さよならだけが人生か?
寺山修司が『ポケットに名言』のなかで「言葉を友人に持ちたいと思うことがある」と言った。僕もこれには全面的に同意する。だから僕はいくつかのフレーズを紙に書いて手帳に挟み、ことあるごとに読み返している。
しかし、一方で「これは友人にはなれないな」というようなフレーズもなかにはある。その1つが「さよなら」という言葉だ。
井伏鱒二文学碑勧酒
「さよなら」。
これは言わずもがな、別れ際に交わす挨拶の言葉だ。もともとは「左様ならば、これで…」という言葉が短縮され「さよなら」になったらしい。
別れねばならない状況を、「左様ならば…」と受け入れる姿。まさしく諸行無常という日本人の無常観を示しているのだけれど、だからこそ僕はこの言葉が好きになれない。
何も別れが嫌いだとか、現状を受け入れられないとかではない。
僕にしても、それなりに別れや、変えがたい現実を受け入れた自負はある。むしろ人よりも、そういう経験が多かったのではと思うくらいには。
その僕がさよならを苦手に思うのは「さよなら」を言う状況よりもむしろ、「さよなら」と言う心持ちのほうだ。そこには、諦めに似た受動的な響きが伺えるから。
もちろん、どうにもならない不可避の状況を受け入れるための「さよなら」もあるだろう。女性飛行士のアン・モロー・リンドバーグもさよならを「なんという美しいあきらめの表現だろう。(『翼よ、北に』)」と言い表すように、ありのままを受け入れる境地が、この言葉にはある。
しかし、「諦めること」と「受け入れること」の間には、大きな隔たりがあるんじゃないだろうか。例えるなら、諦めることは受動的なテイカ―であり、受け入れることは主体的なギバーであるような。無意識的に使う「さよなら」には、単に諦めただけの不甲斐なさをあたかも主体的に状況を受け入れたかのように錯覚させてしまうみたいな。そんな効果があるのではないか。
さよならの代わりに、また今度と。
とは言いつつ、生きていればさよならを言わなくちゃいけないシチュエーションがこれからもあり続けるだろう。むしろ、現状に甘んずることなく「さよなら」と移り変わっていくことこそ、生きることの証とも言える。
それでも、やはり「さよなら」のもつ響きは悲しい。だから僕は、また今度と言いたい。そのほうが、さよならよりもずっと「友だちになれる」言葉のように思えるから。