ものすごくうるさくて、ありえないほど近い
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という映画を見た。父が原作小説を持っていて本棚に置いてあるのを見ていたから題名は昔から知っていたけど読んだことはなく内容は知らなかった。印象に残るタイトルだけれど、どういう意味かはよくわからない。だから予告編も観ずに再生してこんな話だったんだとびっくりした。
(Netflixだと前情報一切無しで観たり出来るのが楽しい。家から少し距離がある本屋さんに、文庫本に黒色のカバーが付けられなんの本かわからない状態で買う「秘密文庫」というものが売っていた。残念ながら買ったことは無いけれど、事前に内容を全く知らない状態で触れることで映画も、小説も違った感じ方をもたらす。良くも悪くも人は先入観を持っているから。真っ黒のカバーがついた本を読む、予告編もあらすじも知らない映画を観る、食べログで調べずにレストランに入ってみる、年齢・職業・肩書きなど全く知らない人と話す。何も知らない事に触れるのは時に僕を不安にさせるけれど、わからない事に挑戦するのは勇気のいる事だけど、たまにはそんなことを試してみてもいいんじゃないだろうか。知ったもの、分かったものだけで囲まれた部屋の窓を思い切って開けた時、吹き込む風が部屋の空気を入れ替えて、世界を少し新鮮に見せてくれるかもしれない。)
そんな観る前の予想とは大きく異なる内容の映画だったけれど、とってもよかった。幼い主人公の持つ溢れんばかりの知的好奇心や、後半に明かされる母親の大きな愛など、思わず涙目になってしまうような印象的なシーンもたくさんあった。けれど、特に良いと感じたのは、冒頭のお父さんとのシーンだ。
冒頭に、9.11のテロにより亡くなってしまうため、お父さんが出てくる場面は映画全編を通してもそれほど多くはない。しかし、主人公の心の中には常にお父さんの存在があるように、物語の背後には全編通して父親の存在感が非常に強く表れている。だけどそれはいつも天国から見守っているというような神秘的なものじゃなくて、託され受け継いだ「教え」といったもっと現実的なものとして感じられるものだった。
物語の序盤、内向的な性格の息子に外の世界に少しでも興味を持って欲しいと父が考えた「調査探検」と題した遊びを親子で行っているシーンが描かれる。学者である父は、息子の好奇心を刺激する理系の知識とともに、一人では解決できないような課題をあえて設定することで息子が自然と他者と関わる機会と必要性を作っている。「調査探検」は彼らなりの遊びであると共に親としての教育の役割も果たしている。人は(特に幼い子供は)遊びながら学んでいく。遊びと学習は分かち難く結びついており、境目を見つけるのも難しいくらいだ。それを遊びの側面を強めにして与えることのできた彼は優れた教師であり父親だったのだと思う。そしてその遊び(かつ学び)を通して父親は息子に人と関わることの楽しみと、一人で考え尽くすことの重要性を授けようとしている。そんな学者という職業ゆえに子育てでも教育者然とする父親との「調査探検」は父親の突然の死によって無情にも断ち切られてしまう。けれど、僕たち観客は、世界に怯えつつも勇気ある歩みを一歩また一歩と踏み出す少年のその小さな背中を通して、父親が遊びを通して授けようとした贈り物は既に彼に授けられていたという事実を知る。少年が劇中に何度も見つめ返す父との思い出の中には父が自閉的な息子に「調査探検」を通して授けたかった”人生を幸せに生きる方法”の種があり、その種が物語が進むにつれて最終的に親からの自立という花を咲かせるストーリーはとても美しい。
さらにこの映画には僕の「こんなお父さんになりたいな」と思う一つの理想の父親像が描かれていた。何かを教えるという事はとても難しいことである。それが自分の子供となれば尚更難しいけれど、僕は将来その場面に立ち会う(立ち向かう?)時に必ずこの映画を思い出すだろうというなにか確信めいたものを感じた。
この映画を観た後僕は、父親になった時、親として何を自分の子に教えたいだろうか考えた。そしてそれは「幸せに生きる方法の学び方」だと現時点では思っている。僕にとっての幸せが、子にとっても同じく”幸せ”であるかはわからない。自分の理想やものさしを押し付けることはしたくない。子供に対して「こんな人になって欲しいな」という期待はするだろう、けれどそれがまるで呪いのようにその子の選択肢を、世界を狭めてしまうものにならないように気を付けなければいけないと思う。
こんな生き方をして欲しい、これは正しくてこれは間違っている、なんて伝えてしまうことは親であれどとても傲慢な行為なのかもしれないと思う。両親はそういうふうな事を僕に教えてこなかった。そこに今ではとても感謝している。その経験ゆえだろうか、いつか親になった時、たとえ自分と比べてはるかに未熟な幼い我が子であってもその子の価値観、その子の人生を対等なものとして尊重したい。そしてこれまで自分が選んだ価値観や人生との違いで驚かせて欲しい。(けれどこれは子に対して無責任であれということを意味しない。たとえば「教える」ということに関して、その子が見てない世界に対して一度は目を向けさせる機会を作る事は自分が親として責任を持って行わなければならないことの一つだと思う。)
「幸せに生きる方法」自体を教えることはできない。(そもそも僕が幸せに生きる方法を知らない。)けれど、その方法を子供が自ら創っていく手助けならできる。中学生の頃、漫画家で「暗殺教室」の作者の松井優正と陶芸家(名前を忘れてしまった)の対談が家の近くで開催され友達と見に行った。その対談の中で松井優正が「自分探しって昔流行りましたよね、でも私は自分というものは探すものじゃなくて、年を経ていく中で見つけた細い糸を縄のように織り成していくことで次第に現れてくるようなものだと思うんです」と話していたのを鮮明に覚えている。生きるということは生まれ持った鍵穴に合う鍵を探すことではないし、自己啓発本を書いているような人たちが誰の扉も開けることができるようなマスターキーを持っているわけでもない。決まった手順や正解があるわけではなく、ましてや自分の創り上げた方法がほかの誰かにも当てはまるなんてこともない。各々が時間をかけて、試行錯誤し、時に傷つきながらでも創造していくしかないのだ。自分だけの正解を。
僕はこの映画を観て、将来自分も劇中の父親のように子供に「学び方」を伝えることができたらいいなと思った。「正解」ではなく「学び方」。それこそが後々自分が側にいてやれなくなった時に、その子の助けになるものだと思うから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?