ブレヒト『アンティゴネ』翻訳ノート⑹:第五エペイソディオン第五スタシモン
第五エペイソディオン (B884-1189)
予言者テイレシアスが登場し、占いの失敗をクレオンに告げる。最初はヘルダーリンを利用するが、テイレシアスによるクレオンの戦争への非難は、当然のことながらブレヒトの独自テクストが中心になる。
テイレシアスは、占いの座で、鳥たちが騒ぎ立てるために火占を試し、牛の腿を火にかける。
続けて、「油臭き煙が立ちこ め、覆っていた脂は溶け落ちて、生贄の獣の太腿が剥き出しに見えた」(B926-928)と述べられているように、「火に」「よい兆し」が無いのではなく、吉祥である炎が上がらなかったということ。腿の脂に火が燃え移らなかった。
ここはソフォクレスの"φθίνοντ' ἀσήμων ὀργίων μαντεύματα·" 「徴(しるし)なき供犠の空しきお告げ」(S1013)のヘルダーリン訳をそのまま用いている。「供犠ὀργίων」はソフォクレスでは犠牲を伴う祭祀であり、「徴なき供犠」は牛の腿を火にかけても炎が上がらず、占いが失敗したことを意味しているが、ヘルダーリン訳のzeichenlosen Orgienは、バッコス信仰の特徴とされていた、狂乱・狂宴との結びつきが強い。ヘルダーリンにおいては、このOrgienは直前で言及されていた、鳥たちの狂乱を指示するだろう。他方、テバイが勝利を祝うバッコスの祭りを行っているというブレヒトの文脈では、Orgienはテバイが今行なっている戦勝記念のバッコスの乱舞を指すのだろう。なので、「吉兆なき狂宴」とした。
また、ソフォクレスのφθίνοντα μαντεύματα (空しきお告げ)は、占いの失敗によってお告げが得られなかったことを指すが、ヘルダーリン/ブレヒトのtödliche Erklärungは、破滅のお告げの意味になるだろう。ただし、テイレシアスが予言するのは「得られるものはなし」というレベルまで。
このテイレシアスの言葉を賄賂に惑わされた出鱈目だとするクレオンの言葉。
谷川訳は「サルディスは リュディアの首都で、占代には黄金や琥珀の産地であった。」と、岩淵訳は「サルデスはリュディアの首都で、古代にはインドと並ぶ黄金の産地でもあった。」と注記する。ἤλεκτρον (Elektrum) はここでは琥珀ではなく金と銀の自然合金の「琥珀金」を意味し、琥珀色なのでそう呼ばれた。サルディスは紀元前7世紀末頃に、琥珀金を使った貨幣を発行したことで有名。Brecht (1992:503)にはEine Gold-Silber-Legierung aus Sardesと注記されている。
テイレシアスは、「戦争は本当に終わったのか?」「クレオンはなぜ残酷なのか?」という二つの問いを突きつけ、次のように述べる。
ここも解釈の問題。
テイレシアスが持っているのは「なし」という答えで、二つのなしを結びつけたテイレシアスの教訓は、Mißwirtschaft schreit nach Großen, findet keine. である。「政治の乱れ」「失敗」と訳されているが、テバイがアルゴスからの略奪を求めて戦争を始めたという文脈に従うと、語義通り「財政の破綻」「財政の乱れ」の方が相応しい気がする。そしてnach Großenは「偉大な人物」ではなく、「大きなこと」「大儲け」の意味では無いかしら。ここで「偉人」「偉大な人物」に言及する意味がわからない。。自国の財政に失敗すると、戦争という博打に出て略奪による「大儲け」を企むが、それはうまくいかないのだと。
ここはConstantineも”Misrule cries out for great men and finds none."と人にとっているが、Malinaは"mismanagement cries for greatness and finds: none."と私の解釈も成り立ちそうな訳。
なぜ何も得られないのか?戦争はコントロールできないからだ。B1011 "Krieg geht aus sich heraus und bricht das Bein."のherausgehen aus sich は「自分で仕掛ければ」「勝手に仕掛ければ」という条件ではなく、「自分の殻を破る」「羽目を外す」「箍を外す」の意味ではないかしら。M: "War escalates and breaks its leg." は端的でよい。「略奪は略奪を生み、冷酷は冷酷を求 める。「もっと」は「もっと」を求め、最後に得られるものは「なし」である」(B1012-1013)。
