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恋愛備忘録|髪を梳く

事実は小説よりも奇なり。
信じてもらえないようなことがいくつも重なり、
時間を共有するようになった彼とわたしの備忘録。
信じてもらえなくても、すべてノンフィクション。
ちなみに彼とわたしは付き合っていない。

 彼はとにかく、わたしを撫でる。
 何度も何度も、何分でも何十分でも飽きずに撫で続け、彼との逢瀬が終わる頃には、髪がめちゃくちゃになっているのはいつものことだ。

 撫で方は多種多様であり、「ぽんぽん」だったり「なでなで」だったり「わしゃわしゃ」だったり「よしよし」だったり。
 そのときの状況によって撫で方は変わり、例えばわたしが仕事で過酷な連勤が続き疲れ果てていたら「ぽんぽん」だし、例えばベッドの中で他愛のない雑談をしていたら「よしよし」だし、例えばふたりで大笑いしているときは「わしゃわしゃ」である。

 髪を指で梳くような撫で方や、指に髪を絡めてくるくるしているときもあり、それが何十分、何セットも続けば、そりゃあ髪が乱れるに決まっている。
 帰り支度を始める頃、いつも彼は乱れた髪を見て楽しそうに笑うが、彼こそが犯人である。

 そんな彼との連絡が一ヶ月途絶え、久しぶりに会ったときのこと。
 ほんの少しの時間――一時間半ほど車内で会ったのだけれど、その一時間半の三分の一を使い、彼はわたしの髪を指で梳いていた。

 わたしはロングヘアからすっきりとしたショートヘアに変わっていたし、以前よりも撫でやすくなったはずだ。けれど彼は、いつでもわたしの髪をめちゃくちゃに乱す犯人だ。その犯人が、ただひたすら髪を梳くのだ。とても優しく、丁寧に。話しながらも、彼の手はずっとわたしの髪を梳き続ける。

 不思議に思い、後日その心理を調べてみることにした。

 見つけた記事によると、「手ぐしで髪をとかす」のは「好意があり愛しいと思っている」「深い愛情表現として自然にこのような撫で方になる」とあった。
 彼からの好意は以前から気付いている。わたしたちは付き合っていないけれど、複雑でもどかしい生活を送っている彼が、何の感情もなくわたしと会い続ける意味はないのだから。

 そしてその記事には「不安な男性心理が隠れていることも」「愛おしく感じる気持ちが強いあまりに女性がいつか離れていくのではないかと不安になり、寂しい気持ちや手放したくない気持ちから、この撫で方になることもある」ともあった。

 なんだかストンと腑に落ちた。
 わたしたちは付き合っていない。そして直前まで、一ヶ月連絡が途絶えている。

 連絡を絶ったのは彼だったけれど、わたしから「大丈夫?」「体調悪い?」「何かあった?」等の連絡はいつだってできた。けれど、わたしはそれをしなかった。

 それは彼が「体調を崩している」「悩んでいる」という不思議な直観があったせいだし、「そのうち落ち着いたらまた会える」とも思っていたから、わたしも一ヶ月連絡を取らずにいたのだけれど。そんなことは知らない彼は、どう思っていたのだろうか。

 もしかしたらこの一ヶ月、彼は不安だったのかもしれない。

 毎日のようにやり取りを続けていたのに、それはあっけなく終わり、わたしからのアクションもない。「付き合っていない」「ただのハグ友」という関係はとても不安定で、いつだって簡単に終わりにできるという事実だけがそこにある。

 そうだとすると、ただひたすらに髪を梳いていた彼の行動は腑に落ちる。
 彼はこのひと月を、寂しさと不安の中で過ごしていたのかもしれない。体調不良や葛藤があり連絡を絶ったのは彼だったけれど、わたしもそれに倣ったことで、わたしが何事もなかったかのように離れて行く人間だと思ったのかもしれない。

 わたしがそんなことをするわけがないのに。

 この心理を調べたのは後になってからだけれど、彼の撫で方に違和感があったそのときのわたしは、わたしの髪を梳いていない彼の右手を取り、手のひらに口付けた。
 あなたが大事だよ、一緒に居ようよ、の気持ちを、行動で伝えた。彼はその意味を理解してはいないだろうけど。そのお返しとして、彼はわたしの頬に口付けた。


手の上なら尊敬のキス。
額の上なら友情のキス。
頬の上なら厚情のキス。
唇の上なら愛情のキス。
閉じた目の上なら憧憬のキス。
掌(てのひら)の上なら懇願のキス。
腕と首なら欲望のキス。
さてそのほかは、みな狂気の沙汰。

グリルパルツァー(19世紀オーストリアの劇作家、1791~1872)『接吻』




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