彼が見ていた浴室

おはようございます。
2週間振りです。お元気ですか。

先週末、松本ではクラフトフェアが開催され、ぼくの働くお店にもたくさんのひとがお越しくださいました。

だれもがお買い物をするわけではなく、買わずに見る、という方もいらっしゃいます。
物の良さは使ってみなければわからないところもあるでしょうが、見ることだけではなんにもならないかといえば、そんなことはないと思います。

ひとつのコップの前で立ち止まり、じっと見る。手にとってみる。
暮らしの中で使っているところを想像する。
いつものテーブルの上、どこにしまおうか、なにを飲もうか、コーヒー、ハーブティー、ミルク、朝の時間、そして夜。
いろいろ考えて、もとあったところにコップを戻して、お店を後にする。

もしも、そのコップを買って帰ったなら、日常にささやかな変化が生まれます。
買って帰らなくても変化は生まれるだろうかと考えると、やっぱり生まれるような気が、ぼくにはするのです。

ひとつのコップを通じて行われた無言の対話は、形には残らないけれど、見えないところで暮らしを支えることになるのではないでしょうか。

この頃、ボナールの画集をぱらぱらとめくっています。幾冊かあるものを順番に。
なに考えて見てるの?と妻にいわれました。
なにも考えてない、音楽聴いてるようなものだよ。

ボナールがどんな画家だったか、ぼく、あまりよく知りません。奥さんのマルトのことはなにかで読んだことがあります。
絵画史のなか、ボナールの絵がどこに位置するのかも、あまり知りません。
つまり、描かれた絵の背景となる物事について、知らなすぎるのです。
ただ、ボナール、というひとが描いたといわれている絵を観るのが好きなのです。

パリの、確か市立美術館で観た絵を思い出します。ボナールがたくさん描いた浴室の絵のひとつでした。浴槽に横たわる奥さん。
あの絵の前に立ったとき感じたことは、ああ、ぼくにはこの一枚があれば、もう十分だってことでした。
その前にも別の美術館でボナールの絵は観ていたけれど、あの一枚でぼくにとってのボナールが決まりました。

ボナールの絵を観ていると、幸福でもなく、安らぎでもなく、孤独でもなく、喜びでもなく、日常で味わうあれこれとはまったく違った心地になります。
なにかはわからないけれど、絵を通じて、底なしのなにかを見ているのです。
底なしのなにかを見る、その時間がぼくにはどうしても必要になるときがあります、ときどき。

ボナールの描いた対象は、食卓だったり、部屋の一画、庭、花、果物、犬といった日常すぐそこにある存在ばかりです。
ありふれた、どこにでもあるような他愛のないものは、現実、という世界から切り取った揺るぎないものでもあります。

ところが、ボナールの絵の中にあるそれらは、途方もなく儚い。
現実は、少しも確固としていない。
すべては夢、というほどに。

そんなふうに、ぼくには見えるのです。

先日、パリに暮らすという80歳代の男性とお話しする機会がありました。
お店にやってきた彼といっしょに店内を見て回り、工場までご案内しました。
短い時間でしたが、パリという街や絵画について話すことができました。

彼はいいました。
あなたのところで作られた椅子やなんかはね、わたしがいなくなってからもわたしの子どもたちや孫たちが使い続けていくようなものですから、といって、彼らはそのことに関心を持ってはいません、残念ながら、自分たちが使う椅子がどのようにして作られたものか、自分で調べたりはしないでしょう、だから、わたしが見ておいて、折に触れて話しておく必要があると思うんだね、どうやって作られたのかを知っておくことは大事なことですよ。

別れ際、ぼくがポケットから取り出したくしゃくしゃの紙に、お名前と連絡先を書いてくれました。
アンリ・マティスのアンリですね。
ぼくがいうと、
好きなんだね。
と彼は微笑みました。

いまよりもっと好きになりたい。
そう思うのなら、知ることが必要なのかもしれません。
ボナールについて。






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