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第21回:『ラーゲリより愛を込めて』(2022)
くだらない言葉遊びが結構好きだ。
たとえば、ついこの間も映画『メッセージ』のnoteの冒頭で書いた「負けられない戦い」という表現。これを見るとつい「戦いは基本的に負けられないものだろう」とつっこみを入れたくなるし、普段使っている「折りたたみ傘」も、よくよく考えてみれば「傘は全部折りたたむだろう」と思ってしまう。言葉の順番をひっくり返すのなんかも好きで、昨年よく見かけた(今も一部のニュースで見る)「オリンピック委員会」をひっくり返して「委員会オリンピック」と読み、イギリスが風紀委員金メダルだなとか、美化委員金メダルは意外と日本だろうか?なんて考えてしまうこともある。くだらないことばかり考えていますね、毎日。
『ラーゲリより愛を込めて』(2022年)
けれど、こうした「遊び心」こそが意外と重要なことなんじゃないかと、12月に公開された映画「ラーゲリより愛を込めて」を見て思った。
この映画は<シベリア抑留>という歴史上の出来事を「山本幡男」というこれまた実際の人物を中心に描いた作品です。実際のシベリア抑留は約11年という途方も無く長い期間の出来事なんだけど、映画全体のテンポがよく、割と退屈せずに2時間13分を見終えることができた。
それに、この手の映画でありがちな「プロパガンダ的要素」も極力排除されていたところも良かったです。被害の面を強調させたいわゆる「可哀相な映画」として描くのでも、特定の立場への不満を示す「責任転嫁的な映画」でもなく、淡々と出来事を描いているだけ。だからこそこの演出には、右だ左だというのを超えた「第3の思想」のようなものを感じて、とっても良い映画でした。
※この先ネタバレ要素(のようなもの)があると言っておきます。
山本幡男という人間の「楽天さ」
というわけで『ラーゲリより愛を込めて』は映画自体として楽しめたのだけれど、特に印象的だったのが「山本幡男という人間の生き方」。それもその「楽天さ」について。
彼は先の見えないラーゲリ(収容所)生活ながら、好きなアメリカの歌を歌ってみたり、仲間と勉強会を開いて国際情勢をリサーチしたり、アムール句会と称するグループを作って俳句を詠んでみたりと、過酷ななかでも楽しそうに振る舞う。実際の山本幡男も映画に負けず劣らずといった様子で、そのエピソードなんかも原作には残っています。
「勉強会?」
松野は、「勉強会」などという場違いな言葉に戸惑って聞き返した。
「そうだよ、生きて帰るのだという希望を捨てたらじきに死んでしまうぞ。頭を少しでも使わんと、日本へ帰っても俘虜ボケしてしまって使いものにならんからね」。
あるとき、山本と自殺の話になった。
「ぼくはね、自殺なんて考えたことがありませんよ。こんな楽しい世の中なのになんで自分から死ななきゃならんのですか。生きておれば、かならず楽しいことがたくさんあるよ」
そう山本はいうと、下を向いてニッと笑った。
ラーゲリのなかにいながら、「こんな楽しい世の中」という山本は、普通の人間を測る物指しでは測りきれない、別の物指しで見なければ理解できない人物だと思った。
こういう話を見ると、実際に山本はかなりの楽天家だったと思う。長期化するシベリア抑留では誰もが心身ともに疲弊し、生きるために必要な食事と睡眠意外のことを考えていなかった。それにくわえて仲間内での密告やちょっとした不手際で営倉と呼ばれる拷問へ送られる。誰もが疑心暗鬼で、人を信用できない状況だったというのに。山本は全く意に介さないどころか、ますます気力旺盛に振る舞う。
それを示しているのが、当時シベリアで亡くなった遺体を白樺の根元に埋めていたことからもうすぐ死ぬことを自嘲的に「白樺派」と呼ぶのに対する、山本の切り返しだ。
山本はこの「白樺派」ということばを耳にすると、きまって野本にいった。
「野本さん、ぼくたちは白樺派になっちゃおしまいだよ。かならず帰れる日がくる。まだぼくたちは若いし、人生は長いんだよ」(P.106)
僕は父親の影響からか昔から戦争ものの映画やドキュメンタリーが好きで、本から映画からいろんな情報に触れてきたのだけれど、やっぱり遺書の内容で多いのは「肉親に対する言葉」。特に、母親に向けたものが本当に多い。それは、日本だけでなくアメリカにしてもドイツにしてもそう。
だから案外、こうした身近な人の言葉こそ、人の心に暖かみを与えてくれるのかもしれない。「国家」とか「聖戦」とか、そういう大層なものを僕らは守っている、大切にしているような印象を受けるけれど、意外と身近なつながりのために動かされているのかもしれないし、その延長線上にいろんなことがあるのだと思う。
人々を突き動かした「山本幡男」という生き様
しかし、そうやって仲間を励まし続けた山本幡男がダモイする機会はとうとう、訪れることはありませんでした。
死ぬ直前、山本は最後の力を振り絞って遺書を書く。「本文」を含めて遺書は全部で4通。どれも山本幡男らしく「未来のために」書かれたものたち。
しかしそこは日本から遠く離れたハバロフスクの大地。当然、ソ連兵に見つかると没収されてしまう。
なんとかして遺書を届けたい仲間たちは、ある方法を思いつく。そう、それは「頭の中に記憶すること」。頭の中であれば、いくらソ連でも奪うことはできないから。
読み進めるうちに心のなかがしんと静まった。それは山本の遺書ではあったが、帰国の日を待ちわびて死んでいった多くの仲間たちの無念の声を聞いている気がした。なんとしてでもこの遺書を山本さんの家族に届けようという気持ちになった。
潮崎が山本の願いをなんとか実現させたいと思ったのは、子供たちへの遺書を読んだときだった。日本人として自分が死に臨んだときは、このような立派な遺書を書きたいとしみじみ思った。これは山本個人の遺書ではない、ラーゲリで空しく死んだ人びと全員が祖国の日本人すべてに宛てた遺書なのだ、と思った。
ソ連兵の監視がある中で遺書を記憶することは、相当に過酷だったに違いない。いつ、抜き打ち検査で遺書が没収されるとも限らないし、毎日の重労働だってある。自分の明日だってどうなるかわからない状況のなかで、他の誰かのために行動できるのかどうか。君なら、山本幡男のために遺書を暗記できるのかどうか。
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1957年1月半ば。ある1人の男が山本の妻、モジミの家を訪れる。緊張した様子で、こう話す。
「私の記憶してきました山本幡男さんの遺書を届けに参りました」
そして、続々と彼の残した遺書が、彼を慕う人々の「記憶」によって届けられた。最後の遺書が日本に届いたのは、昭和62年夏。実に山本幡男が亡くなってから33年目だった。
人をつなぐもの
個人的にうるっときたのは、山本幡男を市内の病院に送るために仲間がストライキを起こすところ。そういう人間同士の連携とかに弱いんですよね、僕。
それにしても、僕も作ろうかな?「くだらない言葉あそび同好会」。
このまとめ方がいちばん、くだらないですね。