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【感想】ロンドンハーツ『もしもこんな2人を飲ませたら…』陣内智則×バカリズム(とR-1の話)

今年も(いきなり失礼な物言いで申し訳ございません)R-1グランプリに逆風が吹いている。

しれっとファイナリストの枠が削減。
昨年は生放送が押しまくって大変だったのを受けての対策なのかもしれないが、それなら放送時間を拡大するのが筋だろうというのが言われているようだ。
確かに審査員のコメントもほとんど聞けなかったし、霜降り明星や野田クリスタルの後日談を聞いてもかなり序盤から巻きが入っていたようである。
要は生放送2時間というのはどう頑張っても物理的に短すぎた。
そこは2時間据え置きのままファイナリストを2人削減してしまったのがお笑いファンの怒りを買ってしまっていると。
まぁでも放送枠を拡大するにはきっと制作の意向だけじゃなくて編成とか営業とか、さらに今回はカンテレとフジテレビの親子関係とか色々あるのでしょう。
私も一応は大企業に分類される会社で働くサラリーマンなので何となくですが分かります。

その辺はHTB制作のこのドラマで描かれていましたね。
芳根京子のコメディエンヌぶりが素晴らしかった。

恐らく今年も生放送を含めた運営はなかなか厳しい結果になりそうだが、ここでそういった大会の外枠とは別にもう一つ考えてみたいことがある。
それは

そもそもピン芸でM-1決勝レベルの漫才より爆笑できることはあるのか?

そんなことを改めて考えるきっかけになったのはR-1決勝進出者発表の2日後に放送されたロンドンハーツ。
この日は『もしもこんな2人を飲ませたら…』という過去に何回か行われてきた、芸人がガチでサシ飲みをするという企画。
アンガールズ田中×マヂカルラブリー・野田クリスタルが1組目で、2組目は陣内×バカリズム。

プライベートのことを話したりもしつつ自然とネタの話題に。

陣内「バカリズムは演技力あるよね。まさに1人コント。俺は陣内智則しか出来ない。バカリズムみたいに誰かを演じてその人になりきったまま笑いを生み出すなんて出来ない」
https://tver.jp/corner/f0097569

今夜のガキ使。何とタイムリーなw
そこからネタの構造の話へ。

陣内「バカリズムってドカン!ドカン!ドカン!ドカン!って感じじゃないやん。何かフフフ…みたいな、あぁ面白い、あぁ面白いが繋がって面白いっていう」
バカリズム「めちゃくちゃドカンドカン(笑いを)取りたくてやってるんですよ」w
https://tver.jp/corner/f0097569

この陣内の発言はピン芸の本質を実に鋭く言い当てているように思う。
ボケとツッコミという役割分担が出来ないピン芸では関係性の提示や掛け合いによる笑いの増幅が生まれにくい。
ボケたらそのままだ。
(もちろんそれを逆手にとって自分で自分にツッコむという手法も存在するが、それはピン芸にはツッコミ不在という前提を共有した上でのカウンターである)
『あらびき団』や『千鳥のクセがスゴいネタGP』ではワイプで百戦錬磨のベテラン芸人にツッコミの役割を担ってもらっている。
こういった背景から「そもそもピン芸に漫才級の笑いを求めるのは無理があるのでは?」と自分は考えている。

陣内「でもやっぱりそこってツッコミとツッコミじゃない人の差で」
バカリズム「そうか、陣内さんはちゃんとツッコミですもんね」
陣内「そう、こっちがボケに対してツッコむから、ここで笑ってというのを分かりやすくしてる」
https://tver.jp/corner/f0097569

これはもうほぼ漫才の説明。

バカリズム「でもあれめちゃくちゃ怖くないですか?だってもうこれは笑いどころですよっていうのをハッキリ発表してるわけじゃないですか。てことはそこで笑い声が起こらないと誰が見てもスベったってなるわけじゃないですか」
https://tver.jp/corner/f0097569

昨年のM-1決勝のオズワルドの2本目を思い浮かべればこの話は非常に理解しやすい。
1つ目に提示した笑いどころで思ったような反応が客席から得られず、見る見るうちに漫才のリズムが崩れていった。

ここで「いや、そもそも別に漫才と比べてないでしょ。ピン芸だって面白けりゃ笑えるでしょ」という話もあろうかと思うが、昨年のR-1で顕著だったように、フリップに書かれたボケに対してリアクションする(必ずしも関西的な強いツッコミとは限らず戸惑いや訂正も含む)いわゆるフリップ芸は漫才的な笑いをピン芸でやろうとして行き着いた結果だ。
(陣内のネタも本質的にはフリップ芸と同じ構造)

