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体験を共にすることでうまれる、真実味のある安心感

 ある「体験」をともにすることは、体験をした人たちの間に「深いつながり」をうみだし、「真実味のある安心感」をもたらす。
 そして、その「真実味のある安心感」は、「自分は孤独である」「ひとりぼっちである」という思い込みを溶かしていく。「自分の人生は自分の力でしかどうにかしていけない」という視点が仮にあったとするならば、それは「様々な人のつながりによって存在している自分」という視点にうつっていく。すると、誰かに助けを借りること、誰かのためになることがだんだんと純粋にできるように変化していく。

 ここで大切なのは「体験」ということだ。「体験」は「実際に身をもって経験すること」を意味する。
 「身をもって」経験したことは、そのときの経験や感覚が疑いようのないものとして、身体に印象づく。そこに対して疑問や疑念を挟みこむ余地もなく、「真実味」や「尤もらしさ」といった感覚がうまれる。この「疑問を挟みこむ余地のない真実味」というのが「体験」がうみだす特異な感覚だ。

 ここで感じる感覚が本当に真実なのかどうかは、わからない。しかしながら「真実そう」という主観的な感覚が得られるのである。この「真実味」の感覚は、たしかに疑いをかけると揺らぐかもしれないが、時間が経てば近いところに戻ってくる。それは、どこか立ち返るような原体験として自分の中に存在することになるのである。それだけで十分意味がある。

 そのため、「体験を共にする」ということは、「自分は人とつながっている」という真実味のある感覚をうみだす。そして、その感覚が心の安心をもたらすのだ。

 ともに暮らすこと、声を交わし合うこと、一緒に散歩すること、イベントをつくること、プロジェクトをともに進めること、ともに歌うこと。

 どんなことでもいい。何かを誰かとともにするということが、身をもって経験されることが孤独感を溶かしていく。そして「つながり」、「安心」という感覚を生み出していくのだ。

 昨今、「コミュニティ」や「シェアハウス」が多く存在し始め、「社会関係資本」、「つながり」という言葉も世の中で目立ち始めている。目立ち始めているからこそ、ただむやみやたらに「つながり」を求めるのではなく、「つながり方」に関しても丁寧に観ていくことが大事にしていきたい。

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