丹後地域と絹織物の関係性について
皆さん、こんにちは 梅田です!
前回は、京丹後地域の伝統産業「丹後ちりめん」について記事を書きました。
丹後地域では、「丹後ちりめん」も含めて、約1300年前から絹織物との関係があり、丹後地域にとって必要不可欠な存在でした。
とゆうことで今回は、丹後地域と絹織物の歴史について書こうと思います!
■なぜ丹後地域は絹織物が栄えたの?
丹後地域では、古来から「弁当忘れても傘忘れるな」と言い継がれています。
これは「うらにし」と呼ばれる季節風の影響で、朝は晴れているかと思えば突然暗雲が出てきて、雨や雪を交えた湿度の高い風が吹き荒れたかと思えば、すぐに晴天に戻ったり、一日の気象の変化が激しいのが特徴で良く天気予報も外れることが多いです。
この丹後地域の特有の気候は、気温の低い冬でも湿気を多く含んでおり、古来から、乾燥すると糸が切れやすくなる絹織物に適していたと言われています。
■丹後の絹織物は「丹後ちりめん」だけじゃない
丹後地域でちりめんが織られるようになったのは、江戸時代中期、1720年代のことで、その技術は京都西陣から学んだものでした。
しかし丹後地域では、西陣からちりめんの技術を移入する以前から絹織物の産地として名を知られていました。
名を知られるきっかけは、天平11年(739年)に丹後国竹野郡鳥取郷(京丹後市弥栄町鳥取)から聖武天皇に献上した「絁(あしぎぬ)」が今日なお、奈良県正倉院に保存されているからです。
この絁が、丹後地域で生産された現存する最も古い絹織物です。絁とは、古代日本に存在した雑なつくりをした絹織物の一種で、具体的な定義は複数の説があるようです。
■丹後地域初の地場産業とは?
古代における日本人の衣服の様式や材料は様々でしたが、一般に絹織物は、貴族階級の人々が着るものであったようです。
しかし絹織物に対する需要は、狭い貴族階級だけの市場の範囲を超えて次第に拡大していくことになります。
また生産力の発展がく絹織物の市場拡大に繋がり、糸の生産技術、織機の構造も改善され、新たに「丹後精好(たんごせいごう)」絹織物も登場しました。
丹後精好については、高級な絹織物であると言うことのほか、生産方法等の詳細は不明なままです。
しかし、それが市場生産を目指す産業であった事は確かな事実であり丹後地域にとって歴史上初めての「地場産業」でした。
■「織物業」は古来から丹後地域の中心にあった
江戸時代、儒学者である貝原益軒(かいばら えきけん)の書物「丹後与謝海図誌」の中には「丹後絹」という記述があります。
それは「丹後精好」やその他の絹織物、あるいはすでに生産が始まっていた「丹後ちりめん」を指していたかは、不明ですが、織物業は長く丹後の人々の生活を支えてきたことは確実に言えるでしょう。
(貝原益軒の「天橋記」(元禄2)には天橋立も描かれています。)
さらに貝原益軒は、兵庫県の城崎温泉に行く途中に宮津市に立ち寄ったみたいです。17世紀初め、船出船でにぎわった港町・宮津市は、かつて江戸・吉原を模した遊廓(ゆうかく)が軒を並べているよな城下町でした。
「二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空となる」
と民謡に唄われるほど栄えていた宮津市をはじめとして、丹後地域では、数百年もの間、地場産業として生産を行ってきた「丹後精好」や「紬(つむぎ)」などに支えられてきましたが、18世紀に入ると、新たに出現した絹織物によって市場を奪われるようになりました。
それは、ほかならぬ「丹後ちりめん」だったようです。
■まとめ
①丹後地域特有の湿気の多い気候が絹織物に適していた。
②「絁(あしぎぬ)」は、丹後地域で生産された最も古い絹織物として現在も奈良県正倉院に保存されている。
③「丹後精好(たんごせいごう)」は、丹後地域にとって歴史上初めての「地場産業」として生産された。
④丹後地域は、数百年もの間、既存の絹織物産業によって支えられてきたが、18世紀に入ると新たに出現した「丹後ちりめん」によって市場を奪われるようになった。
さぁ次回はついに「丹後ちりめん」の歴史について書きまーす!
もしよろしければ、読んでください!