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thanatos #3

   3.

 葛西瑞貴(かさいみずき)は数奇な運命を背負っていた。
 彼は、足の不自由な娘一人をもった未亡人と偶然一夜を共にしてしまった男との間に出来た子であった。母は男の元を離れ三人での生活を始めた。しかし長続きはせず、ある日彼と娘の瑳夕(さゆ)を親戚の下に預けたまま二度と帰ってこなかった。その後親戚中をたらい回しにされた挙句、叔父叔母夫婦の下に引き取られることになった。戦前の物価高騰の中、要らぬ食いぶちとなった瑞貴と瑳夕に叔母は激しく当たるようになっていった。中学を出ると瑞貴は働きに出され、足を引きずる瑳夕さえもこき使うようになった。そんな苦しい生活の中でも二人は互いに励ましあい、必死になって生きてきた。
 そして命篤15年、戦争が始まって二年後であった。瑞貴の下に「神道厳明教(しんとうげんめいきょう)」の信者を名乗る者が尋ねてきたのだ。
神道厳明教とは、国学者平田篤胤(ひらたあつたね)の「古史伝」に影響を受けた大塚実智(おおつかさねとも)が1885年に創立した神道派宗教であった。「総督」を最上位として以下信者全てに軍隊式の階級が付けられており、右翼色の強い団体でもあった。復活と現支配勢力への反逆を示唆するため天若日子(あめのわかひこ)を祀り、決起のため天皇家の血筋を求めていた。その時瑞貴は初めて自分にその血が流れていることを知らされるのだった。
突然現れた怪しい宗教団体だというのに、叔母の一存で瑞貴と瑳夕は彼らに引き取られることになった。
その後、瑞貴たちは本部である京都に移ると当時総督であった足達少将に面会した。丸頭に体躯のいい体つきの大男だった。彼は瑞貴の前に跪き、永久の忠誠を誓った。
同年、白川少佐が少数精鋭部隊を率いて伊勢斎宮(いつきのみや)を襲撃し秘伝されていた三種の神器を相伝した。その日、瑞貴は皇太子となった。緯(いなみ)を佐奈仁(さなひと)、御称号を陽宮(ひのみや)と名づけられた。
そして神器の相伝により霊的権威の向上した神道厳明教はより多くの信者を集め、終に人民革命連盟として決起を果たすのである。
足達少将率いる人革連軍は首都東京を攻撃した。「人民革命連盟臨時政府」発足の後、しばらく関東地域の制圧に時間を取られていた。地盤が安定すると足達少将は瑞貴と瑳夕もろとも本部を東京へと移した。足達少将は瑞貴を皇太子としたまま「総督」の地位を利用して人革連の主導権を握り続けた。下手な事を起こされぬよう暗殺目的で側用人まで置いた。お飾りとされることなど知っていた瑞貴は、しかし最愛の姉と共に暮らせることだけで十分であった。
「信じられないね、瑳夕ねえ」
ある夜、姉の部屋でベッドに腰掛けながら真ん丸の新月を一緒に眺めて瑞貴は言った。その手は瑳夕の手と固く絡み合っている。
「そうね・・・」
瑳夕は伏し目がちに短くそう答えた。
 「瑳夕ねえは今幸せ?」
 「えぇ。幸せよ。瑞貴は?」
 逆に聞き返され瑞貴は少しの間考えた。
 「瑳夕ねえが幸せなら、俺も幸せだよ」
 しかし瑳夕の言葉が偽りであったことは程なくして察することとなった。瑳夕の立場自体が曖昧すぎたのだ。今や皇太子となった瑞貴の姉ではあるが、異父姉なので天皇家の血を引いてはいない。その立場が瑳夕に無言の圧力に強いる結果に繋がったのだ。
 瑞貴は自らの決起を決意した。
 そして情を捨て鬼になることも。
瑳夕ねえを受け入れる世界をこの手で作ってみせる・・・。

 その日、瑞貴は側用人斉藤尚吾の二人だけでその意を打ち明けた。
 「お前の使命は分かっている。私がもし自らの意思で動こうものなら殺せと命じられているのだろう?」
 瑞貴の目は人の温かさを失っていた。その鋭い視線に十は年上のはずの斉藤は脂汗を掻いていた。
 「しかしお前の真の役割は何だ?私に永久の忠義を誓ったあれは、偽りであったか?」
 今や遅しと思えども、斉藤は慣れた手つきで腰から銃を引き抜こうとした。しかし――
 「無礼者!」
 瑞貴の激しい一喝により斉藤は何か呪文にでもかかったかのように体を動かすことが出来なくなってしまった。
 「私を誰だと思っている!神器のもとより皇太子となった陽宮であるぞ!」
 途端に斉藤は弾かれるようにして瑞貴の下に跪き、地面に額をこすりつけるように頭を下げた。
 「どうか・・・!どうか、お許しを・・・殿下!」
 瑞貴はそんな斉藤を眺めながら微かに口元へ笑みを浮かべた。
 「総督の命とはいえ、やはり殿下に弓を引くなど有るまじき行為!」
 そう言って斉藤は腰の短刀に手を伸ばす。
 「この腹掻っ捌いて――」
 「斉藤!」
 瑞貴の大声がまた斉藤の動きを止める。
 「斉藤。お前の立場はよく分かっていた。お前の苦悩とて分かっていた。だからこそ、私の問いかけに正しい答えを返してくれたお前を、私は失いたくない」
 瑞貴は温かい表情を取り繕いながら斉藤の肩に手を置いた。
お前は使える。
 「殿下・・・!こんな私に哀れみをかけてくださるのですか・・・」
 斉藤は男泣きのまま肩に置かれた瑞貴の手を強く握った。
 「さぁ、共に新しい世を築き上げよう。お前の力が必要だ」
 そう。どこまでも俺に忠実な駒が。

