見出し画像

日記/ 明日はお弁当

娘のお弁当セットを準備していて、コップから手が滑った瞬間、心によぎった。――自尊を意識するがゆえに、自虐が強化される。自虐を演じることで、自尊が高められる。対社会的な自意識には、このやっかいな構造があるのではないか、云々うんぬん――ほう、ほう。これはつまり、どういうことなのだろうか。よぎられた主体のわたしは、常に直観のあとを、よたよたと追いかけるだけだ。教祖さまの気まぐれな預言に、あたふたする教徒である。瞬間的なひらめきをことばへ開く営みは、まどろっこしく、不正確なものだ。ことばのシャッターは、重くてなかなか開かず、また、なかなか閉じない。固いシャッターボタンに対しては、人差し指をきたえる。そして、直観的な洞察と言語のあいだにも、たしかに、きたえるべき「人差し指」はある。書けば書くだけ、語彙袋の口は開きやすくなる。すらすらと筆は進み、そして筆は滑る・・。豊富にことばにあぐらをかき、核心を miss するようになる。そこで充分に苦しむ。すると、あるとき、ことばも生きものだと判る。多頭飼いには、それなりの伎倆ぎりょうと筋力が要求されると気づく。飼い主である書き手の特性が、おれもおれも、としゃかりきに出たがることばたちの中から、だれをケージから出し、だれを残すかを決定する。なにを見、なにを思い、どのように書きたくとも、書き手は変わらない、少なくとも、変わりたいようには変われない。フォーカスを変える、フィルタを通す、レンズを替える、カメラを換える。勘違いしてはならないのは、カメラとは、決して fact recorder, 事実を記録する機械、ではないということである。この世にそのようなものは無い。わたしが狙う、あるいは読み手が要請する対象に、書き手が・・・・画角を合わせる。常に明瞭犀利であればよいわけではない。ピンぼけもまた、立派な技術である。だから、書けば書くだけ、また読み手としての切り口は増え、伎倆は上がる。引退したフィギュアスケーターが、もっとも有能な解説者となる所以ゆえんだ。選手がリンクで滑る、まさに・・・そのように、解説者も解説席で滑っている。かつての自分の演技とのごく微妙な差異のみが、彼らの声色を、あるときは落胆させ、あるときは興奮させる。書き手と読み手にも、同様の微妙な緊張が存在するし、そうでなければならない。――この日記のように、油断すれば、慢心すれば、筆は、かくもつるつると滑る・・。あすから全国的に、強い寒波が来るそうで、凍った路面にも、油断と慢心が大敵です、と、それっぽく着地でまとめる。

そして、このような意味ありげな写真を一葉添える。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?