日本は何を恐れているのだろう?
昨日は東京オリンピック2020の閉会式だった。オリンピックの何かの種目をリアルタイムで観戦してはいなかったが、たまたまその時間に家にいて、家から国立競技場も近かったため、見えるかもー?ということで、中継を見始めた感じだった。
終盤に、次回開催地であるパリへの引継ぎ式というものがあり、その中でパリの映像が流れていた。
引用は、RBB Todayさんの記事からだが、僕はこれを見ているとき、普通にプロモーション用の動画で、これだけ密に人が集まっているのだから、3年くらいまでに撮られたものだろうと勝手に思っていたのだが、どうやら、リアルタイムの中継だったようだ。
後でFacebookの友人の投稿を見ていると、どうやらこの会場に集まっている人たちは、陰性証明を取った人たちのみ6,000人規模らしい。
これを見て、タイトルにも書いたことをふと思った。「日本人は」と書いているが、どちらかというと「日本に存在する組織の多くは」とでも表現した方が正しいかもしれない。しかし、日本の文化に根差したものも影響しているはずなので、寛容な気持ちでお付き合いいただきたい。
例えば、こういった集まりを決定する場面を想像してみよう。オリンピック委員会の偉い人が決定権を持っており、その部下の人たちが色々なアイデアを協議し、リスクを考えたりメリットや打ち出したいメッセージを盛り込みながらまとめ上げていくのだろう。そして、最終的に決定権を持つ人(たち)が「よしこれで行こう!」と決める。この決めるときに、決定権を持つ人たちが何を考えているのだろう?ということを想像してみてほしい。
小池さんの顔を想像してもいいだろうし、菅さんや阿部さんの顔を想像してもいいだろう。そして、その同じことは、フランスでも起こっている。日本に来ていたパリの市長は小池さんとだいたい同列の人だろうし、中継の中で喋っていた大統領の人は、首相とだいたいおんなじくらいの権威と思って考えてみよう。
さて、今回の閉会式での中継のイベントの案を考えたのが誰かはさておき、市長や大統領はもちろん出演もしているのだから、その案について決定権を持っていただろう。同じ案を小池さんや菅さんのところに持って行った時に果たして、彼ら/彼女らは「よしやろう!」と言えるだろうか??
まぁ、皆さん、言えないと思うだろうが、じゃあなぜ言えないんだろう?というのが、本論の趣旨です。前置きが長くなりました。
何かのアイデアを検討するとき、もちろんメリットとデメリットを考えますよね。今回は特にデメリットに焦点をあてて考えてみます。
日本でよく目にするのは、「変な指摘を受けたくない」とか「失敗をしたくない」とかそういうことなんじゃないか、そんな風に僕は思っている。そうなると、採択したくなるのは無難なアイデアか、問題を先送りにするようなアイデアだ。
陰性証明を持っている日本人だけ6,000人を閉会式の会場に入れる!?ふざけるな!ネットで叩かれるじゃないか!しかも、そのオペレーションに誰が責任を持つんだ!?却下だ、却下。
そんな心の声が聞こえてくる気がしませんか?オペレーションの方法なんて、その時点では考え切れていないかもしれないし、前例ももちろんない。でも、考えることはできる。それに、ネットで叩くやつもいるかもしれないけど、「日本もよくやった!」そんな声も絶対上げてくれますよね。
アイデアを検討する時にはそんなことよりもネットで叩かれたら、「ケチがつく」ということなんじゃないかと色々なケースを見ていても感じます。そんな風に感じるからこそ、ため息しかでない。
ここで、またフランスのことを想像してみよう。フランスは同じようなアイデアを市長/大統領が決定している。当然のように、上記のようなデメリットも二人の頭に浮かんだだろう。しかし、二人はGoサインを出した。賛否両論が巻き起こることはだれにでも想像できるが、その否定の意見を対応可能なものとして認めたわけだろう。
ここからは、僕の個人的な想像が強くなっていくが、日本では否定の意見が、肯定の意見よりも比重が重く、忌避されやすいのに対し、フランスでは否定の意見も一つの意見として肯定の意見とさほど比重が変わらないものとして考えられているのではないだろうか?
日本では、この否定的な意見の比重が重たいことによって、さらに確かに、その否定的な意見の一つ一つを、色々な人が面白おかしく取り上げることで、比重の重さを確かなものにすることで、足を引っ張り合っているようにしか思えない。そんな状態では、よりよい成果が生まれるはずもなく、無難な、そして問題を先送りにするようなアクションしか取れなくなっていくだろう。寂しいことだ。
僕はこの違いに、日本の島国文化、フランスの大陸文化の違いを見る。もともと色々な意見や考えが存在していることが当たり前の大陸文化では、否定的な意見も、肯定的な意見もそこに存在することが当たり前すぎるのではないだろうか。島国文化では色々な意見が存在するということがうまくカモフラージュされて、見えにくくなってしまっているのではないか?これが、個人的な一つの考えである。
結果がどうなろうと、このコロナ禍の中で、6,000人の密な状態を創り出すことができたフランスの状態に、僕は静かに拍手を送りたい。