見出し画像

第3回:『素晴らしき哉、人生!』(1946)

第3回の今日は、1946年に公開されたクリスマスの名作『素晴らしき哉、人生!(原題:It's a Wonderful Life)』について、書きたいと思います。


まずはあらすじから。いつか街を出て建築家になるんだと思いつつも、様々な状況が重なり小さな住宅金融会社を経営しているジョージ・ベイリー。それが気に入らないとジョージの親の代から攻撃を仕掛けてくるヘンリー・ポッター。ある年のクリスマスイブ、会社の資金を入金しようとポッターの銀行を訪れた叔父の手違いで、8000ドルという大金がヘンリーの手に渡ってしまう。その金がなければ監査に通らず会社は潰れてしまう。自分が死ねば保険金が入ると考えたジョージは川に飛び込んで死のうとする……というストーリー。

映画の序盤は、ジョージが生まれてから会社を継ぎ、ポッターが会社を潰そうと画策するなど「波乱万丈」な様子がコミカルに描かれている。ジョージはもともと生まれ育った街を出て、探検家として世界中を旅したり、建築家として高層ビルや橋を建てたりすることを夢見ていた。しかし、父親が急病で倒れ会社を守るために自分が社長の座につく。その後も幾度となく街を出る機会を窺うが、一向にチャンスは訪れない。弟の大学卒業のときも、自身の結婚式のハネムーンのときも。そのうち戦争がやってきて街の男たちは戦場へと向かっていく。ある者はフランスへ、ある者は太平洋へ。しかしジョージは、耳の障害から徴兵を免れ、街で空襲の監視役を務めることに。結局は探検どころか、街を出ることすら叶わなかった。


与える人、受け取る人

これらのシーンを観ていて、『GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代』という本を思い出す。この本は組織心理学の研究者であるアダム・グラントが提唱した、人間の三類型の「ギバー(与える人)」「テイカー(受け取る人)」「マッチャー(バランスを取る人)」を、行動原理をもとに解説している。この分類に本作の登場人物をあてはめてみるのに印象的なシーンがある。それは、ヘンリーがジョージに年俸2万ドルもの大金をふっかけて、会社を潰そうとする場面だ。

ポッター「さて27〜28歳の若さで既婚だと週給40ドルかな?」
ジョージ「45ドルです!」
ポッター「45ドルか。母親の生活費と諸費用を差し引くと10ドルの蓄えがやっと。子どもができたらそれも困難だろう」

ヘンリーは笑みを浮かべながら、財産管理の仕事としてジョージに同じ年代の人間が受け取る10倍もの年俸を提示する。しかも仕事でニューヨークやヨーロッパへ行けるというおまけつき。思わずジョージも、申し出を受け入れようとしてしまうが、会社はどうなる?との質問にヘンリーが答えていないことに気づき、ジョージは怒りを撒き散らしながら、オフィスを出ていく。

このやりとりを見ると、ヘンリーは、自分の利益を得る手段としてジョージに仕事を「ギブ」している。年俸が10倍の2万ドルなのも、それくらいの金額ならジョージが申し出を受け取ると思っているからだ。テイカーはテイクという目的を達成する手段として有効と考えれば、積極的にギブすることもある。彼の頭の中には自分が受け取るためにしか、周りの人間は存在していないのだ。

かたやジョージは、生粋のギバーだ。彼の経営する住宅金融会社もその一例。通常、金融ビジネスは貸出にかかわるリスクを貸す側が負っているため、どうしても借りる側を厳しく審査する。特に、ジョージのような小規模の金融会社は一度の貸し倒れは即倒産の危機だ。その典型がサラ金だったりするのだが。しかし、彼の会社運営はとても債権者に「優しい」。庶民が持ち家を持てるように融資し、そのお金で家が建ったときは家族総出でお祝いする。資金繰りに困ったときはハネムーンに使う予定だったお金を貸してしまうほどに。その根底には、自分が得をしようとか、何かを受け取ろうという姿勢は見られない。

とはいえ、ギブ&テイクという言葉の通り、物事にはバランスがつきもの。最終的に、ジョージは多くのものを与えられることになるが、この先は実際に観てもらったほうがはやいだろう。

プリミティブなつながり

この映画でもう一つ特徴的なのは、地域社会が持ちうる「相互扶助的システムの可能性」についてだ。ジョージの運営する住宅金融会社が危機を乗り越えられたのは、彼自身の人柄やギバー的精神によるところが大きいが、会社が地域に根ざして運営され続けてきたという「コミュニティ的要素」も大きく影響しているだろう。もう少し大きい街やコミュニティなら、お互いの信頼や善意に頼った運営は難しく、仕組みやシステムに頼らざるを得ない。


思えば、僕が中学高校を過ごした街には、ジョージの街のような雰囲気が少なからず残っていた。街を歩けば必ず馴染みの人間に会い、地域のイベントのたびに顔を見せて笑い合う雰囲気があった。

もちろん、ジョージと同じように街に残る怖さはあった。世の中が変化しているのに、何年も時が止まったかのようなアーケード商店街、一向に更新されない自分への見方(いつまで子ども扱いするんだという)。だから僕は、大学進学を機に街を出て一人暮らしを始めた。自分を知らない街で、異邦人として暮らしたいという気持ちから。ただ、今思えば、地元の街にはプリミティブなコミュニティが存在したからこそ、一つの連帯感があったのだと思う。街を離れた僕には分からないが、今でもその街だけで生き、死んでいく人間がいるのは、そこに理由があるんじゃないかと思う。

ジョージが生活するベッドフォールズもそんなプリミティブなコミュニティがあったからこそ、ジョージが困ったときに、債権者や地域の人間が彼に力を貸したのだ。これまで貸してもらったから、と。ジョージは夢にも思わなかっただろうが。


ジョージ?ポッター?

実際のところジョージのようにギバー的に振る舞うことは難しいし、正直な話、僕自身はテイカー的な面が強いと思う。それに、いじわるな見方をすれば、この映画は「ご都合主義的」とも言える。現実は甘くないのだ、と。そういう見方もあるけれど、それだけじゃちょっと悲しいよねとも思う。

この映画を観て思うのはジョージとポッター。どちらを求めるか、ということ。あなたなら、どちらを選びますか?

僕なら……と思ったけど、あまりに内容が説教的すぎるから、このへんで。

いいなと思ったら応援しよう!