ひきこもれ
ひきこもれ 吉本隆明
吉本ばななさんのお父さんの本です。
本の内容まとめと思うことです。めちゃめちゃ思ったままにサラサラ書いたので、誤字脱字すごくあります。何言ってるかわからないところもあります。
ひきこもることは、世の中が思うほど悪くない。世の中は社交性を良しとして、ひきこもりを悪とする風潮がある。ひきこもりにも価値はあるのだ。メディアが、ひきこもりを悪としている。だから、皆引きこもりを悪としている。しかし、引きこもりは、自分と対話したり、スキルを磨いたり、自分の中に価値を増やしているのだ。確かにそれで社交性とかコミュニケーション能力は養われないかもしれない。でも、その価値が増えれば、この人の言うことは深みがあるなとか存在感あるなとか、話してみたら面白いやつだなとなるのだ。だから、コミュニケーションに関して、コンプレックスがあり、そういう人は周りから面白くあい人だなとか、つまらないと言われているかもしれないけど、それをコンプレックスに思わなくていい。他人と上手くコミュニケーションできない、ひきこもり、なんていうのは本来は善悪で判断するものではない。その人の性格とか個性の話であり、それを悪いとか良いとかそんなもんで判断するのはおかしい。恋愛においても、結局は結婚したいとかなんてのは、遺伝子レベルが合うかとかそういう話になってくるし、自分にとって好ましいかどうかの話になるわけで、コミュニケーションができるとか美人とかそういう所は意味を成さない。そもそも、人間は母のおなかの中にいる時点で性格とか、そういうものが決まってくるわけだから、無理してそれを変えようとしても取り繕おうとしても違和感のあるものになる。生まれながらに決まってるものを無理して、変えようとかしなくてもいいのだ。それを世の中の風潮が悪とするから、それで悩む人がいるのだ。本質的なところは一生変わらない、引きこもり気質の人はずっと引きこもり気質だし、人間関係においても、ある一定の距離感まで近づけば、あとは好ましいかどうかだけ。コミュ力とか、そういうものは意味をなさなくなる。
私自身は、軽度であるとは思うが、ひきこもり気質であり、病気かもと思ったこともあるが、確実に病気ではない。この引きこもり気質を直そうと努力したこともあったが、結局のところ、本質は変わらないので、引きこもりのままである。
社交的な自分を演じている時、私は相当自分で違和感を感じている。こんなに話す自分は本来の自分ではない。必要以上のおしゃべりを面倒くさいと感じる自分は、よくしゃべる人と長時間共に過ごすことがかなり苦痛である。コミュニケ―ションの練習だと思って、その人と共に過ごしたりしたこともあったが、やはり最終的には合わない。どこかで、自分を偽って他人と付き合うことが当たり前になっている俺は、つい無理をしてしまうのだ。見栄を張って社交的でキラキラしている奴とも仲良くなろうとしてしまう。私の本質は引きこもりなんだということを理解し、それは悪いことではないから変えようとしなくていいし隠さなくていい。そしてそれは、努力しても変わらないものである。だから、自分と合う人間というのは割と最初から決まっているのだ。仕事でもない限り、偽りの自分を演じる必要なんてないんだなと思う。友人関係において私は無理をしすぎてるのかもしれない。良く話す自分なんて演じなくていい。演じてたら、そういう人が周りに集まってくるから。それでしんどくなってしまうでしょうが。しゃべりたくないなら、しゃべらなくていいのだと思う。
4分の1程度の内容ですが今日はここまで。