見えない世界
まだ小さかった頃。家族で沖縄県の石垣島に旅行に行ったことがあった。自然の豊かな美しい島で、ハイビスカスがたくさん咲いていたことを覚えている。雲一つない空の太陽が眩しく、時間の流れが遅かったことも。
泊まっていた旅館で夕食を食べた後、父の運転で夜にレンタカーで星空を見に高台に行った。ビルも街灯もない島は真っ暗で、明かりは空にしかなかった。月が眩しいと感じたのはあの時だけだったと思う。頭上に広がる夜空には普段、都会で見るのとは比べ物にならないぐらいの星が瞬いていて「こんなに星があったら星座なんて無限に作れるな」と思ったのを覚えている。
首を90度に曲げて、視界いっぱいに広がる星空に見惚れて、皆が口々に「綺麗ー」「すごいな」「みてみて!あっち!」とはしゃぐ。すると母が独り言のように「みんな視力が良いから私が見てるこれよりも凄い星空が見えてるんやろうなー」と言った。それに対して何か返事をしたかは覚えていない。けれど、視力が悪くてコンタクトをしてる母には、僕と同じだけの星が見えていないんだと驚いたことは鮮明に覚えている。
同じものを見ていても、見えているものが違うということを初めて知った瞬間だった。
石垣島から十数年がたって、今でもたまに「あっ、今この人は僕が見てるのとは違う世界を見ている!」と気付く瞬間がある。けれど、今回は自分があの時の母の立場だ。その時の僕は、”見えていない”側にいることが多い。
例えば歯医者に行ってレントゲンを撮った時。
数日前から奥歯が痛かったけれど、歯医者に行くのが面倒だった僕は、バファリンを飲んだり、保冷剤を当てたりして、騙し騙し我慢していた。けれどある夜、歯が痛すぎて眠れなかった時があり、降参して歯医者に行くことにした。
「いつぐらいから痛みます?」
「4日前ぐらいからです」
「どれくらい痛みますか?ズキズキ来る感じ?」
「はい、ズキズキします。そのせいで寝れない日もあったぐらいで、、」
「あーそうですか。多分神経まで虫歯が進行しているのかもしれないので、とりあえずレントゲン撮りましょうか」
神経というワードにビビりながら、レントゲン室に入って写真を撮った。席に戻ってくると、先生の目の前のディスプレイについさっき撮ったレントゲン写真が早くも映し出されていた。
「やっぱりねー」
先生はレントゲン写真を見て何か納得がいったかのように一人ぶつぶつ言っている。すると、可動式のアームを動かし、写真の映るディスプレイを僕の前に持ってきて説明を始めた。
「ここの奥歯が虫歯になっているんだけど、ここ見て。神経ぎりぎりまで虫歯が進行してるのわかる?ここは歯ブラシで磨きにくいと思うけどこれから意識してみてなー。あと、こっち側の親知らずが少し倒れながら生えてきるの見える?横の歯にぶつかってるからこれは次回抜いてもいいかもね。そのうち痛み出すと思うし。」
先生はモノクロの歯と顎の骨だけ映っているレントゲン写真を見せながら詳しく丁寧に説明してくれた。けれど、正直よくわからなかった。
「みえる?」と言われた部分は「んーなんかそういわれたら、そう見えるかも?」ぐらいで、診断の9割は言葉の説明から理解した。
先生の説明を聞きながら僕は、「ああ、この人には今、僕には見えていない世界が見えているんだなぁ」と思っていた。歯学・医学の知識がない僕にとってはただの骨の写真でしかないレントゲン写真は、先生の目には、今の痛みの原因、これまでの僕の歯磨きの仕方や癖、そして未来に起こりうる親知らずの痛みなど、たくさんの情報が詰まった写真として映っている。
あの時の石垣島で初めて気付いた瞬間を思い出す。二人で同じものを見ているのに、”見えている”ものはまるで違うということを。
けれどあの時と違うのは、今僕と先生の見えている世界を分けているのは”視力”じゃなくて”知識”によるものだということだ。
知識不足が原因で見えないことをつい最近も体験した。
大学を卒業しIT企業に入って数ヶ月、OSのインストールの不具合の原因を調べるために、プログラミングのコマンドを入力してマシンの情報を見るという作業があった。手順書通りにコマンドを打ち込んでエンターキーを押すと、黒い背景に緑の英数字でできた文字列が画面いっぱいに表示された。「うわーこれ映画とかで見るやつや!ITって感じ~」と浮かれていた僕は、必要な情報を中々探し出せないでいた。それぞれの文字列が何を表しているのかもわからないし、どこがどうなっていればエラーになるのかもわからない。