 数日後、皇居の前には千を越える神道厳明教の信者及び連盟軍の尉官以上の者達が集まっていた。彼らの前には数十メートルの高さもある真っ白な壇が特設され、その中央に伸びる階段の先の玉座には平安貴族のような束帯姿に正装した瑞貴の姿があった。信者たちがその姿を遠目に捉えると、恭しく頭を下げるのが微かに見える。壇の脇には車椅子に座った瑳夕の姿があった。ここからではその表情さえ判断することが出来ない。壇に一番近い民衆の前列には、人革連の支配地域唯一の放送局のカメラが何台も据えられている。この日の特別放送は皇太子を迎えての初心表明であり、連盟政権内の全人民に拝観の義務が課せられていた。
 最上段の瑞貴より少し下がった所には真っ白な軍服姿の足達少将が、堀の深い目を満足そうに辺りへ向けていた。
「同志たちよ!我々の時代がやってきた!」
 足達少将の声は胸に着けた小型マイクによりけたたましいほどに増幅され人々に降り注がれた。彼の第一声に多くの者たちが興奮した歓声を上げる。
 「旧政府は、首都を放棄し我々に明け渡した!ここに我々神道厳明教の人民革命連盟が発足した!我々は後の日本を導く礎となる!」
 また少将の言葉に人々が沸き起こる。瑞貴はそんな彼らを哀れみのこもる目で見下ろした。テレビカメラの後ろ、民衆らの最前列にボロ布を頭から被り杖を突いた老人らしき人物が見える。瑞貴はそれを確認すると、にやりとして足立の背中へ目を向けた。
 「長年心待ちにしていた瞬間が今ここにある、しかし!我らの神、皇太子殿下のご意向に愚かにも反逆の心を持つものが、この日本にはまだまだいる!まず、この愚かなる者に正義の鉄槌をもって打倒するべきである!殿下の臣民にあらずんば、人にあらず!」
 人々は少将の熱弁に拳を高々と掲げ、歓声を轟かせる。瑞貴はそんな彼らを眺めて一人ごちた。
 「愚かな者・・・か」
 結局は足達の言いなりとなっているだけなのに、それにも気付かない者共こそ愚かしい。
 瑞貴はゆっくりと玉座から腰を浮かせた。途端に民衆たちの歓声も高まった。カメラが一斉に彼へと向けられるのが分かった。足達少将が怪訝な面持ちでゆっくりと振り返り、苦虫を噛み潰すような顔で瑞貴を見る。
 「人民たちよ。聞こえるか」
 瑞貴の清水の流れるような声はマイクに拡大されて高々と響き渡った。
無関心に玉影放送を眺めていた各地域の人々も、いざ皇太子が声を上げるとテレビの画面へ釘付けにされた。
直前に足達少将は大まかな流れを瑞貴に説明していたが、彼が発言するのはもっと後のはずであった。少将は緊張の面持ちで瑞貴を見上げる。
「私は今、ここに立つことができとても嬉しく思っている。これも皆のお陰と感謝している」
眼下の民衆の中には恭しく頭を下げる者もいる。目に付く限りの者が瑞貴の言葉に聞き入っている。
「しかし、それと同時に私は心に痛みも感じている。何故ならこの現在をもたらすために幾人もの尊い命が奪われ、失われてしまった。私の声を聞いている者たちそれぞれに大切な者を失くした思いがあるであろう。それ故に、私はまずそなたらのためになる政策を一番に行ないたいと思っている」
静かに聞いていた足達少将の口元が歪んだ。壇に一歩足をかける。
「しかし殿下!今は外へ目を向けるべきです。はっきり申し上げまして、今この瞬間でも敵の侵攻は起こりえます」
「国の中央に陣取っているのだ。それは統一が成るまで続くこと。ここに臨時政府を樹立した以上、対外ばかりではなく内務にも着手するべきである」
足達少将は顔を真っ赤にして歯を食いしばっている。その形相は仮にも神と崇める者へ向けるものには程遠い。瑞貴は緩みそうになる口元をきっと引き締める。
少将は興奮してつい瑞貴のいる壇上まで登りつめてしまった。
「殿下!しかしそれでは――」
「足達!」
突然瑞貴は眉を吊り上げ彼に怒鳴りつけた。
「お前は私に口答えをする気か。卑しくも私と同じ壇の上を踏むか!反逆をなす愚か者めが!」
その瞬間、民衆の前列から悲鳴が上がった。
ボロ布をまとっていた男が飛び出す。
拳銃を抜いて壇上へ向けた。
足達少将が振り返った瞬間、数十メートルの距離から発射された一発の弾丸が彼の胸を貫いた。すぐに男を取り押さえようと兵士達が躍り出る。
「動くな!」
瑞貴の一括で兵たちはびくりとして足を止めた。男は持っていた杖の中から日本刀を引き抜き、ゆっくりと壇を上がっていく。
瑞貴の足元では真っ白な床に真っ赤な血溜まりを作った少将が、震える体を少し引き起こして瑞貴を見上げていた。穴の開いた肺から空気の抜ける音が口からヒューヒューと漏れる。そんな足達少将に瑞貴は哀れそうな目を向けた。マイクを手で押さえる。
「あなたには感謝している。本当に・・・でも」
瑞貴は堪えきれなくなって口元に笑みを浮かべた。
「もう邪魔なんだよ」
少将は何か言いたげに口をパクパクさせたが、息の漏れる口から言葉が発せられることはなくそのまま沈黙した。
 少将の流した鮮血が壇を流れ落ちていく。それを踏みつけて男が瑞貴の一歩下の段までやってきた。そこで足を止めると民衆を振り返り、ボロ布を剥ぎ取った。
 集まっていた人々もテレビに食い入っていた人々も、一斉に悲鳴を上げた。男は肌の出るいたるところに包帯を巻いており、「コンメディア・デッラルテ」が着けるようなアルレッキーノの仮面で顔を半分覆っている。真っ黒な軍服の背中には外套を提げている。腰に刀を取り付けながら、前髪から垣間見える目玉をギョロギョロと眼下へ向ける。
 「この者はピリオド。私の忠実なる僕。この戦乱に終止符を打つ者。そして、我々の救世主となる!」
 静まり返っていた民衆達の中で一人が声を上げた。それはまるでシナプスのように駆け巡り、狂ったような歓声へと成長していった。盛んにピリオドの名が繰り返される。
 「私はこの者を総督に任命する。以後、この者の言葉は私の言葉と心得よ!」
 民衆は更に沸き上がりを増し、新政府の樹立を心より祝福した。
テレビカメラは少将の体を無視して新総督へと向けられた。
空高く抜けるような青空には血の穢れなど微塵も感じさせない。
その場を覆いつくした異質な空間は決してブラウン管を通しては伝えられなかった。

