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小説「小間物屋を開く」第7回(全8回)

 三鷹通りの桜は満開だった。
 ぼくはバスの中でその壮観さに圧倒されていた。
「綺麗ねえ」
 と隣に座っていた奥さんも言った。
 ぼくは「うん」と相槌を打った。ただ綺麗なだけではなかった。四月の陽光を受けて白く輝く花びらと、雄々しい幹は、高らかに生を謳歌しているように見えた。死にかけたからこそ、余計そう思えるのかもしれないが――。

 退院までに一ヶ月近くを要した。ずっと寝たきりだったから、日常生活に戻る前にリハビリをする必要があった。具体的には、歩行訓練だ。初めて車椅子から立ち上がった時、すっかり筋力の衰えていた二本の足は重力をずしりと感じ、その場に立ち竦んでいた。
 リハビリ担当のトレーナーさんは十五メートルほど離れた病棟の廊下の端を指差して、「あそこまで歩いてみましょうか」と促した。
「は、はい」
 ぼくはおそるおそる、最初の一歩を踏み出した。たちまち、よろけそうになった。
「大丈夫ですか?」
 トレーナーさんが心配して訊く。
「は、はい、何とか……」
 一歩、一歩、踏みしめるようにして歩いた。'歩む'という行為が生易しいものでないことをぼくはこの時、初めて知った。
 廊下の端に着いた時、窓の向こうに巨大な円形の建造物が見えた。見覚えがある建物だった。一年前、娘と雨中、サッカー観戦したスタジアムだ。病院の名前と住所は聞かされていたが、それがどこにあるのか、まったく分かっていなかったのだが、この時、やっと理解できた。自宅からは随分遠い場所だった。

 当然のことながら病院内は禁煙だった。チェーンスモーカーのぼくには耐えられないと思われたが、案外そうでもなかった。どう足掻いたところで吸えないものは吸えないのだ。こんな酷い目に遭ったのもタバコのせいなのだと思うと、吸いたい気分もどこかに失せてしまった。しかし、四半世紀近い付き合いだ。体が勝手に動いてしまう。バスの中で、ぼくの指は無意識に唇の前でVサインを作っていた。
「何してるの?」
 と奥さんに訊かれて、ぼくは我に返った。
「あ……」
 花見気分がそうさせたのだろうか。ぼくは慌てて手を下ろしかけたが、思い直して、そのままにした。そして、空気を肺いっぱい吸い込んで、吐いた。
「エア煙草」
 とぼくは答えた。
 奥さんは呆れ顔だったが、ぼくは、うまいこと言った、と得意げだった。「エア煙草っていいよね。バスの中で堂々と吸える。それに金だってかからない。いいことだらけじゃん」
「はいはい」奥さんは億劫そうに頷くと、窓の外の桜並木に目をやった。

 終点の三鷹駅前でバスを降りた。
 ぼくは病院で履いていたスリッパを突っかけていた。ファッションではない。奥さんが靴を持ってくるのを忘れたからだ。
 家の近くのバス停でなく、終点で降りたのは、食事をするためだった。味のしない病院食から解放されて、スタミナ満点のがっつりしたものを食べたい気分ではあったけれど、あいにくぼくは、立川談志や赤塚不二夫のような豪放磊落(ごうほうらいらく)さを持ち合わせてはいなかった。心臓病に良いと本に書いてあった焼き魚定食がいいだろうと、以前のぼくならまず入ることはなかったろう定食屋の暖簾を潜った。味噌汁、漬け物、焼き魚。どれも味がしっかりついていた。ぼくは一口一口、噛みしめて食べた。焼き魚定食一つでも幸せになれるんだと感激しながら。
                               (つづく)


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