そんな僕の横で、一緒に作業していたSE歴20年以上のベテラン社員が腕を組みながら「なるほど、そっかー」と言っている声が聞こえた。
「え、どこを見てるんですか?」思わず尋ねた僕に彼は、
「いやここの値がな、〇#$%◇&ー」
後半、何を言っているのかまるでわからなかったけれど、とても納得した様子の彼を見て僕は、「あ、まただ」と思っていた。
この人は今、僕が見てるのとは違う世界を見ているんだ、と。
その後、そのベテラン社員の言うとおりに設定を変更したら無事エラーは解決され、OSのインストールは完了した。
プログラミングは言語と呼ばれるだけあって、それぞれに独自の文法がある。基本は英語と数字と記号が混ざった文字列なのだけど、知識がないと全く読めない。今では少しずつ読み書きができるようになってきたけれど、最初の頃に感じた、"訳の分からなさ"は、中学生の頃に英語の教科書を見た時の感覚を思い出させるものだった。(英語は高校を卒業するまでずっと分からないままだったけれど。)知識がある人は物知り顔で「フムフム」なんて言っているのに、僕からしたら「え、なにが見えてるの?」という状態。何が分からないのかも分からないまま、時間だけが過ぎていった授業の数々を思い出す。
見えている世界が違う時、その世界を分けているのは知識(経験)であることが多い。
「毎朝市場に行ってその日一番おいしそうな魚を仕入れてきます」と語る料理人。「そいつが犯人かどうかは目を見れば判る」という刑事。相手の服装、所作、話し方などから予想を立てて、あたかも本当に未来を見る力がある様に相手を錯覚させることのできる占い師。迷いなくペンを走らせ絵を描き上げる漫画家。無秩序でカオスな世界に秩序を見出す科学者。日常の風景を非日常のように見せる写真家。などなど。
みなと違う世界が見える事が求められるそれらの職業には大抵、プロフェッショナルという言葉が使われる。その世界を見ることができるかは、知識や経験の有無、見方を知っているかどうかなどの要素が絡まり合っていて、容易に達することができないものだから。
他の人が見えない世界が見える事は、その人に特権性を与え、それがその人を、プロフェッショナルという特別な存在にするのだろう。ともすればプロフェッショナルとは、他の人が見えない世界が見えるようになって初めて成れるものなのかもしれない。
「見る」というと視力をイメージするけれど、どれだけ眼が良くても見えないものがあることを多くのプロフェッショナルが教えてくれる。視界に入っていることと、見ることは違う。英語では「see (=視界に入っている)」と「watch (=注意深く見る)」の違いになるだろうか。(中学生の頃とは違い、英語の世界をだんだんと見ることができるようになってきている!)
人によって見えている世界、見えない世界がある。
そのことが分かると次の疑問が出てくる。
じゃあ、同じ世界を見ている人はいるのか?
自分と全く同じ世界を、あなたと全く同じ世界を、見ている人はいるのだろうか?
同じ視力で同じ知識を持つ料理人10人が市場に仕入れに行ったとして、全員が同じものを買ってくるだろうか?そんなことはありえない。10人いれば10通りの、100人いれば100通りの買い物かごになるはずだ。
つまり、料理人にしか見えていない世界の中に、料理人A、B、C…にしか見えない世界というさらに細かい世界があるのだと思う。
そしてもちろんそれは料理人に限らない。
全員が、自分だけが見える世界を持っている。
全員が、自分だけが見える世界を持っている。
そのことを証明しようとする作品を作ったアーティストがいる。
デンマークのコペンハーゲン出身の芸術家オラファー・エリアソンだ。彼は「自然現象と機械装置を組み合わせて、観る人の視覚を揺さぶるインスタレーションで世界的に知られている。」らしい。
というのも僕が彼を知ったのはNetflixの『アート・オブ・デザイン』というドキュメンタリーからで、2020年には日本でも展覧会が開催されていたみたいだけれどまだ実際に作品を見たことは無い。ドキュメンタリーで紹介されていた作品はどれも斬新で面白く、この展覧会を目当てに海外旅行してもいい!と思うほどだったけれど、中でも一番印象に残っている作品がある。
それは『Beauty(1993)』という作品で、天井から微細なミストを流し、それに照明を当て虹を作るというシンプルなもの。多くの人が、子供の頃にホースの水で同じことをしたことがあるんじゃないだろうか?
