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ポスト・ニュー・キャリア論~「キャリア不活動」という概念

先日本学(法政大学)大学院キャリアデザイン研究科のシンポジウムで、木村琢磨教授の講演『キャリア・マネジメントのパラダイム変遷と研究課題』を視聴。充実した内容でまことに興味深かったです。

ニューキャリア論の失敗

気づきは、ニューキャリア論(バウンダリレスキャリア、プロティアンキャリア、キャリア自律など)の失敗とポスト・ニューキャリア論。
ニューキャリア論は、80年代の米国で不況を背景に起きた理論であるということ。なるほど!と思った。

80年代といえば日本が「Japan as No.1」と言われていた頃だ。私は80年代後半は米国出張が多かったためその頃の空気感はよく覚えている。プラザ合意(1985)後出張のたびにどんどん円高になり、何を買っても食べても「安い!」と思ったものだ。マーガレット・サッチャー英首相とロン(ロナルド・レーガン)・ヤス(中曽根康弘)で新自由主義を推し進めていた。
この頃、米国の企業では人員削減、人材開発投資の抑制、終身雇用、キャリアパスへの期待が崩壊したという。私は当時全く人事とは関係ない仕事をしていたため米企業でそんなことが起きていたのは知らなかった。これが原因となって「キャリアは会社ではなく個人がマネジメントする」というニューキャリア論が登場したのだった。個人の主体性とオーナーシップ、キャリア自律と目標設定、自己コントロールを重視する。それと同じ状況が約10年遅れて90年代後半に日本にやってくる。バブル崩壊の時期だ。

しかしニューキャリア論の登場で、米国では個人と組織との関係が変化した。米社会ではその後格差が拡大・定着し、バーンアウトや利己的行動、政治工作、印象操作の蔓延が起き、”経歴を盛る”など労働者への悪影響が起きた。企業内でも従業員の忠誠心の低下や低賃金、WLB等の問題が起きているという。

ニューキャリア論が広く流布したのは、キャリア論のファッション化、”世論”形成と同調圧力とが働いたという背景もあるというが、ここも頷ける。キャリア論がどうも地に足がついていないような、バリキャリ論に思えて私には違和感があるのはこれが原因だと理解した。ニュー・キャリア論は志向性であり概念とは言い切れないという評価があるというが、確かにそれが災いしてこのような現象が起きているのだろう。つまり、キャリア自律というのは聞こえがよく、いわゆる勝ち組にフィットしてぐいぐい彼らの地位を押し上げる反面、そのファッショナブルな風潮に押されて多くの負け組と自認してしまう人たちを生み出し、その人たちの自信を奪ってしまったのかもしれない。

日本ではバブル崩壊後の失われた30年の中でやや遅れて同じようなことが起きており、現在もその真っただ中であると考える。

ポスト・ニュー・キャリア論の展開

米国ではその後ニューキャリア論の反省からポスト・ニュー・キャリア論が展開されているという。その中で印象深かったのは、「キャリア不活動」という概念だ。
「キャリアの変革を望みつつ、望み通りの行動ができないのが普通」という考え方だ。前日の廣川進教授の「ここ20年でキャリア自律は進んだのか?」という議論にも通じる内容で、私にはしっくりきた。キャリアコンサルタントはこぞって「キャリア自律が大事!」という。しかし現実にどれだけの人がキャリア自律できているのだろうか?キャリア自律できない人間はダメ人間なのだろうか?といつも疑問に思っていた。

ポスト・ニュー・キャリア論では、キャリアは自分の努力ではどうにもならない多くの影響を受けるという研究結果が根底にある。社会経済状況や組織内でもどういう上司の下についたかで大きく左右されるというわけだ。個人は、自分の目的達成のためだけでなく集団の目的達成のためにも自身のキャリア行動を行うし、行動は周りの状況に影響されるという考え方だ。

つまり、ニュー・キャリア論は個人の主体性を過大評価し過ぎて、それぞれのキャリアにあるコンテキストの影響を軽視していたという反省である。働く人自身のコントロールには限界があり、そのためにスキル開発を重視すべきという考え方だ。

キャリア不活動が起きるのは、変化への不安感や恐れ、変化に伴う損失、長期的キャリアを考えねばと思っても直近の具体的な事柄への注目してしまうという要因があるからだ。自分の力だけではどうにもならない現状があり、人はなかなか自身のキャリアをコントロールする行動は起こせないのである。

キャリア不活動を前提としたマネジメント

今後はキャリア不活動を前提としたマネジメントが必要であるという。
そのために、コンテキストの影響を考慮して、不活動に至る要因を考慮したサポートや、サスティナビリティを考慮したマネジメント、行動やスキル(専門スキル、対人スキル)の重要性が挙げられていた。
具体的には、変化対応に有効な汎用性のある専門知識やスキルとして、キャリア・コンピテンシーの探究や、職業人の継続的学習も重要性である。学習を通じた高揚感や効力感の獲得ではなく、学習成果としての知識やスキルが重要になってくるというものだ。

現在、経済社会では新自由主義の進展で行き過ぎた資本主義が格差社会をつくり出し、地球環境の破壊を早めたことが問題視されている。資本主義は大きな分岐点あるという議論だ。それと同様に、新自由主義をベースに論じられてきたキャリア論もまた曲がり角にあることを理解した。
SDGsが謳われ持続可能な社会が求められるようになっているように、個人と組織の関係性も企業の「持続可能」という観点から考えればまた違ったものになるはずだ。キャリアは個人と組織、個人と社会、個人と組織と社会の間にあるものだと私は考える。それぞれが影響しあって成り立っているのだ。そこにそれぞれの人の生き方の哲学が絡む。地球環境、自然、地域、家族、そして仕事、組織、それらに向き合う個人はそれだけでオリジナルな生き方をしているはずだ。キャリア自律を声高に叫ばなくとも人生はある。それでいいではないかと思えてくる。自分が納得して穏やかで豊かで幸せな日常を送っているのであれば。重要なのは「個人-組織-社会」のよき循環だと考える。組織との関係性の中で自分の役割を発見し、開発されて能力をフルに活かせられ、それが社会に役立つのであれば自分の人生も悪くないと思える。


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