19歳で保育園を起業した舞台裏(エデュリー菊池さん①)
今回ご紹介するビジネスのプロフェッショナル「ビジプロ」は、19歳で起業し、地域に根差した「世界にひとつだけの保育園」を各地で運営している株式会社エデュリーの代表取締役社長、菊地翔豊さんです。
起業の経緯、「世界にひとつだけの保育園」というコンセプトの意味、保育事業で目指すことなど、菊地さんのお話を3回に分けてご紹介します。
初回は、菊地さんの起業の経緯について聞いています。いまの菊地さんがあるのは、高校のときの躓きがきっかけでした。
この記事はFMラジオ、InterFMで毎週日曜20時30分からお送りしている番組「ビジプロ」で放送された内容と、未公開部分を併せて記事化しています。ビジプロは、「サラリーマンは300万円で小さな会社を買いなさい」などの書籍や、個人M&A塾「サラリーマンが会社を買うサロン」で知られる事業投資家の三戸政和が、さまざまな分野の先駆者をゲストに招いて話を聞き、起業や個人M&Aなどで、新たな一歩を踏み出そうとしているサラリーマンを後押しする番組です。番組は三戸さんとの対談ですが、記事はゲストのひとり語り風に再構成しています。
音声アプリVoicyでは、ノーカット版の「ビジプロ」を聴けますので、こちらもお楽しみください。
労働対価で収入を得るのは非効率
私は19歳のとき、保育園を運営する株式会社エデュリーを起業しました。現在、東京、埼玉、神奈川で認可保育所をメインに12の施設を運営しています。エデュリーは、「世界にひとつだけの保育園」をコンセプトに、それぞれの地域の特色に合わせた保育園作りをしています。
19歳で起業をすることになったのは、若い頃のアルバイト経験が大きかったと思います。私は家が裕福ではなかったので、中学生の頃からアルバイトをしていました。高校はさまざまなことがあって中退し、海外に留学することになるのですが、15~16歳のときは、留学費用を貯めるためにひたすら働きました。たぶん人生で一番働いたと思います。
そんなふうに働きながら感じていたのが、時給1000円くらいで自分を切り売りすることの非効率さでした。その思いが起業につながっています。
制服を着ることができなかった学生時代
留学は、日本の高校に在籍しながら行くのでもなく、休学していくのでもなく、退学して行きました。私自身は高校を辞めたかったわけではないのですが、私は中学の頃から働いていてちょっとほかの人と違ったところがありましたし、高校で、ほかの生徒がやっているようには振舞えなかったこともあって、学校側とうまくいかなくなったのです。
一例を挙げると制服です。学則には制服の着用についての決まりがなかったので、私は私服で学校に通っていたのですが、ほかの生徒は皆、制服を着ていました。制服を着るかどうかは自由だと思っていたのに、先生からは「なぜほかの生徒と同じようにできないのか」と問い詰められました。
決まりがないなら自由だと思うのですが、その学校はそうはいきませんでした。このほかにもいろいろと学校側とぶつかってしまって、結局、退学することになったのです。
ヤナセ自動車の創業者から留学資金を借りる
高校を退学し、留学することにしたのは、ある同級生がきっかけでした。その同級生は青木大和さんという、いま活動家をしている人で、彼もアメリカ留学帰りでちょっとほかとは違った生徒でしたが、私が退学する日、自分の荷物を取りに教室に行ったとき、彼から「翔豊は留学した方が良いよ」と言われたのです。
その一言がきっかけで私は留学のことを考え始め、母親に留学したいと話したのですが、うちは高校に行くのにさえ奨学金をもらっていたくらいですから、留学費用なんてありませんでした。それでも、留学したいという話を何度かしているうちに、両親がなんとかしようと考えてくれて、父親が勤めていた会社と相談してくれました。
そのとき、会社側で相談に乗ってくれたのが、当時の社長で、ヤナセ自動車の創業家出身の梁瀬泰孝さんでした。簗瀬さんは幼稚舎からずっと慶応一筋の慶応ラブの人だったそうで、父親が、「息子は高校を卒業したら 絶対に慶応に入ります」と伝えたら、簗瀬さんから「それだったら500万円を貸そう。ちゃんと10年で返せ」と言ってもらえて、お金を借りることができたのです。
消去法で選んだ国だったが…
