この街の客席に
おはようございます。
今朝はぱらぱらと雨が降ったり、降らなかったり。風に山の木々が揺れています。
出勤前、ちびちゃんと積み木で遊びました。
いろいろな形の椅子を作っては、ちいさなともだちを座らせ、こわす、を繰り返します。
慎重に指先を動かし、真剣な顔で椅子づくりに励む彼を見ながら、ぼくは積み木をやめて、ギターを弾きました。
それ、きのうもひいてたね。
と、ちびちゃん。
うん、練習してるの。
と、ぼく。
弾き終えると、拍手をしてくれました。
では、きょうはある劇場のことを思い出してみたいと思います。
27歳の秋、はじめての海外、ニューヨークへ行きました。
当時、舞台芸術についての学びを深めるため、あちらに暮らしていた方の家に滞在しながら、たくさんの作品を観ました。
なかでも強く心に残っているのが、演出イーサン・ホーク、出演ポール・ダノ、ゾーイ・カザン、ジョシュ・ハミルトン、ピーター・ディンクレイジの4人芝居。
頼りない感じの男のひとが3人、並んで座っているポスターを、バス停や地下鉄の駅で目にしてから気になっていたのです。
劇場の場所を調べました。
電話で当日券について問い合わせたかったのですが、そんな会話を英語で交わす自信がなくて、朝から電車に乗って劇場まで行きました。
早すぎたのでしょう、扉を開けようとしたら閉まっていました。
仕方がないので、近くのお店でコーヒーを飲みながら待つことに。
バッグからちいさなノートとペンを取り、目に映るものを描きます。
カップ、椅子、向こうの席に座るひとの横顔。
遠くの町で所在ないとき、こうすると気持ちが落ち着く、ということをニューヨークで覚えました。
再び劇場へ戻るとこんどは扉が開きました。
なかは誰もいないみたいに静かで、どうしたものかと、困ってしまいましたがいちばん近くにあったドアをノックしてみると、勢いよく全身黒服の男のひとが現れて早口でなにかを言ったのですがぼくにはわかりませんでした。
チケットを購入することはできますか?
とだけ言うと、彼は恥ずかしそうに笑って、こっちだよと手招きしました。ぼくを誰かと間違えたんだ、という話をされるのですが、よくわかりません。
いつの?
と、彼。
今夜、1枚。
と、ぼく。
座席表の、こことこことここが空いてると、彼が示したのは最後列端の2席と前から3列目の中央の席でした。
これがいい、とぼくは前から3列目の席を指さしました。
いくらだったか思い出せませんがその席はぼくの予定を大幅にこえるものだったので、やっぱりこっちにする、と後ろの席を指差すと、彼はなにも言わずにぼくのことをじっと見るのでした。
彼はぼくにたずねます。
どこから来たの?
日本からです。
きみは学生?
学生ではありません、演出の勉強をしています。
彼は何度か肯いてから、鼻歌をうたいながらチケットを用意してくれました。
代金を払い、渡されたチケットに記された座席を確認します。
前から3列目。
これ、間違ってるよと見上げると、彼はウインクしてみせました。
ありがとう。
遅れないようにね。
ニューヨークで観た舞台はどれも刺激的でしたが、その夜目にした作品は、ひとつの冒険のような試みに溢れた、素晴らしいものでした。
一幕が終わり、20分間の休憩に客席を出ると、いろいろなひとに話しかけられました。
どこから来たのか。
なぜ、これを観ようと思ったのか。
きみは良い選択をしたね。
いっしょに楽しもう、とシャンパンをごちそうしてくれた紳士。
幕が降りると客席は総立ちになり、拍手が鳴り止みませんでした。ぼくもまた、立って拍手をしていましたが、あまりの大きな感動に震え、目眩がするほどでした。
終演後、これから食事に行くからいっしょに行かないかと幾人かに誘われましたが、ひとりになりたくて、急いで劇場を出ました。
地下鉄の駅近く、お客のいない店でサンドイッチとスープを食べました。
ぼくだけではなかった。
みんなが感動して、作品を楽しんでいた。
隣りにいる人も、前にいる人も、後ろの人も、みんな。
素晴らしい作品、人の心を動かし、なにかを変えることのできる作品は客席に座るひとりひとりの市民によって作られている、ということをその夜、ぼくは全身で味わったのでした。
作品の名は「Things we want」
帰り道、地下鉄に乗る気にはなれず、冷たい空気の夜道を歩き続けました。
うれしくてうれしくて、ニューヨークをどこまでも歩いていたかったのでした。