、なぜだか記憶に鮮明に残っている。
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