 宮殿の表御座所棟に戻ってきた瑞貴の背中に廊下で瑳夕が声をかけた。必死で車椅子を回して彼にたどり着く。
 「瑞貴・・・。あのピリオドと言う人、本当に大丈夫なの・・・?」
 瑳夕は心配そうな顔で瑞貴を見上げた。瑞貴はにこりと笑って膝を曲げ、彼女に目線を合わせた。
 「心配要らないよ。あれは信頼できる人間だ。見てくれはおっかないけどね。体に包帯を巻いているのは、この内乱で全身に大火傷を負ったからなんだ」
 「そうだったの・・・」
 瑳夕は少し恥じるように俯いた。
 そこへピリオドがやってきた。瑳夕はしかし警戒の解ききれない視線を向けて軽く頭を下げた。
 「殿下、お話があります」
 仮面から除くその口から発せられた声は酷く印象付けられる男の声だった。
 「そうか。では、姉上を送ってから聞こう」
 「いえ。私は一人で大丈夫」
 「しかし――」
 「あなたはあなたのやるべき事に目を向けなさい」
 瑳夕はそう言って軽く微笑むと車椅子を進めていった。瑞貴はそんな瑳夕の後姿を少し寂しそうに眺めた。
もっと喜んでくれると思っていた。
やっとこれから自由への道が切り開かれるというのに・・・。
 「殿下」
 「あ、あぁ」
 瑞貴は表御座所へ向かうと二人きりになって部屋を閉め切った。
 ピリオドが樫の扉を閉じて瑞貴の方へ目を向ける。薄暗い部屋の中で瑞貴の肩が小刻みに震えていた。そして喉の奥から沸き起こる笑い声を漏らす。それはやがて高らかな勝利の歓声へと変わっていった。
 「っくっくっく・・・。ここまで上手く運ぶとは・・・。なぁ?」
 ピリオドは顔を覆っていた仮面をゆっくりと外した。そこにいたのは斉藤であった。斉藤は喉もとの変声器を取り外す。
 「殿下のお計らいどおりに事は進みました」
 全ては瑞貴が足達少将をはめる罠であった。
 頭の先から足の末までガチガチの軍人である足達の動向を予測することなど、そう難しくはなかった。ただ戦うことしか考えていない。そして長く総督をしてきたせいで誰かの上に立つ地位に慣れすぎてしまっていた。武断的な組織の中で誰かの反論に動揺することさえなかったはずだ。それは自らが招いたとはいえ、彼の立場は年端も行かぬ若造の言に絶対服従せねばならない状況へと急変した。瑞貴が発言しただけで足達が歯向かってくるのは目に見えていた。
 そして政の内務への促し。これもただ何も考えず民衆の為に提案したことではない。首都圏での紛争がやっと静まり、民衆達の関心は徐々に現在の生活へと向けられるだろう。荒廃した現状を批判するのは民衆の得意技だ。このままでは各地で暴動が起こるのを防ぐことなど出来ない。防ごうとして軍を出せば人々の反感を更に買うこととなり、状況が悪化することは必定である。そうなる前に絶対的な政治体制を築いておきたかったのだ。欽定的なシステムを先に作ってしまい、内政を掌握した状態でないと対外政策は取り辛くなってしまう。
 満足げな顔の瑞貴に斉藤は膝を突き、仮面を差し出す。
 「そして、殿下のなすがままに・・・」
 瑞貴は目を細くしてにやりとした。差し出された仮面を受け取って握り締める。冷徹な笑みが広がっていった。
最高の気分だ。
全ては俺の思うがまま。
全世界を俺の前にひれ伏させてやる。
全ては瑳夕ねえのために。



   4.

 和泰の受けた戦闘訓練は正に脳内までも支配するものであった。
訓練の際には始終「殺せ」と言う言葉を発し続けて頭に刻み付けた。過酷な訓練の疲労と欲求不満は全てその言葉に乗せられ、ただ目の前の敵へとぶつけられる。射撃訓練では標的を従来の円形から人型の可動式へと移行し、より人間への射撃が慣れるように施された。致命傷部分への命中を高得点と定めることで、敵を倒すことに快感を覚えさせる。
それはただの殺人兵器を作る過程と同じようだと、和泰には思われた。人間の理性を抹殺し上官からの命令だけに従い、敵を人間とは認識しない。
しかしそれらは、より多くの人間を助けるためのシステムであった。兵士となる者たちもまた、犠牲となるのであろう。そう考えるよりは仕方がなかった。
最後に実弾も使用するシミュレーションを行なう。野外、屋内、市街、その他多彩な状況下において実戦さながらの訓練が実施された。映画会社からの特殊メイクなどを用い、実物と見紛う程の死体や足の千切れた負傷者なども用意される。訓練と分かりながらもその場の空気は戦場と同じだった。厳しい訓練を重ねて来た者たちの中にも、ここで気をおかしくする者は少なくない。このシミュレーションにパスした者のみが晴れて政府軍の仲間入りを果たすのだ。


