掌編小説『ビルディング』
見上げると、ぼくが上京した時からずっと屋上に鎮座していた巨大クレーンがイリュージョンのように消失し、代わりに、八月の澄みきった青空がカキーンと抜けて見えていた。「安全第一」と書かれた現場シートも取り払われ、露わとなったビルディングの外壁は品のあるグレーで、改装というより再生と言った方がいいかもしれない。
リリューアルオープンセールが目当てなのか、駅前はいつにもましてごった返し、立ち止まって頭上を見上げていたぼくは、押し合いへし合いする人波の邪魔でしかなかった。しかたなくぼくは、本来の目的地である改札を目指すことにした。
半年前、ぼくはここでアルバイトをしていた。真夜中にヘルメットをかぶって、このビルの前で立哨していた。いわゆる、交通誘導警備員というやつだ。日中、居眠りしていたクレーンが目を覚まし、腕をまくり、力こぶを誇示して、到着した資材をワイヤーで吊り上げる。安全には万全を期しているが、もしもの時のため、クレーンの真下を人が通らないよう、歩行者に注意を喚起するのがぼくの仕事だった。夜だから当然酔客も多く、からかわれることも少なくなかった。また、警察官に間違えられて道を尋ねられることもあった。相手が日本人なら話してわかるが、ある時、中国人のおじさんからたどたどしい日本語で、「私の知り合い、店やってる、案内して」と訊かれた時には閉口した。その知り合いの店がどこだか知らないうえ、立っている場所から離れることも許されない。さんざん押し問答を繰り返した末、中国人のおじさんは、「あなた、ひどい人!」と立腹して立ち去った。もしかして相手が中国の偉い人で、ぼくの取った行動で日中友好がぎくしゃくするようなことになったら申し訳ない。
中に入る前、ぼくはもう一度、青雲へと伸びるビルを見上げた。警備員をしただけなのに、すくすくと成長した我が子を見るようで、妙に誇らしかった。
(完)
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