実際、ドキュメンタリーの中でも、この作品は部屋全体をインスタレーションにするような彼の他の巨大な作品と比べてかなり地味めなものとして扱われていた。
真っ暗な空間でオーロラ見たいに揺れている虹は綺麗でずっと見ていられる。だけど僕が感激したのはこの作品に込めた意図を知ってからだった。ドキュメンタリーの中で彼はこの作品について、「これは観客に、『あなたのものの見方には絶対的な価値がある』、ということを思い出してもらうために作ったものなんです」と語っていた。そして次のようなことを続けた、自由の代表のような顔をしているアート業界はその表の顔と裏腹に、実は最も権威主義的で凝り固まった世界でもある。美術館の壁に刻まれている莫大な寄付をしたビリオネアたちの名前や、関係者やセレブだけが招かれるセレモニーの数々。美術館が作品の良し悪しをジャッジする役割を独占していること、そしてそれらの美術館の間にも確固たる序列があること、などなど。挙げていけばきりがない。そんなお金と権威が渦巻いているこを知らない観客は、無意識のうちにその世界に最下層として参加する。
「これは目立って飾られているから良いものなんだろうな」「この絵めっちゃ高いらしいで」「ここの説明読んだ?」「みんな写真撮ってるし写真撮っとくか」
皆、誰かの判断をトレースしている。
自らの展覧会でそんな会話をたくさん聞いた彼はこの『Beauty(1993)』という作品でそれを変えようとしたという。
この作品はミストとして空気中に散らばった雨粒に光(ここで言う光は太陽光のように様々な波長が交じり合ったものである必要がある。蛍光灯や、ブルーライトなど波長が単一の光では虹はできない)が反射して虹ができる現象を使ったもので、言ってしまえば演出されただけのただの自然現象だ。
そもそも虹は、光が空気中の雨粒の中に入るときに屈折した後、反対の面に当たって反射し、その反射した光が雨粒を出るときにさらに屈折した結果、光の波長がずれることで見えている。そして、そうやって屈折した光は、それを目にする人の眼との角度によって色が決まる。そのため理論上はビルの屋上で見える虹の色と、地上で見える虹の色は異なっているし、さらに、同じ窓から虹を見ていたとしても、自分と横にいる友達とで見ている虹は一緒じゃない。写真のように視点を共有しない限り、僕らは肉眼で同じ虹を見ることは絶対にできない。
「あっ、虹!見て見て!」
「ほんとだ!綺麗」
そう言っているふたりが実は、別々の全く異なった虹を見ているという事実はなんだかとても不思議で面白い。
見る人の数だけ虹が生まれる。
つまりそれは、虹が存在するには「それを見る人」の存在が不可欠だということでもある。雨粒が光を反射してもそれを見る人がいなければ虹は生まれない。でも逆に、見る人がいればその眼の数だけ、虹が生まれる。
多くの観客が他人(特に権威を持った)の価値観や判断をトレースするように自分の作品を見ている。そんな状況を嘆いていた彼は、この『Beauty』を通して、「虹が生まれるにはそれを見る人が必要。でも、”その虹”が生まれるには”あなたが自分の眼で見ること”が絶対的に必要だ。他人の眼を通してではなく、あなた自身の眼で見ればいい」ということを伝えようとした。
全員が、自分だけが見える世界を持っていて、そこに優劣はない。
なんという優しさだろう。そんな優しさが込められた作品のタイトルが『Beauty』なのもいい。
全員が、自分だけが見える世界を持っている。
それは、自分と同じ世界を見ている人はいないということでもある。
10組のカップルがいたらそこには20個の恋愛があると言うように、たとえどれだけ親しい他人や家族であっても別々の世界を見て、生きている。
それは悲しいことだろうか。
”僕”はそうは思わない。
むしろだから言葉があるし、話したいと思うんだろう。
この作品を知ってから、虹を見るたびにそのことを思い出す。
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