――9月14日 岩手県高山市 坂崎自動車道――

 崩れかけた建物の間をうねる道路周辺で、政府軍と一帯を勢力化とした「高山軍」が衝突していた。市民病院に本拠地を置いた約1,000の高山軍に対し、陸軍第2師団第2特科連隊は1,400で攻撃していた。
75式自走155ミリ榴弾砲が咆哮を轟かせる。途端に高山軍の装甲戦闘車両が、後ろに隠れていた歩兵もろとも吹き飛んだ。高山軍は本部前に幾つもの塹壕や土嚢を用意しており、反撃は凄まじいものだった。
和泰は重たい64式7.62ミリ小銃を抱えたまま全速力で戦場を走っていた。四方八方から銃撃音が飛び交う。土煙の中で前方から銃弾が飛んできた。和泰は姿勢を低くして一番近い土嚢へ突っ込んだ。後続していた仲間たちがすぐに和泰の隣へ駆け込んだ。
「二時の方向、100メートル先だ!」
叫びながら和泰は「ア」(安全)、「タ」(単発)、「レ」(連発)と表記されている切り替え軸を引っ張り、回転させて「レ」に合わした。
鼓動が早駆けっている。
落ち着け・・・よしっ。
土嚢から上半身を出し、銃口を敵の方向へ向けて一秒間引き金を引く。連続に発射された八発の銃弾が、塹壕から顔を出していた三人の敵兵に命中し血しぶきを上げるのが見えた。すぐに土嚢へ身を隠す。頭の上を銃弾の嵐が飛び交う。
「30はいる!」
誰かが叫んだ。こちらは9名いた分隊も既に二人欠けてしまっている。
和泰はすぐに無線で支援射撃を求めた。数分後、駆けつけた自走榴弾砲が和泰たちの後方で激しく咆哮を轟かせた。塹壕辺りが爆風を巻き上げて黒い煙を立ち上らせる。
「行け行け行け!」
和泰は兵たちの尻を叩いて土嚢から飛び出した。
銃を構えながら突撃する。
焼けた地面を踏むと、突然顔を真っ黒にした敵兵が飛び出て銃を乱射した。
和泰の後方で悲鳴が上がる。
反射的に銃口を塹壕の中の敵へ向けて引き金を引く。
胸から血を流しながら敵は後ろへ仰け反り、空へ投げ出された腕で引き金を引きながら倒れた。和泰はすぐに倒れている味方へ駆け寄った。
「しっかりしろ!」
彼を肩に担ぎながら和泰は励ました。途端にまた銃弾が彼らを襲う。和泰は敵の腕や内臓が四散する塹壕へ彼を放り込み、自分もその中へ飛び込んだ。
敵の死体を踏みつける。
周りを見渡した。
塹壕に身を隠しているのは二人を除いてわずかに三名だった。和泰は苦い顔をして敵の様子を双眼鏡で探る。すると敵がロケット弾で味方の自走榴弾砲を狙っているのが見えた。この距離では銃弾が届かない。
「座標、ハの16!狙われてるぞ!」
無線で伝えるが、装薬を手動で装填しなければならない75式はすぐに攻撃が出来ない。無線の向こうでパニックになる声は、自走砲の爆発と共に途切れた。
「くそっ」
和泰は悪態を吐いて無線を切った。
「分隊長、どうしますか!」
まだまだあどけない顔をした霞納(かのう)三等陸士が声を震わせて尋ねる。和泰は息を整えながら四つの顔に目を配った。腹から血を流す江崎三等陸士だけは息絶え絶えに固く目を瞑っている。
「霞納、お前は江崎を後方へ運べ。原、井上、小川は俺について来い」
原一等陸士ら三人は頷く。
「十一時の方向、20メートル先に車両の残骸がある。そこまで敵へ銃撃を加えながら全速力で走れ。霞納は敵の目が俺たちに向くのを待ってからここを抜け出せ。いいな」
霞納は少し気まずそうな顔で和泰を見返した。
「そんな顔するな。お前の命を助けるわけじゃない。一人でも多くの兵を生き残らせるには、まずお前が江崎を救護班へ連れて行かなくちゃならない」
和泰はそう言って霞納の肩をポンと叩いた。霞納は震える首をぎこちなく縦へ動かした。
 「よし・・・行くぞ!」
 和泰が先頭を切って塹壕から飛び出した。銃を敵の装甲車めがけて連射する。装弾数20の64式小銃はすぐにリロードの必要がある。後ろは振り返らず、走りながら作業をこなす。
 あと10メートル・・・
 あと5メートル・・・
 あと2メートル・・・
 突然腿に焼けるような痛みを感じた。
なだれ込むようにして破損した装甲車の陰へ倒れこむ。
 足を押さえて目をやる。
 戦闘服のズボンが真っ赤に染まっていた。
 「っく・・・」
 痛みに耐えながら顔を上げると、脇腹を押さえた井上と肩にかすり傷を負った小川が隣へ倒れこんだ。その向こうには血まみれになって動かなくなった原の姿があった。更にその向こうでは江崎を担いだ霞納が迎えにきた装甲車に乗り込んでいるのが見えた。振り返った霞納と一瞬目が合った。
 「分隊長・・・」
 口から血を吐いて呟く井上を、和泰は車両の残骸へ寄りかからせた。
 「分隊長、私はっ・・・私はもう・・・」
 「・・・井上、すまない」
 素直に謝る和泰へ井上は親しみのこもった笑顔で応えた。
 「立川はまだ・・・中坊ですからね・・・。私だって・・・死なせたくはなかった・・・」
 そう言う井上自身も周りにいる和泰も小川もまだ19の若さであった。
 「分っ、隊長・・・母に・・・母に伝えてください・・・」
 井上の頬を涙が伝っていく。
「井上隆は・・・あなたの子供に生まれて・・・幸せ・・・だった・・・」
 そのまま口を動かさなくなった井上の肩を強く抱きながら、和泰は唇をかみ締めて涙を堪えた。
 「あぁ・・・死んでも伝えてやるよ」


 坂崎自動車道で戦闘が始まって十二時間が経過した。軍備、数共に高山軍を凌いでいた政府軍は次第に彼らを追い詰め、本拠地の市民病院へと後退させていった。
 病院内での戦闘は熾烈を極めた。高山軍は人質として拘束していた市民を盾にし、政府軍が誤って市民を撃ち殺すこともあった。病院内は正に地獄絵図と化した。至る所で高山軍も政府軍も市民も、幾人もの死体が転がっていた。
 政府軍が高山軍の指導者安曇吉武(あずみよしたけ)を追い詰めた頃には、安曇は三人の副官と共に割腹自殺を果たし既に事切れていた。
 この戦闘で市民を含める1,500名あまりの命が失われた。後にこの残虐な結果を、連隊に同行していた外国の戦場ジャーナリストが報道し、旧政府は世界から厳しい批判を受けることになった。しかし和泰たちはそれ以上の残虐非道を目にしてきていた。日本国内の情勢を真に見ることなく、安全なテレビスタジオで激しく自分たちを批判する彼らに和泰は無性に腹が立つのだった。