テイレシアスが退場すると、ソフォクレスではクレオンはコロスの勧めに従い直ちにポリュネイケスの埋葬とアンティゴネの釈放に向かうが、ブレヒトではコロスがクレオンに、戦争の実際の状況はどうなのかと尋ね、「まだ終わっておらぬし、さほど上首尾でもない」(B1030-1032) との答えをえて、クレオンをあからさまに非難し始める。ここで初めて登場人物としてのコロスがクレオンの責任を追求するのである。
それはこの時点での彼らの判断や欲望を反映したものであり、スタシモンのコロスのように、物語世界外の語り手としての言葉ではない。コロスがテバイの民衆について「Räuberisch (盗っ人のような)](1055)と呼んでいることは注目すべき。両者は戦争責任を押し付け合う:長「ひどいことに、あんたは内と外で二重の戦争を行っている。」ク「お前らの戦争だ!」長「あんたのだ!」ク「儂がアルゴスを手に入れた暁にはまた立派にお前らの戦争だ!」
このやり取りの後、コロスはアンティゴネのポリュネイケス埋葬を肯定する。
ここも解釈の問題。
Rechtは「権利」と「正義」の両方の意味があって、「正義」の場合は複数にはなりにくいけれど、この文では揺らいでいるように見える。「当然(の)」を補ってニュアンスを保っている良い訳だと思うのだけれども、最後二つは「正義」よりに見える。und lebt von dem alten のlebtの主語は戦争。ConstantineはC: "Certainly the sister had a right to bring home her brother…. War makes new rights"と「権利」で一貫しているがMalinaは"Surely the sister was right to bury her brother…. War makes new rights and wrongs" とrights にwrongsを加えることで「正しさ」であることを明示する。
クレオンは、メガレウス率いる遠征軍を持ち出してコロスを脅そうとする。
戸や門が低くて帰還兵たちが「ぶつかる」「引っかかる」ことの何が問題なのだろう。eindrückenは「ぶち壊す」「打ち破る」で、独和大辞典にはdie Tür (die Fensterscheibe) eindrückenで「戸(窓ガラス)を打ち破る」の例文が出ている。暴力の脅し。
コロスとクレオンの緊張が高まる中、アルゴスの戦場からの伝令が登場し、テバイが敗北し軍は敗走中、指揮官メガレウスは戦死し八つ裂きにされたと告げる。
スターリングラード市街戦を想起させると注釈が言う戦いの描写で、
abgefeimtは独和やWahrigの辞書だと「狡猾な」「ずるい」なのだけれど、Malina がdesperatelyと訳している。テバイの軍人の言葉としては「ずるい」「悪どい」が適切だと思うのだけれど。 Constantineはcrafty 「ずるい」。
伝令はテバイが敗走しアルゴス軍が迫っているとつげて死ぬ。ここでコロスは、テバイの守備隊の指揮官であるハイモンを呼び出すようにクレオンに告げ、ハイモンの協力を得るためにアンティゴネを墓から解放しようとする。アンティゴネの解放を条件に、コロスに再び自分の味方になるようにと求めるクレオンの言葉。
岩淵訳がここでクレオンに、あたかもコロスを免罪するような台詞を語らせているのは、コロスが民衆の代表で民衆が基本的に被害者だという前提に立っているのだろうか。谷川訳は「必要としなかったことでさえ」黙認してきたと訳すが、こちらはよく分からない。クレオンはコロスも共同責任だと言っている。多くを要求し、要求しなかった場合も全て認めていたと。だから二行目は現在形。「認めてきたことが、お前らを今巻き込んでいる」のである。「死なば諸共」だと強すぎるかなと思って、悩んで「一蓮托生だぞ」としたが、仏教用語は使わない方がよかった。「抜けられると思うな」くらいかしら。 この台詞はコロスの一番最後の退場歌の伏線になっている。
第五スタシモン(1190-1227)
