見出し画像

幸福学×経営学② ~ これまでの経営学の3つの病 ~

今回も続けて「幸福学×経営学」です。今回は第三章、経営コンサルタント・小森谷浩志さん執筆パートの「これまでの経営学・これからの経営学」について、書かれていることを自分の頭の整理がてらまとめてみたいと思います。

まず今回は「これまでの経営学」についてです。

これまでの経営学が生んだ3つの病

工場労働者の生産性をいかに高めるかというテーラーさんの科学的管理法に始まり、その後いろんな理論が提唱され、1980年代になってポジショニング理論のポーターさんが出てきて、それに対してミンツバーグさんが異を唱えて、という感じで発展してきたこれまでの経営学。

経営学はそもそも「良い経営を上手にするため」に生まれた学問で、これまでかなり上手く行っていた時代もあり世界経済も大発展を遂げましたが、最近は「なんかおかしい」「なんか違う」といったことが起きてきています。働いている人は幸せそうじゃなかったり、企業不祥事が頻発したり、環境破壊につながったり。

ということで、これまでの経営学が今上手くハマっていない要因を、小森谷さんは3つの病として提起されています。


① 手法病

小森谷さんが現在の経営学に対して大きく抱いている懸念は、より良い経営をする「在り方」ではなく、上手にするための「手法」に偏っているところ、とのことです。

これまでPDCA、PPM、シックスシグマ、ABC、BPR、BSC、コアコンピタンス、KPI、ベンチマークなど数多くの経営手法が生まれてきたけど、その手法をこなすことが目的となり、本来の目的から乖離してしまっているケースが多くなってきているということですね。手法には目標管理や役職定年などの制度も含まれます。

本題の目的は「より良い経営をする」ということだけど、手法の遂行にこだわるあまり、より良い経営から逸脱してしまっているケースが散見される、ということですね。

ざっくりいうと、そのようなことが小森谷さんが仰るところの手法病です。


② 計画病

2つ目の病が計画病です。計画病は、経営学が厳密な科学であろうとすればするほどつきまとう宿命。計画そのものが悪いということではなく、偏重すると弊害があらわになります。なぜなら経営や戦略は秩序正しい静的なものではなく、動的でダイナミック、特に今日では予測不能な混乱のただ中にあるプロセスだからですね。

そして計画では定量化できること、客観化できることが重視されます。

そのために、数値化が容易で、反対意見が出しづらい、売上や利益、生産性や市場シェアなどが旗印になります。その一方で数字では測れない、やる気やワクワク感、長期的なビジョンなどはないがしろにされがちになります。

さらに深刻なのは、人間すら計画遂行の手段となり、ものや機会と同様に扱われる危険性が出てくること。その行きすぎた例がブラック企業とか、パワハラ上司ですね。

あと別の視点で見逃せないことが、計画を練りに練ってしまう病。本書で紹介されていたとある部長さんの言葉を借りますと


会社の大方針に従って毎年部の年次計画を立てるが、これほど無駄な時間はない。
上から突っ込まれないための過剰防衛で固めた、計画のための計画になっている。


数字をこねくり回しても本質的には意味がないことは明らかですが、特に大きな企業ではあるあるな景色じゃないでしょうか。私も前職時代を思い出します 笑

さらには、計画が詳細であればあるほど計画に縛られることも起きてしまいます。そうなると、VUCAの時代において臨機応変に計画変更ができなくなって致命傷を負いかねないですし、計画どおりに実行することが目的化してその先の達成したいビジョンや使命を見えなくしてしまいます。

で、「この計画が詳細であればあるほど」の件は、私としても個人的に強く憂えた経験があります。いわゆる事業計画業務では、計画通りの数値におさめる「着地」という概念がありまして、計画を下回ってもいけないし、上回ってもいけないんですね。一定の限られた「幅」の範囲内で年度数値を着地させないといけない。

で、その着地の精度をあげることに、優秀な方々の頭脳を、鬼滅じゃないですけどそれこそ「全集中」させるわけです。まあそれは「事業計画の正確性(適当な計画値を掲げているわけではないことの証明)」のため、ひいては株主のためという大義名分なのですが、正直に言うとですね、


こんな付加価値を生まないことに、とても優秀な方々の頭脳をこれだけ投入するのって、壮大な資源の無駄遣いじゃないだろうか?
これらの頭脳を付加価値を生むことに投入できれば、もっと日本のGDPも上がるんじゃないだろうか?