 戦闘がようやく終結し辺りもすっかり荒廃した中で、和泰は撃たれた足を引きずりながら本部へと向かっていた。彼の隣を小川が無言で井上の遺骸を運んでいる。どちらももう何か言う気力さえなくなっていた。ただひたすら重い足を前に進める。
 本部へたどり着くと井上を遺体安置所へ並べた。手当てを受けようと野戦病院へ向かったが、そこには幾人もの怪我人が殺到しており、苦痛の悲鳴や呻き声が蔓延していた。
 和泰のすぐ隣を、担架に乗せられた片腕のない兵士が担がれていく。兵士は死にたくない、死にたくないと泣きじゃくっていた。彼もまた若い顔をしていた。和泰は包帯だけを貰って足の動脈をきつく縛りそこを後にした。
 第一大隊の待機所までやって来ると、和泰は地べたに座って煙草を取り出した。ポケットを探るがライターを落としたことに気付き、また煙草を箱へ戻そうとした。カチッという音と共に和泰の隣で火が灯った。
 ライターを持つ小川へちらりと和泰は目を向け、戻しかけた煙草を咥えて火をもらう。まだ未成年だがとがめるような者は誰一人としていない。
 胸いっぱいに煙を吸い、ゆっくりとそれを吐き出す。脳に煙が回っていく。和泰は長い溜め息を吐いた。
 「江崎は何とか一命は取り留めたそうだ」
 「そうか・・・」
 和泰は短くそう応えた。
 「俺たちは最前線にいた。第5小隊の中で4名の生還は一番マシだったぞ」
 小川が慰めるように言う。
 「全員生還がモットーだった」
 「無茶なことを言うな」
 「俺がこれまで仕切った分隊では誰一人死なせなかった」
 小川はしばらく口を瞑んだ。新編成になって話題の男が隊長になり、三度目の戦いであった。煙草の煙が顔の横を昇っていく。
 「負けたと思っているのか?」
 小川の言葉にも和泰は前方を眺めたまま動かない。血に染まった地面を夕日が更に赤々と照らし上げる。各々から未だに黒い煙が幾つも立ち上っていた。
 「あぁ・・・」


 青森の第2師団本部である石黒基地へと引き上げる最中、和泰は散乱する高山軍の死体へ銃弾を浴びせる一団を目にした。彼らは口元に笑みを浮かべ、弾き上がる死体を嘲っている。
 和泰は無言で彼らに近づいた。
 「おいっ、よせ!」
 小川の静止も聞かず和泰は足を進める。
 「何だ、貴様?」
 20代であろう男が和泰へ怪訝な目を向ける。
 「やめろ。もう死んでる」
 和泰は臆せず静かに言った。
 「どうだろうな?ガキみたいに死んだふりして、俺たちが引き上げるのを待ってるかもしれないぞ?」
 男はいやらしい笑みを浮かべて応えた。
 「なら放っておけばいい。そんな奴、今更戦う気なんてないだろ」
 和泰はやや疲れたような声で諭すように言った。
 「貴様!さっきから中川大尉に失礼ではないか!」
 彼らの中の一人が和泰の胸倉を掴む。和泰はその手をすぐさま掴み返して締め上げる。悲鳴を上げる兵士を和泰は押し倒した。
 「すまない。反射的に体が動いた」
 「貴様ぁ!」
 憤る兵士を中川大尉が手で制す。中川はぎろりと和泰を睨みつけた。
 「貴様、どこの部隊の者だ」
 「第5小隊第1分隊、分隊長大森和泰」
 中川は和泰をしばらくねめ回し、ふんっと鼻を鳴らして去っていった。彼の取り巻きたちも和泰を一瞥してぞろぞろと後を追っていった。
 「どうする気だ?」
 小川が後ろから声をかけた。
 「上官への無礼は軍法会議ものだぞ」
 「俺を牢屋へ入れたいならそうすればいいさ。でも、そんなことしている暇なんて俺たちにはない。だろう?」
 和泰は楽観的に軽く微笑んで足を進めた。
 「おい、待て」
 小川は歩き出す和泰の肩を掴んで引き止める。和泰が振り返ると小川はいささか怒っているような顔で彼を睨んでいた。
 「お前はそれでいいかもしれないが、俺たちはお前が必要だ。第5小隊の要はお前だ。今更自分だけ一人、前線を引くつもりか」
 和泰はきつく小川を睨み返す。
 「俺はどこまでも最前線で戦う。例え一人になろうと、腕が千切れようと足を失おうと、俺はこの目が敵を映す限り戦い抜く」
 和泰は踵を返して歩き出した。小川はしばらく和泰の背中を眺めていた。日も落ち青く薄暗い光が辺りに広がっている。にも関わらず、彼の姿は堂々として大きく見えた。小川はその背中に本物の戦士の姿を見たのかもしれない。
 「お前はどうしてそこまで強くなれる。何のためにそこまで戦う」
 和泰は顔を上げて少し考えた。
 「さぁ・・・何のためだろうな。最初は故郷に残した家族のためかとも思ったが、どうやらそうじゃないらしい。皆襲撃で死んだという知らせが届いても、俺はこうして戦っている・・・。強いて言うなら、ある親友との誓いのため・・・かな?」
 和泰はそう言って小川へにっと笑いかけた。
 「ところでそんなに俺に残って欲しかったなら、さっき止めに入ってもよかったんじゃないのか?」
 小川はふっと息を漏らして笑った。
 「俺は個人主義なんだ。だから、俺は自分の為だけに戦っている・・・」



   5.