私が留学先に選んだのはニュージーランドでした。本当はアメリカやイギリスに行きたかったのですが、500万円で3年間の留学が可能な国はニュージーランドとフィジーしかありませんでした。フィジーには行きたくなかったので、ニュージーランドに決めました。
私が留学先に選んだのはニュージーランドでした。本当はアメリカやイギリスに行きたかったのですが、500万円で3年間の留学が可能な国はニュージーランドとフィジーしかありませんでした。フィジーには行きたくなかったので、ニュージーランドに決めました。
日本の高校は1年の途中で退学しているので、ニュージーランドの高校の1年途中から入って、2年半過ごして卒業しました。
消去法で選んだ国でしたが、ニュージーランドは本当にいい国でした。私がいまの教育事業をやりたいと思うようになったのも、ニュージーランドで受けた教育がすごくよかったからです。
ニュージーランドの教育は主体性を重んじます。「テファリキ」という教育指針が有名ですが、その特徴は、子どもを幼い頃からひとりの人間として扱い、その主体性を尊重しようというものです。その特徴はニュージーランドの文化にもなり、女性の社会進出も進んでいます。女性の参政権を世界で初めて与えたのはニュージーランドですし、いまの首相も女性です。
教育も進んでいるように感じました。高校から単位制で、どんな教科を学ぶのかを自分で選ぶ形でした。ひとりひとりが尊重され、自分が主体となって決めるというニュージーランドの文化や教育制度が、本当に私を変えてくれたと思っています。
環境もとても良かったです。私の行った高校は、オークランドからバスで1時間半くらいの、繁華街などのない自然豊かなところにありました。街灯がほとんどないので、夜になると本当に真っ暗で、星がすごくきれいでした。ビーチに行くのも歩いて1分で、そんな環境でしたから、すごく勉強に没頭できました。
保育事業を選んだわけ
そのとき没頭していたのが、教育制度や女性の社会進出について調べることでした。当時の日本でクローズアップされていた待機児童の問題や、日本でなかなか進まない女性の社会進出の問題なども研究し、いろいろな保育園に行って調べたりもしました。
そんなニュージーランドでの経験で、「教育が自分を変えてくれた。教育に携わりたい」と思うようになりました。一方で、起業したいとも考えていましたから、その2つがあいまって保育事業にたどり着きました。
私の母が保育士だった影響もあると思います。保育事業については小さな頃から見聞きしていましたから、大変さもよく知っていました。
保育事業は大事なお子さんを預かる事業ですから、トラブルを起こしたときの重大性が起業のハードルになりますが、起業当時は、そのリスクに立ち止まるよりも、「まずはやってみよう」という気持ちの方が大きかったです。
当時は、待機児童問題が高まり始めた頃で、起業に当たって、保育利用者へヒアリングをしましたが、お母さんやお父さん方から、「保育園に預けたいけど預けられない」という切実な声を聞きました。
とくに女性からは、子どもを預ける場所がないと働けないし、社会進出もできないという悩みを聞いて、私は、この事態をなんとかして解決しなければならないという思いに駆られ、起業に至りました。同時に、当時の状況から、新規参入する業界としては悪くないとも考えました。
安全性や衛生面に関する意識は、会社が大きくなって、預かるお子さんの数が増えれば増えるほど上がってきました。環境が自分を育ててくれるところはあると思います。
起業後ハードルは行政との戦い
起業をしたとはいえ、すぐに事業が軌道に乗ったわけではありません。保育園の運営ですから、公的な補助金が得られる許認可保育園を目指すのですが、行政からは、「事業実績のないところに許認可は出せない」とはっきり言われました。そのためまずは認可外の保育園として実績を作って、その後に認可保育園を目指すことにしました。
保育園事業は、施設を用意するために最初に大きなお金がかかります。ですが、うちの最初の保育園は、もともと認可外の保育園をやっていたところを居抜きで借りることができました。駅近で、賃料もそれほど高くない良い物件だったので、運が良かったです。