クレオンがアンティゴネの解放のために退場すると、ソフォクレス版ではコロスはバッコス讃歌を歌う。ブレヒトもそれを受け継ぐが、このスタシモン対応箇所に限っては、物語世界外の語り手としてではなく、テバイの滅亡に怯える登場人物として、ディオニュソスに救いを求めている。
讃歌の冒頭
岩淵は「ブレヒトの原文は「水」の複数形」と注記して、あえて「血族」と訳している。der以後はソフォクレスの"Καδμείας νύμφας ἄγαλμα" 「カドモスの娘の喜び(賜物)」のヘルダーリン訳 "der du von den Wassern, welche Kadmos/ Geliebet, der Stolz bist"のgeliebtをliebteに変えて用いている。
ソフォクレスのνύμφαςはここでは「娘」の意味のνύμφηの単数属格で、「娘」を意味し、ここではディオニュソスを産んだセメレを指す。この言葉には他にも泉について用いられたり、「水」を意味するようにもなった。ヘルダーリンは「水」の意味で理解して、「カドモスが愛した水辺」で、ディルケやカスタリアの泉で知られ「イスメノス川の豊かな流れのほとりπαρ' ὑγρόν <τ'> Ἰσμηνοῦ ῥέεθρον (S1123-1124)」とされるテバイを表したのだろう。複数になったのは水の名所がいくつもあるからかしら。谷川はソフォクレス版に戻しその翻訳に従ってさらに固有名詞を補い、岩淵は水→血もありだと考えて「血族」とした。カドモスの血族はディオニュソスを侮辱し滅ぼされるのだけれど…
バッコスがかつてテバイに住み、「屋根の上に美しく漂う/生贄の煙があなたを見ていた。」(B1199-1200)と語られる次の行で家もう焼かれているの?「町の多くの家の火」は家を焼く火ではない。テバイの多くの家が焼かれるのはこれから。
その次の行
テバイの子らが「一千年の間」見ていたもの(die)は前文で言われる家の火、火の煙、煙の影のこと。谷川訳は意訳として成り立つような気がする。
問題はB1209のCocytusなのだけれど、文脈を示すために1210-1213も挙げた。谷川訳はこの「コキトス」に「冥府の」と形容詞をつけ、岩淵訳は「「コキトゥス」は冥府のぬかるみの川」と注記するが、なぜカスタリアの森と並んでそんなところにディオニュソスが「恋する者たち」と座っているのかしら。
このコキュトスは、ソフォクレスが「コリュキオン」と書いたのをヘルダーリンが誤読し、それをブレヒトがそのまま受け継いだもので、ここで「冥府の嘆きの川」の含意を持つわけがない。単に未知の地名。ソフォクレスの「コリュキオン」はデルフォイ北東の、ソフォクレスが「バッコスに仕える/ニュンフたちが行き交う洞窟」があったとする場所。Brecht (1992) (全集版)の編者注に"Schlammiges Gewässer der Unterwelt" とあるのに従ったのだろうけれど、ペレアスと言いこの注釈大丈夫かしら?
カスタリアはデルフォイ近くの泉ないし川の名で、ヘルダーリンがそれを「森」に変えたのは意図的な気がする。谷川訳の「カスタリア神殿の社」(もり)はカスタリアを神名と誤解したのかもしれない。泉の名としてのカスタリアは、そこで入水したニュンフの名に由来するので、その神殿だと考えたのかしら。
敵が反攻してきてテバイを包囲している状況をコロスは「鋼がその持ち主に打ちかかった。それでも疲れは腕を貪っている」と語り、その直後の上記のGewalttatは「暴虐」ではなく「暴行」。奇跡が起きない限り、もはやテバイは暴力を揮う力を持っていないということ。
ソフォクレス版のコロスの入場歌の、「街並みの上に降り立ち/血に飢えた槍で/七つの門の入り口を/一飲みにせんと取り巻 いた」(S117-120)のヘルダーリン訳を、ブレヒトは、主語を「酷く打ちのめされた敵」にし、時制を過去から現在に変えてほぼそのまま使用している(B1227まで)。ヘルダーリンのsiebentorige Maulは、ソフォクレスἑπτάπυλον στόμαに対応し、Maulはテバイ市内への入り口を総称的に示している。Jebb(1900:31)は、"sevenfold portals"と訳し、"the access afforded. by seven gates"と解説している。また、ヘルダーリンのPalästenは複数形で、ソフォクレスのμελάθρων(家)に対応するので、「屋敷街」などの方が良かったかもしれない。