 8月5日の烈火隊襲撃事件後、両親との連絡が取れないまま暁珠は役所で働き続けていた。治安の悪化した町の中へ身を投じるよりも、病院となっているこの場所にいた方が安全であった。それにもし両親が怪我を負っていればそこに運ばれるはずである。
 しかし一週間が経とうと二週間が経たとうとも、暁珠の両親が姿を現すことはなかった。耐えかねた暁珠が家の様子を見に行こうとすると、役所の者が数人付き添ってくれた。
 坂の上に建っていた暁珠の家は、周りの家同様見るも無残に焼け落ちていた。男たちが周辺を捜索すると、焼けた瓦礫の下から黒焦げの死体が二つ発見された。

 突然、暁珠と萌鏡は戦災孤児へと一転した。難民キャンプの仮設住宅は既に超満員状態であった。それを気の毒に思った役所の人間がそこの一室を二人へ貸し与えてくれた。
 少ない荷物と共に役所の狭い部屋へと二人は腰を下ろし、暫し沈黙のまま夕日で真っ赤になった天井を暁珠は眺めた。
 「どうしてだろ・・・」
 暁珠がぽつりと呟いた。抱えた膝の中へ顔を沈ませていた萌鏡が視線を向ける。
 「皆・・・あんなに優しくて・・・。皆、あんなに暖かくって・・・」
 穏やかだった暁珠の呼吸が乱れていく。
 「でも・・・でも、本当に欲しいのは・・・もっと近くの人の暖かさなのに・・・」
 口にした瞬間、両親の死体を目にしてから初めて涙が零れた。膝の中へ顔を沈めて肩を震わせる。
 萌鏡は酷く暁珠が哀れに思えた。自分も母親を失くしたが、暁珠は無残にも殺された亡骸をその目にしていた。今まで大きく頼もしく思えていた人が目の前で、声を押し殺して泣いている。
 萌鏡は暁珠の傍らへ寄り添い肩を抱いた。
 「大丈夫だよ、暁珠お姉ちゃん・・・」
 暁珠は黙ったまま顔を上げない。
 「お兄ちゃんがいるよ・・・?私がいるよ・・・?」
 そう言った萌鏡の瞼からも涙が零れ落ちる。
 「暁珠お姉ちゃんは、一人じゃないよ・・・?」
 暁珠は顔を埋めたまま二三度静かに頷いた。


 その日から暁珠は変わった。もう二度と涙は流さないと固く誓った。自分の今を精一杯生きる。由玖斗との約束を守るために。
 生活の面では由玖斗が月々送ってくる給料と、手伝っている役所の病院からの安い手当てでやっていくことが出来た。由玖斗は給料に殆ど手をつけずに送ってくるのか、二人には十分すぎるほどのお金が毎月振り込まれてくる。そのお陰で萌鏡は都市の管理する総合学校へ通うことが出来た。萌鏡が自分も働くと言い出したこともあったが、実際裕福と言うわけではないものの深刻な経済難に陥っているわけではないので、暁珠は由玖斗のためにもと萌鏡を説得して彼女を学校へ通わせた。
 総合学校とは砂鳥羽市自治体による各町へ特設された小中高一貫の小規模な学校であった。人革連発足と共に勃発した内乱以後、全国の国公立学校は休校となっていた。砂鳥羽市では都市国家化してすぐに総合学校を設け、学校教育の設備を整えていた。しかし、それは貧富の差の象徴ともなっていた。今や親を失い家を失った子供たちが路肩で寝泊りする中、その前を学生服に身を包んだ子供たちが通っていく。初めての通学の日、萌鏡がそんな街中を制服姿で歩いていると、道行くいたるところで羨ましそうな目を向けられた。萌鏡はそれ以来、人に制服を見られたくなくて通学する時はいつも上着を羽織るようになった。
 校舎も小中高に一つずつプレハブが組まれただけのものであったが、教育内容に内乱前の劣化は見られず以前と変わらないレベルの教育がなされた。
 最初のうちは、学校へ行ける有難さから萌鏡は何かに取り憑かれたかのように必死で勉強していた。しかし、だんだんとそんな毎日が意味を成すのかと疑問を抱き始めた。毎日飢餓や病気、殺人などでたくさんの人が命を落としている。先生は将来学生たちが培った知識で後の世に貢献することになる、と言っていた。しかし後の世どころか明日の命さえ約束されないこの世界で、それは本当に必要なことなのだろうか。実践的な知識を身につけ、いち早く現場で働く。それこそが今最も力を入れるべきことではないのだろうか。萌鏡は自分の今の生活が無駄に思えてきたのだった。

