115 聞かれるまで怨念が残る
おちょこみたいな器の大きさの自分にとって、ここ数年、ずっと抱えてもやもやしていることがあるのです。
で、そのことにもやもやしている自分に自己嫌悪もあるし、相手の人をひどく罵りたい(ののしりたい)気持ちがあるんです。
「死ね!」とか「ふざけんじゃねーぜ!」とか「おたんこなす!」とか。
普段接する中では、その人とは仲の良い場面もとっても多くて、このもやもやはあまり出てこないのですが、特定の場面で、その人が振舞う、あるやり方に私はすごく腹が立つのです。
ちょっと具体的に、事例を出してきて書いてみます。
例によって、私の刺激の担い手は、妻です。
(いつかこのNoteの存在がばれたら、殺されそうですが・・・・)
例えば、晩御飯のとき、息子と娘にだけに刺身が用意されており、私には野菜スープだけといったことが起きます。(※なお、私は一日の食事のうち1食は野菜スープにする生活をしています。)
この場面は私にとって、とても大きな刺激になるんです。
いい大人なので、自分の刺身がないぐらいで怒ったりはしませんが、「なんか、私の扱いが、いつもひどいよね~」と嫌味ぐらいは言います。
「刺身の有無」というだけで、私は腹を立てちゃうのです。
「刺身」を、「とりよしのから揚げ」とか、いろんなものに置き換えても同じです。
自分が仕事で疲れて帰ってきたこと、日々家庭に何らかの貢献をしたいと思っていること、その努力や苦労を見てもらいたいと思っていること・・・
いろんな、私の思いが背景にあるわけです。
(もちろん、妻の側にもたくさんの思いがあるわけですが)
ここが、ほんとうに悲劇なんですが、日常会話では、何より私が聞いてもらうということが大切にもかかわらず、妻にも苦労があるんだからと、なあなあで、自分の声を容易につぶしちゃうのです。
自分の痛みが癒されない状態で、相手の思いもあるんだから・・・・
ということをやっちゃうと、我慢比べに突入するし、なんなら、お互いの怨念が増幅しちゃうのです。
痛みを抱えたまま善人面をしても、私の内側ではどす黒い怨念が渦巻くのです。
ここから抜けるのであれば、まずは、私が、私の声を十分に聴く・あるいは誰か第3者に十分に聴いてもらう必要があるのです。
聞かれて、昇天して、やっと私は話が聞けるようになるのです。
そして、ポイントの一つとして、私の痛みは、妻に聞いてもらうのは無理だということです。
同時に、癒されていない私は妻の声を聴くことができないのです。
ということで、どんな些細なことであれ、誰かに聞いてもらうということが、当たり前にある日常だといいのにな~と思うのです。
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