中庸で生きる
「中庸で生きる」ということが腑に落ちていませんでした。
今日もFacebookの過去記事から(2019.4.23)
中庸イコール喜怒哀楽に振れない世界だと解釈していました。
上に振れるということは、喜びの状態であり、仕事で非常に儲かるなど普通ではない状態で、そっちに振れると反動で、悲しいことが起きたり、病気になったり、早死にしたりする。
と思っていたのです。
人は中庸に生きたいので一方に振れると反動で反対側に振れる。それは、しんどいので中庸で生きよう。
このように解釈してしまうと、仕事でなんだかうまく行った時には、その反動を覚悟しないといけなくなります。
また、どうぜなら短命でも良いから良い思いをしたい。などという考えになってしまっていました。
だから、嬉しいことが起こると、なんだかそれが普通ではないことが起こったという罪悪感にも似た感情が起こるのです。
「中庸というのは喜びの状態である。」
さて、今日起業以来の友人と話をしておりましたら、
「中庸というのは喜びの状態である。」
というのです。
上に振れるというのは「怒り」の状態であり、下に振れるというのは「哀しみ」だと。
だから、いつも自分が喜んでいる状態におくことこそ、中庸に生きることです。
と言うのです。
雷に打たれたような衝撃でした。
それは、なんとも、私の未来が光り輝いて見えた瞬間でした。
今私はとても幸せを感じながらいます。公私ともに本当にラッキーで平安でありがたい毎日の中にいます。
他人様が私を見てどう思うかなんてどうでもよいのです。
私が幸せを感じ、そして、その状態を見て安心している家族を感じてまた嬉しさを感じているのです。
なので、◯◯したらこうなるのにというのは、大きなお世話なのです。
諸説あるとは思いますが
何年か前のあの葛藤の日々を思うと本当に苦しい日々でした。
今この幸せや愛を思う存分感じて感謝して過ごしたい。
そして、その気持ちがまさに中庸に生きているということなのだと知ったのです。
今こんなに幸せだから、なんだか不幸せなことを覚悟しないといけないというのは理屈的に合わないということを知ったのです。
嬉しかったです。
今この時を承認された。
そんな気分で、泣きそうになりました。
今のままでよい。
何も迷うことなく信じて生きればいい。自分が喜びと感じることは何なのかをいつも見ていれば、私は中庸の中でぶれることなく生きていける。
さて、諸説あるとは思いますが、私はこの解釈がとても腑に落ちるので信じていこうと思います。
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