 まだ暑さの残る9月の中頃、萌鏡は精神的なものからか体調を崩して早退していた。私鉄前でバスを降り、とぼとぼと曇り空の下町の中を歩いていった。亡命してきた韓国・朝鮮人が多く集まっている「大崎」辺りで雲行きは更に悪化し、ぽつりぽつりと雨粒が降ってきた。萌鏡は近くの「高麗亭」という看板の喫茶店へ避難した。
 間口の狭い割に店は奥行きがあった。店内は薄暗い照明でほのかに照らされ、幾つものテーブルに身形のみすぼらしい少年たちがたむろしていた。天井は彼らの煙草の煙で蔓延している。萌鏡は少し後悔しながらも今更後戻りも出来ず、一番近くの窓際の席へ腰掛けた。
 「一人かい、嬢ちゃん?」
 人のよさそうな顔をした中年の店主が声をかけた。
 「あの・・・はい」
 萌鏡は緊張して答えた。
 「あぁ、急に降ってきたからなあ」
 そう言って店主はゲリラ豪雨となった窓の外を眺めた。
 「じゃあ、雨が上がるまでココアでも飲んでな。初来店の客にはサービスしてんだ」
 にっと笑って店主は店の奥へ消えていった。萌鏡は少し気が楽になって、しばらくして戻ってきた店主から礼を言ってココアを受け取った。少し苦味の残る温かいココアは喉を通って心臓に達した。
 そこへ突然店の扉が勢いよく開いた。ずぶ濡れの三人の男たちが入ってくる。
 「ひえ、参ったぜ!」
 一人が被っていたフードを取って辺りを見回す。
 「んだよ。辛気臭せえ店だぜ」
 そう言って萌鏡の姿を捉えた。後の二人に顎で示し、にやにやしながら近づいてくる。
 「あれ~?総合学校のお嬢さまが何でこんな店にいるの?」
 いつの間にか上着の前が開き、中の制服が見えてしまっていた。右側に一人が座り、反対側にもドカリともう一人が座る。萌鏡はどうしたらいいのか分からず体を縮こませた。
 「あ~あ、黙っちゃったよ。ねぇ、この雨上がったらさ、俺たちと遊びに行かない?」
 カウンターをちらりと見たが店主は奥に行ってしまったままで姿は見えない。
 男の手が萌鏡の肩に触れようとしたその時だった。
 「やめとけ」
 店の一番奥から低く声が響いた。周りの者たちが一瞬体をぴくりと動かして固唾を飲む。
 「あぁ?」
 チンピラ一人が立ち上がって声の方を見る。壁際に並べられたソファに構えた長髪の男が彼を睨みつけていた。
 「俺の女だ。汚ねえ手でさわんじゃねえよ」
 男は余裕そうに煙草をふかす。
 「何だ、てめ?死にてえの――」
 パンッ。
 「ぐあぁぁっ!」
 あっという間に男はその場に倒れこんでしまった。押さえるジーンズから血が染み出している。男たちは血相を変えて店から出て行ってしまった。
 「おいおい!ここで使うのは止してくれよ、清(しょう)!」
 銃声を聞いてあわてて店主が飛び出してきた。
 「悪りい、おじ貴」
 奥の男はワルサーP5を再び懐へとしまった。煙草の煙を吐き出し、萌鏡に向かって軽く手招きする。萌鏡は少し躊躇いながらも腰を上げてゆっくりと彼の下へ歩き出した。
 そこだけ半分個室のように窪んでいて、三方にソファが備えられている。中央に清と呼ばれたその男が、煙をふかしながら萌鏡を見上げている。彼の周りには、右側に三人左側に二人が座っている。その中で唯一の女性が訝しげな目で萌鏡を見上げていた。
 「隣、座りな」
 男はそう言ってまた煙を吸った。萌鏡は黙って頷き、二つのテーブルの間を通って彼の隣へ腰を下ろした。
 男はゆっくりと煙を吐き出す。その斜めに構えた姿はいかにも周囲より格上の雰囲気をかもし出している。周りの者も黙ったままだ。どうやら彼が話し出すまで誰も口を利かないのがここの掟のようだ。
 「さて、あんた総合の学生か?」
 男が灰皿で煙草をもみ消す。吸殻が山のように盛り上がっていて辺りを汚く散らかしていた。
 「は、はい・・・」
 萌鏡は緊張の面持ちで答えた。すると意外なことに男の顔に笑みが浮かんだ。
 「そう構えなさんなって。俺だってだれかれ構わずぶっ放すわけじゃねえよ」
 右側の席に座っていた小柄の男がそれを聞いて噴出す。
 「何言ってんだよ。前だってゴロツキ三人に撃ちまくってたじゃねえか」
 「あれはあちらさんが悪い。貧乏人の俺たちから金を巻き上げようとしたんだ」
 笑って弁解する男の顔を萌鏡はじっと見つめた。
 「あぁ、そうだ。左から順に慎吾、幸、サル、工藤、ハル」
 男が半円を描くように指で指し示しながら大雑把に紹介した。
 「紹介でサルはないだろ!」
 先ほどの小柄の男が憤る。
 「サルはサルだろ」
 「ちぇっ。俺の名前は智樹。サルって呼ぶなよ、サルって」
 智樹が席に着いたところで男が萌鏡へ顔を向ける。
 「で、俺は清(しょう)。清いと書いて清だ。期待させた親には申し訳ねえ生き方してるがな」
 清と名乗る男がにやりと笑いかけた。
 「萌鏡です・・・。永見・・・萌鏡」
 「永見?永見って少年飛行隊ナンバーワンのか?」
 ハルと呼ばれた落ち着いた雰囲気の男が急に声かけた。
 「兄は・・・軍にいます」
 萌鏡は戸惑いながらも短く答えた。
 「何だ?こいつの兄貴がどうした?」
 清がハルへ目を向ける。
 「知らないのか?第一次学徒動員の戦闘機乗りだ。確か19だったか?」
 「は、はい」
 「烈火の時もそいつがほとんど墜としたらしいぞ」
 「俺も聞いたことある。今じゃ、北政府空軍でも三本の指に入るとも囁かれてるらしいぜ」
 眼鏡をかけた男、慎吾も話しに加わる。
 「へぇ、そんなにすごいのか。工藤、お前も聞いたことあるのか?」
 工藤と呼ばれた大男はちらりと清へ眼を向け、黙って頷く。
 「あ?俺は知らねえぞ」
 智樹がテーブルから身を乗り出して言う。
 「サルは知らんだろうな」
 ぽつりとハルが零す。
 「あんだよ、それ!」
 食ってかかる智樹の反応を楽しむようにハルがにやりと笑う。
 「あんたの兄貴、有名人だな」
 清が萌鏡へ微笑みかけた。
 萌鏡はそれまで由玖斗が噂になっていることなど全く知らなかった。少し動揺したが、この空間がだんだん居心地良くなっていくのを萌鏡は感じていた。
 「そうか。だからあんた、総合に通えるだけの金もってんだな」
 別段普通な様子で慎吾が雑誌をテーブルに置きながら言う。煙草の箱へ手を伸ばし一本つまみ出す。火をつけて煙を吐き出す。
 「階級は?尉官ぐらいか?」
 萌鏡は首を横に振った。
 「知らない。お兄ちゃん、自分のことは何も言わないから」
 少し寂しそうな萌鏡の横顔を清が見つめる。
 「そうか。まぁ、軍人さんにゃあ色々あるんだろうよ」
