自分史⑪家族の軽さと孤独の重さ
あんまり忙しいという言葉は好きじゃないし、
そう思ってない気もするがちょっと重なりすぎてる。
少し詰まんない時間の使い方を余儀なくされてること自体、そのことよりそれを許している自分の判断が不愉快だ。
いろんな意味で力が足りないなー
久しぶりの自分史、やり方を覚えてない。。。
命が生まれる朝の睡魔
10tドライバーをやっているとき、週替わりで日勤夜勤が入れ替わっていた。
時には反対をやっている人間が体調不良とかで36時間勤務などを頼まれる。
そんなのはざらにあった。
どうやって生きていくか、何も答えを持ち合わせないまま妻は彼女の実家、浜松で臨月を迎えた。
夜勤が終わるのは確か朝5時ごろ。
嫁本人からLINE的なもので産気づいたと連絡きたのがちょうど仕事終わりだった。
何も考えず、その足で浜松に向かった。
距離的にはたかが2,3時間の距離だったが 単純に疲れて眠かった。
そうはいっても と走り続けたが、走りながら寝てる距離が次第に長くなっている気がする。
死ぬかもしれんってことで 正しい判断と思うけど、30分だけ寝ようと車を止めた。
目を閉じて何分立ったか覚えてないけど、嫁から電話がかかってきた。
「生まれたよ」
2秒で目が覚めて、またすぐ走り出した。
妻の初めての出産にそばにいてやることができなかった。
このことは今でも言われている。
父になる
そのあとは休みの度に浜松に通った。
相変わらずドライバーは楽しくもなく、子供がいることがモチベーションになることはなかった。
嫁はあまり母乳が出ず、はじめそれに気づけなかったので長男は少し飢餓状態だった。
嫁はそのことにとても傷ついていた。
僕は別に粉ミルクあるからいいやんって感じだった。
相変わらず僕は変わってない。
一か月がたって、ミルクでようやく落ち着き嫁が滋賀に来た。
子どもとやっと一緒に暮らせる。
僕は彼が生まれたとき、自分に似ていなさ過ぎてなにか納得がいってなかった。
ただ、そんな彼でもあり得ないほどかわいかった。
女の子がいいなーって思ってたのも完全に忘れて彼にドはまりしていた。
僕たちは兄家族と共に両親のいない実家に住んでいた。
兄は当時子供はいなかったが自分の子のように喜んでくれて、兄の嫁も我々が間借りしていることに嫌な顔一つしなかった。
僕が恵まれているのは家族だ。
お金では絶対に買うことができない素敵な嫁や家族がいる幸せは今でも心を満たし続けている。
それでも仕事がどうしても楽しくなかった。
今につながる一本の電話
教育事業をやろうと思っていたときの知り合いから 突然連絡があった。
「海外で農業をやろうとしているベンチャーがある、海外に強い人材を募集している」
そんな話だったように思う。
興味ありますか?って話にほぼ即答した。
それがどこで何をするかなんかどうでもよかった。
場所や環境に固執したことは一度もない。
ただ、面白そうだと思った。それだけだった。
その時は農業の「の」の字も耳には入ってなかった。
それが不幸の始まりかしあわせの始まりか 今でもよくわからないくらいそのあと様々な混乱はあったが 結果的にはあの電話がなければ全く違う今になっていただろう。
そのころ(8年位前)まだ珍しかったであろう、スカイプで顔合わせを行った。
東大卒の社長ということでめちゃ緊張していたが、そぶりを見せないように気を張っていた。
顔合わせで話した内容はかけらも覚えていない。
ただ、すべてイエスで答えてたんじゃないかと思う。
そして、退職したい旨を物流会社に伝えた。
実はその時点で確か兄は先にやめていたような気がする。
学歴もあり、優秀な兄は大型ドライバーのオラオラした世界の現場は仙台にいたときから得意ではなかった。
確かにわざわざ不得意な仕事を続ける必要はない。
現場仕事は嫌いではなかったから、会社側もすぐに弟の方がいればよい とでも思ったのだろう。
やめられたら困る の一点張りだったが「知らんやめる、4月から仕事が決まってるから3月でやめる」と言い張った。
「もっと働いてもらう予定だったから、損失を被る。やめるなら詐称だな」
そんなことを上司的な人間が言ってきたが
詐称と訴訟の違いもよくわかってない会社なら大丈夫だな とこちらの予定通りやめさせてもらった。
詐称してどうすんねん。
やっと一緒に住み始めた嫁や子供をよそに僕は新天地となる長野県、軽井沢に向かった。
一緒に住んだ時間は多分2、3か月程度だったと思う。
そしてまた、孤独と弱さに打ちのめされることになる。
続く。
次は 就農と長女の存在に気付く。
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