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思えば僕はよく観察する子だったらしい

母親から小さい頃の自分のことを聞くとこう言われる。

「あなたは保育園の休み時間の時、すぐに校庭に駆け出して遊ぶというより、校庭で遊んでいる子たちをじっとみて、あるときになったらいきいきとそこで遊び始めてたらしいよ」

こんな表現であっているのかわからないけど、粗方こんな意味合いのことだ。


今となって思うと、この時の自分は何をしていたのだろうか。
何を見て、何を感じとり、何を思っていたのだろうか。
そう考え始めると似たようなことは物心ついてからの経験でも思い当たる節がある。

学校やゼミなどの新しいコミュニティに交じり始めたとき。
仕事などの新しいプロジェクトに関わったとき。
イベントや合宿などの新しい場に参加したとき。

3〜4人以上の人が集まる場に出会うとき、僕は確かにいきなり自己表現はせずに場の様子を観察している。

場の雰囲気、ベースとなっているノリはどのようなものか、何でつながりを感じ合っている集まりなのか、誰が真ん中にいるのか、どういう言葉遣いをしているのか、何が常識で何が非常識なのか、会話のテンポ、沈黙に対しての反応の仕方、どのようなヒエラルキーがあるのか、どのような人は排除されてどのような人は居場所があるのか。

自分がそのとき何を感じ、何をみているのかはこれだけで言語化しきれている感じはしないが、場の空気感、全体感を感じようとする傾向は確かにある。

ストレングスファインダーで「収集心」と「学習欲」がトップ5に入っているが、今思うとさながらそれらをフルに発揮しながら場の様子を掴もうとしている。

この観察や収集のプロセスがいつ終わるのか、というのはうまく言葉にすることは難しいが何らかその場がその場として成り立っている背景や文脈、構造などを掴めた感じがしたときに少し落ち着くような気がしている。


他にも、コーチングセッションの時もそうだ。セッションは基本的には微細な観察から全てが起こると思っている。

クライアントの声色、わずかな声の振動、発せられた言葉で言い表されている部分と言い表されていない部分の感知、姿勢や表情から伝わってくるテンション、表に出ているものと裏に隠されているもの、まとっているエネルギー感とそこから直観される人生の状態、対峙したときに自分の内側に生じる身体感覚。

ここももっと微細に言葉を当てることができそうだが、目に見えないものの観察に重心があるように思える。


「観察」というのはすごく面白い。
観察すればするほど見えてくるものがある。反対に、観察をやめた瞬間に閉ざされる世界がある。観察というのは終わりない行為である。そして観察の深さによって自分がとる「行為」も変わってくる。

20代前半の頃に組織開発コンサルタントの案件に加わらせてもらった時、その時のリーダーの振る舞いは今でも記憶に残っている。

取引先の担当チームと打ち合わせをした後に、たった1時間たらずだったにも関わらず、組織の雰囲気やカルチャー、そして部門間の関係性、組織内でタブー視されているものなどを解像度高く見立てていた。
自分自身の解像度では全くもって捉えきれないが、確かにその人は仮説とはいえ何らかの確信とともに語っていた。
打ち合わせで会話されていたことのみならず、何よりも流れていた空気感に含まれている見えない情報を解析していたような、そんな振る舞いに僕からは見えた。


景観生態学者のそばに身を置いて研究プロジェクトを行っていた際にも、自分には見えない世界を見る観察眼に驚いた。

地域にある自然というのは基本的に人の暮らしと影響し合いながら成り立っているものであり、風土や景観というものは人と自然の相互作用の結果として読み取ることができる。
そのため、裏を返すと訪れた地域の風土や景観から、その地域の自然と社会の状態を見立てることができる。
里山を歩きながら、植生や遷移の様子、人の痕跡、地域におけるその場所の位置づけなどから対象となる自然の状態や、人と自然の関係性を読み取る。


彼らは深い観察に基づくからこそ、組織や地域、自然に対して理に適った介入をできるのだろう。


「観察」という言葉を真ん中に置くと、不思議な安心感がある。自分の身体の中心にスッと光が通るような感覚がある。それはもしかしたら三つ子の魂百までではないが、何か自分という存在に一貫している性質だからかもしれない。

そういえば考古学者とか探偵に憧れていた時もあったな。それも同じような性質の現れなのかもしれない。これからもこの「観察」という行為を大切に探究してこうと思う。

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