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ワンカップおばちゃん

夢の中の話かもしれないし、現実に起きたことかもしれない。。

それくらい、記憶が曖昧な話なんだけど、東京で働いている時の話。

その日はとても暑い日で、汗だくで外回りをしていた時、もうどの駅だったかも忘れてしまったけど、長い階段を登って行った先に、駅の改札があって。
やっと階段を登り切った時に、おばちゃんから声を掛けられた。

何やら話を聞くと、財布を無くしてしまったらしく、最寄り駅までのお金が無いので、切符代を恵んでくれないかというお願いだった。
僕は応諾し、切符代よりも少し高いお金を差し上げた。
我ながら困った人のためになれた気がしてとても清々しい気分になった。
ここまでは笑

その後感謝を告げたおばちゃんは、なぜか改札の方には向かわず、フラフラと階段を降りていった。呼びかけて一緒に改札へ行けば良いものの、なぜか僕はおばちゃんを見守ることにした。

フラフラとおばちゃんはついに階段を最後まで降りきった。
そこで僕はあることに気がついた。階段を降りた先には酒屋があった。
おばあちゃんはなんの躊躇いもなく酒屋に入っていき、おそらく僕が差し上げたお金でワンカップを買って店から出てきた。
一瞬お金を返してもらおうと思ったけど、なんだか虚しさと切なさを感じた僕はそのままその街を後にした。

仏教の教えに「無我」というブッダの教えがある。
私とは「私以外のすべてのものでは無いもの」というなんとも分かりづらい解釈である。
例えば、全宇宙に自分しかいなければ、「私」は認識されないし、そもそも「私」の概念も必要なくなる。
「私」と他者は、相互依存関係にある。他者がいて、初めて私を認識できる。
しかし、他者の認識などは自分には分かる由もない。
ということは、人が認識している私は捉え方次第でいかようにでも変えられる。
つまり、執着も認識次第で捨てる事ができる。自分を楽にする事ができる。

ちょっと分かりづらい。
最近読んだ本で分かりやすい例えが書いてあったので紹介したい。

そもそもである。身体は、食べ物で出来ている。
自分のからだは、食べもの、つまり「自分以外」のものからできているのだ。
もっといえば
「鳥」も、「鳥」以外のもので出来ている。虫とか食ってる。
「虫」も、「虫」以外のもので出来ている。草とか食ってる。
「草」も、「草」以外のもので出来ている。水とか太陽の光とか。
この世界は、全部つながりすぎている。
ちゃんと観察すると、「これが自分」と言えるものが何もないことに気づくのだ。
「無我」である。

「自分とか、ないから」P38

そもそも人間の細胞は何ヶ月間かで完全にターンオーバーする。
今の自分と数年前の自分は、たしかに顔は変わらないかもしれないが、完全に細胞は入れ替わっている。
全く変わっていない人など誰一人もいない。

また、この世界はつながりすぎている。
循環している。見えない空間で、見知らぬ人同士で物質交換をしている。
呼吸をして、息を吐き出している。直に感じられないレベルで、身体はつながり合いながら、循環しているのだ。

とここで、先ほどのおばちゃんの話に戻りたい。
僕は当時、怒りにも似たやるせない気持ちを抱いていた。

でも今ははっきりと違うとお伝えしたい。
僕が差し上げたお金と誠意が、仮におばちゃんに伝わらなかったとしても、その何百円が、その日のおばちゃんの幸せに寄与できたなら、それで良しでいいのではないかと。

より幸せを感じるためには、自分ではなく他者の幸せを願うといいらしい。
そもそも自分とは自分が認識しているだけのものだし。

家族や友人など近しい人の幸せを願うのはもちろんだが、たとえ見知らぬ人だったとしても同様に幸せを願うと良いらしい。
また、心底嫌いな人でもそうらしいのだ。なかなか出来ないけど。

すべては繋がっている。
僕とワンカップおばちゃんも、きっとどこかで必ず繋がっている。
今日すれ違ったため息ついて疲れまくってるサラリーマンも、新幹線で隣になったどこかのバンドTシャツを着たおばさんも、ドラッグストアで一つ前に並んでイライラしたおじいさんも、コンビニで接客してくれた若い兄ちゃんも、お店の予約をしようと電話した先でとっても感じの悪かったおねえさんも。
多分僕の事が嫌いなあの人も。

今日の僕を構成してくれた、愛すべき見知らぬ人達が、無事家に帰る事が出来て、美味しい夜ご飯を食べる事が出来て、何事も無く眠りにつけますように。
そして明日も元気に過ごす事が出来ますように。

感謝を込めて、また明日から笑顔で頑張りたいと思う。




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