なんてことを思ったものです。

ということで、個人的にもこの計画病の病理は深いなぁと感じています。


③ 分離病

そもそも経営学は、経営者が労働者を効率よく働かせるために生まれたものですので、働かせる人と働かされる人、考える人と行う人をはっきり分ける形で発展してきました。

要は「考える」と「行う」の役割分担なんですけど、それによって専門性が高まったり、業務に集中できて生産性があがったりというメリットがある反面、全体が見えなくなり、自部署の利益や自分の役割だけを追うようになるデメリットが出てきます。

本書で例として挙げられている金融機関では、営業や融資、コールセンター、サービス開発など部門を預かる各部長が「職務記述書」を精読することが通例になっているとのこと。それは何のためかというと、自部署がやるべきこと、やらないでいいことをクリアにするため。会議では、「これはうちの仕事ではない」という発言が頻繁にあるそうです。

と、この事例を聞いて、みなさんどう感じられました?

私は、「え?普通やん」と思ってしまいました(^^;)

私も20年大きな組織でサラリーマンをやっていましたが、この「防衛ラインを張る思考」はすごく染みついていましたね。変なボールが回ってこないようにするディフェンス力といいますか。なので、私の単なる予想ですけど、自分の組織がこのような思考になっている方、結構いらっしゃるんじゃないでしょうか。

しかし当然ながら、そんな姿勢では三遊間のゴロは誰も拾わなくなり、自部署と他部署を分け、自部署の利益を最優先するようになりかねません。そしてこれからのVUCAの時代においては、そのような組織体制はかなり危ないというのは言うまでもありません。

このあるあるな分離病もなかなか根深い問題ですね。



なぜ今現在もテーラーイズムの影響が大きいのか


そして3つの病の最後に書かれていたことが印象的だったのでご紹介したいと思います。

テーラーの科学的管理法は100年前に工場の生産現場で生まれたものであり、「与えられた単純作業をいかに効率的にやるか」を追求したものでした。

問題は、そんなテーラーの科学的管理法がなぜ現在でも影響が大きいのか、言い換えると、なぜ今なお支持している人が多いのか、ということですね。

この問題については、小森谷さんの本書の言葉をそのまま引用したいと思います。


事実多くの経営者やマネージャーは、具体的な目標、緻密な計画、進捗の報告、序列や役割分担など制度や構造を好みます。
少し想像するとわかるように、多様なメンバーによる即興的で自由な組織よりも、同質なメンバーだけで、計画に沿って限定範囲の中で活動する組織の方が、管理が楽です。
楽をしてマネジメントしたいという、誘惑に引き寄せられています。つまり3つの病の裏には、安易な効率主義が隠れていると言えます。自分の頭で考えることなく、苦労することもなく、できるだけ楽をして、手っ取り早く果実を得たいという強い欲求です。
成功の方程式やテクニックを欲しがる安易なメンタリティこそが、失敗への道であることにそろそろ深いレベルで気づく必要があるのではないでしょうか。
これさえしていれば上手く行くという、魔法の丸薬はありません。多忙を極めている中だからこそ、見通しが悪いからこそ、本質を深く考える、思慮深さが求められているのです。


要するに、手法、計画、分離という3つの病に侵されながらも、これまでの経営学に基づいて経営・マネジメントをしているその裏には、「楽をしたい」という安易な効率主義が隠れているんじゃないですか?という提言ですね。

「社員の幸福を目指す」と謳っている幸福経営、ホワイト企業経営のほうが、「経営はそんなに簡単じゃない」という文脈で、一見「楽してるんじゃないか」とみられがちですが、「実は逆なんじゃないか?」「これまでの普通の経営のほうが楽してるんじゃないか?」ということ。

そんな、なかなか厳しい言葉で「これまでの経営学」の章は終わっていますが、ではホワイト企業の経営から見られる「これからの経営学」とはどんなものか。

次回、見ていきたいと思います。

 

おしまい。

いいなと思ったら応援しよう!