では、そもそもなぜ漫才的な笑いをピン芸でやろうとするのか?
それはM-1という賞レースの功罪の罪、M-1が一強になりすぎた弊害、弊害という言葉が煽りすぎであれば副作用、今っぽい言い方なら副反応だと自分は考えている。
お笑い賞レースを見る視聴者の笑いの嗜好は漫才、より正確にはM-1型の競技漫才に最適化されているのではないか。
別に統計データは無いけれど。
(強いて挙げるなら各大会の視聴率とSNS上での反応とか)
漫才という文化土壌が日本でそもそも強く、それが競技化されることで多くの視聴率を虜にしてきたM-1。
さらにM-1はツッコミの進化を漫才の歴史にもたらし、視聴者を「笑いを生んでいるのはツッコミなのだ」という認識に変容させた。

 山ちゃん(注:南海キャンディーズ山里亮太)の登場によって、これまでのツッコミの概念が変わってしまいました。
 南海キャンディーズ登場以前の漫才は「ボケが華」でした。ボケが点を取りにいく。ツッコミはあくまでアシスト役です。
 ところが、南海キャンディーズは、ツッコミの山ちゃんがフォワードなのです。
(中略)
 ツッコミが点を取りにいってもいいのだという流れを決定づけたのは、南海キャンディーズの山ちゃんでしょうね。
 銀シャリの橋下君しかり、霜降り明星の粗品君しかり。彼らは山ちゃんのようなフォワードタイプとはちょっと違うんですけどね。パスセンスもあって、得点力もある。元スペイン代表のミッドフィルダー、イニエスタのようなイメージです。
 少し年代が上になりますが、フットボールアワーの後藤さんも典型的なミッドフィルダーですね。中盤で、いつでも点を取れる雰囲気を醸し出しています。
ナイツ塙著『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』

お笑い芸人はツッコミ優勢になり、国民のテンションも『一億総ツッコミ時代』なんて本をマキタスポーツが出版する状態に。

出版は10年前だった。時が経つのは早い。

映画を見る時とテレビドラマを見る時で脳のチューニングを変える必要があるように(ざっくり言うと映画は演出の快楽でテレビドラマは脚本の快楽)本来は漫才とピン芸も全く異なるものとして見る側のチューニングを変える必要があったはずなのである。
しかしM-1の成功を受けて後発として始まったR-1は「ピン芸人版のM-1」という見方をされてしまう。
※もちろんR-1側もM-1に乗っかってきた面(特に昨年のCreepy Nuts起用なんかは顕著)は明確にあると思うので一概に「視聴者のリテラシーが〜」で片付けられる話ではありませんが。

それにより

  • ツッコミが無いので漫才よりも分かりにくい(見る側がボケだけを見て面白さを汲み取る必要がある)

  • ツッコミがある場合も漫才より盛り上がらない(つまるところ自分でボケて自分でツッコんでる構図なので見る側がどうしても冷める)

という悪循環に陥る。
そこに大会運営の拙さ(これは視聴率の伸び悩みや盛り上がり不足と鶏が先か卵が先かの話ではあるのだけど)が乗っかって現在に至るというのが自分の見立て。

そもそもお笑いコンビという本来特殊すぎるほど特殊な人間2人の関係性・形態を大半の日本人が何の疑いを持たずに受け入れている方が本来なら異常事態である。
昨年『水曜日のダウンタウン』のおぼん・こぼんTHE FINALを見た多くの視聴者が感動し、ギャラクシー賞まで獲ってしまったのがその最たる例だろう。
それぐらい2人で会話をする漫才という芸は日本に根付いている。

最後にツッコミが無いピン芸の一例を。
つい先日、ドラマ『マスター・オブ・ゼロ』でお馴染みアジズ・アンサリによる世界最高峰の漫談がNetflixで配信された。

1人でボケ(ジョーク)を言い続けてツッコミは無し。
ジョークの内容は文化の差があるのでそのまま日本では通用しないだろうが、仮に内容を日本向けにチューニングできたとしてもやはりフォーマットの差は無視できないと感じる。
この形の話芸が日本のテレビで爆笑を取れるか?と想像してみると僕が言わんとしていることは伝わるんじゃないかと思う。
(もちろんそれに賛同できる・できないはまた別の話)
それにしてもこのアジズ・アンサリは異常なほどウケてるなw

やっぱりピン芸って本質的に漫才みたいにドカンドカン笑えるものじゃないと思うんです。
そう考えるようになってから僕はR-1の中身については心穏やかに見られています。
(冒頭で述べたように外枠はまた別の話)

おまけ

今日の夕方にこの2人がMCで、2週間後に迫ったR-1を盛り上げるという裏目的がありそうな特番が放送される。
ロンハーでは最初「あまり2人きりでの共演は無い」と言ってたけど、さてどうなるか?

2022/2/20(日) 17:40追記

なんと!!!

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