創業資金は日本政策金融公庫から借りることができました。両親には最初、「お前に保育事業はできない」と言われたのですが、「こちらとしても、もう登記もしてしまったしやるしかない」と言ったら、結局、細かいことを言わず、連帯保証のためのハンコを押してくれました。
立ち上げメンバーは、私と母の友人の保育士2人でした。最初は社会保険もありませんでしたし、労務系の決まりもありませんでした。給与明細も、私がエクセルで作って、それが正しいか怪しいくらいという、本当に何も揃っていない状況でした。
それなのに、一緒に始めたメンバーは、私がゼロイチで始めたことと、社会問題を解決したいという思いをすごく理解してくれて、未熟な自分を応援してくれました。
19歳で起業したことの明暗
19歳という若さで起業をしたのは、いま振り返れば、プラスなこともありましたし、マイナスなこともたしかにありました。
マイナス面は、たとえば、若さゆえに行政からすごくいじめられたことです。起業当初は、行政との折衝の仕方もわかりませんでしたし、アポを取って行っても担当者が不在で会えないこともありました。こちらが若いため、担当者に、端から「できないでしょう」と言われたこともありました。
それでも、若いことはプラスの方が多かったです。たとえば、人づてにだれかを紹介してもらうのにも、「若いし、面白そうだから紹介するよ」と言われて紹介してもらうことがかなりありました。
銀行は、最初はなかなか相手にしてくれませんでした。しかし、私は起業とほぼ同じ頃に慶応大学に入ったのですが、慶応人脈から「若い人を応援しよう」ということで、銀行の支店長や本部レベルの人を紹介してもらうことができました。
そして、話を聞いてもらえれば、事業の地域性の高さや社会貢献度の高さを理解してくれて、銀行としても応援しようという方向になり、借入が可能になりました。いま借入は数十億円レベルにまでなっています。こうなったのも、私が若かったゆえで、若さがなければそういう人脈やネットワークにアクセスできなかったと思います。
起業後も大学に通った理由
事業をしながら大学に通っていたのは、実は、事業を立ち上げたはいいけれど、最初は全然仕事がなかったからでした。立ち上げ当初は保育施設を作るお金がなかったので、保育施設の箱を持っている企業などから運営を任される受託事業をしようと考えていたのですが、実績のない私たちに、運営を委託する企業はなかなか現れませんでした。
そのため、いったんビジネスを閉じて、再起を図った方がいいんじゃないかと思い、就学のために2ヶ月間、受験勉強をしたら、慶應義塾大学の総合政策学部に受かりました。それで大学に通うことになったのですが、慶応人脈からはいろいろと得ることができましたし、この後お話しする友達のおばあさんとも知り合うことができました。大学に行ったからこそ、ビジネスも一気に回り始めることになったのです。
留学費用を貸してくれた簗瀬さんに約束した慶応大学への進学も果たすことができました。ちなみに、お借りしたお金はすべて返しきりました。
次回は、菊池さんの「子どもの主体性を伸ばす9つの要素と科学」をお伝えします。
※この記事は、日曜20時30分からInterFMにて放送しているサラリーマンの挑戦を後押しするベンチャービジネス番組「ビジプロ」の内容をまとめています。
三戸政和(みとまさかず)事業投資家、ラジオDJ
1978年兵庫県生まれ。同志社大学卒業後、2005年ソフトバンク・インベストメント(現SBIインベストメント)入社。ベンチャーキャピタリストとして日本やシンガポール、インドのファンドを担当し、ベンチャー投資や投資先でのM&A戦略、株式公開支援などを行う。2011年兵庫県議会議員に当選し、行政改革を推進。2014年地元の加古川市長選挙に出馬するも落選。2016年日本創生投資を投資予算30億円で創設し、中小企業に対する事業再生・事業承継に関するバイアウト投資を行っている。また、ロケット開発会社インターステラテクノロジズの社外取締役も務める。
著書に『サラリーマンは300万円で小さな会社を買いなさい』(講談社+α新書)、『資本家マインドセット』(幻冬舎NewsPicks)、『営業はいらない』(SB新書)、『サラリーマンがオーナー社長になるための企業買収完全ガイド』(ダイヤモンド)、『サラリーマン絶滅世界を君たちはどう生きるか?』(プレジデント)などがある。Twitterのアカウントは、@310JPN。