 清もまた煙草の箱へ手をかけて言った。
 「ん?お前、いや・・・あなた様は金持ちですか?」
 突然妙な話し方になった智樹が萌鏡に詰め寄る。
 「いや、金持ちだろ。なぁっ、酒かなんか俺が取ってきてやるよ。何がいい?」
 「お前・・・何してるんだ?」
 清が怪訝な顔で問いかける。
 「え?だって金持ちには媚を売れっていうだろ?」
 「言わねえよ、バカ」
 半笑いのまま慎吾が言う。
 「あっ、バカって言う奴がバカなんだぞ、バカ!」
 「それじゃ、お前もバカって事だろ」
 やれやれという風に首を振りながらハルが言った。
 「ははっ。ここにいる奴は皆バカばっかりだ。おっと、萌鏡は違うか」
 清はそう言ってポンと萌鏡の頭に手を置いた。
 周囲が笑いに包まれる中、突然幸と紹介された女が席を立った。皆の笑い声が途切れる。幸はそのまま無言で店の外へ出て、軒下で煙草をふかし始めた。
 「ん?どうしたんだ、あいつ?」
 智樹が彼女の出て行った方を見やりながら尋ねる。
 「おい、清」
 にやにやしながら慎吾が清を見やる。清は深くため息を吐き、一瞬ちらりと口元を緩ませて席を立った。
 「幸は清に惚れてるんだ」
店先の二人の様子を見つめていた萌鏡に慎吾が言った。
 「えっ、そうなのかよ?」
 智樹が驚いたような顔でまた身を乗り出す。
 「鈍いお前には分からなかっただろうな」
 片手に開いた文庫本へ目を落としながらハルが言う。
 確かに、と萌鏡はくすりと笑った。萌鏡を見やる幸の目は明らかに嫉妬と敵対心が入り混じっていた。しかし流暢に話す清へ向ける時だけには信頼と愛情のこもった色が見られた。
 「何だよ、萌鏡も俺のこと笑うのかよ!」
 「そ、そうじゃないよ・・・。ただ、皆仲良しなんだなぁって思って」
 ハルがちらりと目を上げて意味深な視線で慎吾と見やった後、二人とも軽く噴出して笑った。
 「え・・・?何か可笑しなこと言った?」
 「あぁ。一番可笑しかったよ。あんたはやっぱりお嬢様だ」
 ハルの言葉に萌鏡は少しむっとして清と幸の方へ目を向けた。何やら口論となっているらしい。一方的に攻める幸に清はやれやれというふうに頭を掻き毟っている。清が幸に何か耳打ちした。幸が清へ一心に向けていた視線を萌鏡の方へちらりと向けた。一瞬目が合い、萌鏡はすぐに視線を逸らした。
 しばらくして幸が戻ってきて元の席へと腰を下ろした。テーブルの上で汗をかいた飲みかけのグラスを傾ける。
 「さぁて、雨脚も弱まってきた。そろそろ狩りの時間だ」
 戻ってくるや清が一同に告げた。
 「うっしゃあっ」
 智樹が唸って腰を上げる。それに伴って慎吾と工藤も席を立った。ただハルだけは文庫本を開いたまま動こうとしない。
 清は三人を引き連れて、まだ小雨の降る路地へと出て行った。
 「狩って何のこと?」
 不思議そうな顔で彼らが消えていった方へ目を向けながら萌鏡は尋ねた。
「かつあげ」
ぽつりとハルが答えた。萌鏡の反応を見てにやりとする。
「心配しなくていい。見境無しにやってるわけじゃない。善良な市民から金巻き上げてるチンピラをフクロにするのさ。盗られた金は戻してやって、チンピラの金は頂く。まぁ、褒められたもんじゃないがな」
「へぇ・・・。ハルさんは一緒に行かないの?」
するとハルは本を持ち上げて示した。
「俺はそっち向きじゃないんでね」
そう言うとハルは腰を浮かせた。
「えっ、どこ行くの?」
「女同士の話もあるだろ?邪魔しちゃ悪い」
ハルは意地の悪そうににやりとして去っていった。ハルもいなくなって完全に幸と二人きりになってしまった。緊張の沈黙が流れる。一秒一秒がこの上なく重く感じられた。
しばらくして幸が静かに口を開いた。
「あんた学生なんだよね」
「えっ、あ・・・はい」
萌鏡がもじもじしながら答える。
「そう・・・。いい?これだけは言っとくけど、あんたは清に利用されてるんだからね」
幸が萌鏡を鋭い眼光で見やる。
「何かと広く情報を握るためにはあんたも利用価値があるって、そう清は思っているだけなんだからね」
「大丈夫ですよ。私、清さんのこと好きになったわけじゃないですから」
予想通りの論旨に萌鏡が微笑んで応える。
「っ、そんなこと・・・誰も聞いてないわよ」
幸は一瞬顔を赤らめてグラスの中身をがぶがぶ飲んだ。
「あんた、親は?」
話題を変えようと幸がきつい声のまま尋ねる。
「お父さんは小さい頃に死んで、お母さんは少し前に病気で・・・」
「輸入品の流行り病?」
萌鏡は黙って頷く。
「そう。自治体は中央にばかりワクチンを独占していたらしいわね」
「えっ?」
萌鏡は驚いて顔を上げた。
「知らないの?中央の連中が自分の身可愛さに地方へ薬を回さなかったんだ。結局病気は中央まで広がらず終い。薬も大量に残ってるらしい。それだけあればたくさんの人が死なずに済んだのに・・・」
幸は遠いところを見るような目で呟くように言った。萌鏡は思いもよらなかった母の死の真実に、動揺を隠し切れなかった。それに気付いてまた幸が話題を逸らす。
「まぁ、ここにいる奴らのほとんどが身寄りのない者ばっかりだしね。あたしたちを受け入れてくれるのはソンゴの小父さんだけだし」
「ソンゴの小父さん?」
「あぁ、ここのマスターだよ。イ・ソンゴ。北朝鮮から亡命してきたらしい。せっかく母国から逃げてきたっていうのに、今度は日本で内乱に巻き込まれて。皮肉なものね・・・」
そう言われてみれば店主の日本語はやや発音がいびつではあった。萌鏡はそんなことを考えながら彼の方へ目をやる。ソンゴは楽しそうな顔でグラスを丹念に磨いていた。
「ここだけの話、裏の顔も立つみたい。清の銃もここで買ったって言ってたから」
幸の言に再び萌鏡は驚かされた。あの屈託のない優しい微笑みを浮かべる外見からは全く予想もつかない。
萌鏡は雨が完全に上がったのを確認すると幸に別れを告げて高麗亭を後にした。
「皆大抵ここにいるよ。また顔出しな、萌鏡」
帰り際、幸は始めて見せる笑顔を湛えながら言った。
いつもは重い足取りの帰路もその日は羽が生えたように軽やかなものだった。何かは分からないがわくわくする。それは穢れを知らない者が底なし沼へ足を踏み入れるような好奇心だったのかもしれない。ただ萌鏡はそうであったとしても、また自分はあそこへ戻るのだろう。そう一人予測を立てずにいられなかったのだ。


つづく。

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