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連載小説「水戸黄門 千手殺人事件」(2)

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 さしあたって、わたしが図書館から借りてきたのは、次の二冊だった。

 鈴木一夫『水戸黄門-江戸のマルチ人間・徳川光圀-』(中公文庫)
 矢田挿雲『水戸黄門』(鱒書房)

 本を渡してから三日後、ふたたび見舞いに行ったら、立眼関はもう本を読み終えていた。
「矢田挿雲の本、表紙に〈歴史新書〉と書かれてあるが小説だったよ。鈴木氏の方は、ネットでの好評も肯けるすばらしい評伝だった」
 と立眼関は満足そうな笑みを浮かべて言った。
「そりゃあ良かった。で、殺人事件のことを書いてあったのかい」
「もちろん」
 立眼関はベッドサイドに置いていた鈴木氏の『水戸黄門』を取り上げて、付箋をつけたページを開いた。一六六頁、太ゴシックで「藤井紋大夫刺殺事件」と書かれてあった。
「事件が起きたのは元禄七年十一月二十三日、西暦に直すと年が明けた一六九五年一月八日になる。事件現場は小石川の水戸藩邸。現在は東京ドームの隣りにある小石川後楽園になっている」
「ああ、後楽園。あそこって水戸藩邸だったんだ。ずいぶん広いところだよね。池も森もあるし。へえー、あんなとこに住んでたのかあ」
「被害者は藤井紋太夫ふじんもんだゆう。この本では太夫を大夫と書いて〈もんだいふ〉とルビを振ってある。水戸黄門の側近だった井上玄桐いのうえげんとうという人が記した『玄桐筆記』からの引用だそうだが、ぼくが入手した、明治四十二年発行の千葉新治編『義公叢書』に載っている『井上玄桐筆記』は〈藤井紋太夫〉となっている。まあ原書や写本、いろいろあるみたいだから表記の揺れがあるんだろう」
「表記より、そんな古書、いったいどこから入手したんだい?」
「国会図書館だよ」立眼関はしれっとした顔で答えた。
「国会図書館って貸し出し禁止じゃなかったっけ?」
「国立国会図書館デジタルコレクションというのがあってね、パソコンで閲覧できるんだ。この『井上玄桐筆記』は、同時代に書かれた一次資料であるばかりか、事件の目撃者の生の証言でもあるからとても貴重だよ」
「信じられるってわけだね」
「いや、それはどうかな。都合の悪いことは書かなかったり、場合によっては捏造することもありうるから」
「じゃあ、何を信じたらいいんだ?」
「まあ、それはひとつひとつ検討していくことにしよう」
「わかった。ええと、犯行日時に犯行現場、それに被害者が誰かまでわかったから、次は犯罪にいたるまでの経過か」
「それは井上玄桐が詳細に述べている。事件当日、水戸藩邸では能の催しが開かれていた。水戸黄門も唐織を着て『千手』という能を舞ったそうだ。その後、平服に着替え、鏡の間まで藤井紋太夫をつれてくるよう、玄桐に命じた。鏡の間には水戸黄門と藤井紋太夫の二人だけ、一段低い別の間に、井上玄桐、三木幾衛門、秋山村右衛門が控えた。そこに歩行目付かちめつけの海野三右衛門という者がやってきて、玄桐は海野と話をしながら鏡の間を窺い見ると、水戸黄門の姿は見えたが、紋太夫は屏風の陰に隠れて見えなかった。声も聞こえなかったが、問答をかわしている様子だった。ところが、次に見た時、水戸黄門が紋太夫の方にぐっと詰め寄った。玄桐は異常に気づき、そばへ寄ろうとした。それより先に三木と秋山が鏡の間に飛び込むと、水戸黄門が膝で紋太夫の首を抑え、声が出ないようにし、缺盆けつぼん――首の前の部分、鎖骨のすぐ上の大きくへこんでいる部分だな――そこを刀で刺したところだったそうだ」
「そうだ、ってことは玄桐が自分の目で見たわけではないんだね」
「そのとおり。後で聞いた、と本人も書いている。実は紋太夫は逃げようとしたが三木が押し留め、秋山が話を聞こうとしたという人もいたそうだが、自分はその場にいなかったのでわからない、という注釈まで。ちなみに凶器に使われた刀は法城寺正弘が打った菖蒲造り。切れ味がすごくて五枢ごすう――腰の骨盤のあたりだな――まで通るはずだと書いてあるが、おそらくそれは誇張だろう。膝で首を押さえた状態で首から足に垂直に刺すのはちょっとできそうもないからね。井上玄桐が部屋に入ったのは二刀目を差し込んだ時だ。傷口を紋太夫の着物で押さえていて、刀を抜く時は血は一滴もこぼれなかった。その後、もうよいだろう、と水戸黄門が言ったところで、激しい音とともに血が流れ、紋太夫はこときれた」
「音を立てたって、ブシューとかかな?」
「どうだろう。玄桐は〈がらがら〉と表現している」
「がらがら?」
「古語だから現在の意味とは違うんだろうけど、ひょっとしたら、うがいの音に似てたのかもしれない。紋太夫を殺した後、水戸黄門は毛氈もうせんの敷物を紋太夫の死体にかぶせ、目付と用人を呼んだ。その時、水戸黄門は彼らに、口論の末、殺してしまった。集まった客たちには秘密にしてほしいと頼んだそうだ」
「客が知ったら大騒ぎになるものね。でも、現代なら考えられない話だな。人ひとり殺してお咎めなしだなんて」
「水戸黄門が人を殺したのはこれが最初じゃないんだよ。若い頃、夜更けに浅草の堂で休んでいると、連れの者が、この床下は非人たちの寝床になっている、引っ張り出して試し斬りしてやろうと誘われた。水戸黄門は最初は断ったものの相手に嘲けられ、一人を引きずり出し、前世の業と思えと言って斬り殺したんだそうだ」
「罪のない人を! ひどい! それは無差別殺人だ」わたしは憤って声を荒げた。「でも、玄桐はそれを見たわけじゃないよね」
「そうだね。玄桐が水戸黄門と知り合ったのは水戸黄門が隠居した後だから」
「じゃあ水戸黄門本人が言ったことか。武勇伝のつもりだったのかもしれないが許せない話だ」
 わたしの中で、かんらかんらと豪快に笑う水戸黄門の声が、悪魔の哄笑に変わりつつあった。

(つづく)

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