職業人としての柿本人麻呂
第三章 柿本朝臣人麻呂の家族と祭祀
柿本朝臣人麻呂の妻たち
引手山の妻
万葉集 巻二に載る集歌二一〇の歌などから、所謂、「引手山の妻」が人麻呂の嫡妻であったとの推定が可能と考えます。そこで、その集歌二一〇の歌から始まる挽歌群を紹介します。なお、歌は西本願寺本に準拠し、校本万葉集でのものではありません。その為、歌で原文表記が違うところがありますが、その違いが論拠のキーポイントになりますので、ご了承ください。
集歌二一〇
原文 打蝉等 念之時尓 取持而 吾二人見之 走出之 堤尓立有 槻木之 己知碁智乃枝之 春葉之 茂之如久 念有之 妹者雖有 馮之 兒等尓者雖有 世間乎 背之不得者 蜻火之 燎流荒野尓 白妙之 天領巾隠 鳥自物 朝立伊麻之弖 入日成 隠去之鹿齒 吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 乞泣毎 取與 物之無者 鳥穂自物 腋挟持 吾妹子与 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓 晝羽裳 浦不楽晩之 夜者裳 氣衝明之 嘆友 世武為便不知尓 戀友 相因乎無見 大鳥 羽易乃山尓 吾戀流 妹者伊座等 人之云者 石根左久見乎 名積来之 吉雲曽無寸 打蝉等 念之妹之 珠蜻 髪髴谷裳 不見思者
訓読 現世(うつせみ)と 念ひし時に 取り持ちに 吾が二人見し 走出し 堤に立てる 槻(つき)し木し こちごちの枝し 春し葉し 茂きしごとく 念へりし 妹にはあれど 馮(たの)めりし 児らにはあれど 世間を 背(そむ)きし得ねば かぎろひし 燃ゆる荒野に 白栲し 天(あま)領巾(ひれ)隠(かく)り 鳥じもし 朝立ちいまして 入日なす 隠(かく)りししかば 吾妹子し 形見に置ける 緑児の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物し無ければ とりほじも 脇ばさみ持ち 吾妹子と ふたり吾が寝(ね)し 枕(まくら)付く 妻屋(つまや)しうちに 昼しはも うらさび暮らし 夜しはも 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふ因(よし)を無み 大鳥し 羽易(はがひ)の山に 吾が恋ふる 妹は座すと 人し云へば 石根(いはね)さくみを なづみ来し 吉けくもぞ無き 現世と 念ひし妹し 玉かぎる 髣髴(ほのか)にだにも 見えなく思へば
私訳 この世の中のことと思っていた時に、お互いの手を取り合って、私と貴女と二人で見た庭先の堤に立つ欅の木のあちらこちらの枝に春の葉が茂るように、若々しく思えた貴女でした、そして、子供たちには頼りのなる貴女でしたが、人の生き死の、この世のことの決まりことに背くことが出来なくて、ほむらの燃える荒野に白妙の布で貴女の遺体を包み隠して、鳥たちのように朝に送り立たせて、夕日のときに葬儀を終えて貴女の身をこの世から隠すと、愛しい私の貴女が形見に残した幼子が貴女を求めて泣くごとに、幼子にしゃぶらせることのできるようなものもないければ、親鳥のように腋に抱えてあやし、貴女と二人で私と共寝した枕を置く貴女との部屋の内に心悲しく日を暮らし、夜はため息を付いて朝を向かえ、嘆くのだけどどうしょうもなくて、貴女を恋しく思っても、再び貴女に逢うこともありえない。大きな鳥のような羽を交わすような山に私が恋しい貴女がいますと人が云うので、「巌根さくみ」の地に苦しみながらも来たことよ。貴女に逢えるという良いこともなくて、この世の人と思いたい貴女が、トンボ玉の光のようにほのかにも見えないことを思うと。
短歌二首
集歌二一一
原文 去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放
訓読 去年見にし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年放る
私訳 去年に見たような、今年の秋の月は夜を同じように照らすけれど、去年の月を二人で見た貴女は、時間とともに想いから離れていくようです。
集歌二一二
原文 衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山侄往者 生跡毛無
試訓 衾道を引手の山に妹を置きて山姪行けば生けりともなし
試訳 白妙の布で遺体を隠した葬送の列が行く道の引手の山に貴女を一人置いて、山道を棺を担いで来た甥たちが帰って行くと自分は生きている実感がありません。
或本歌曰
標訓 或る本の歌に曰く
集歌二一三
原文 宇都曽臣等 念之時 携手 吾二見之 出立 百兄槻木 虚知期知尓 枝刺有如 春葉 茂如 念有之 妹庭雖在 恃有之 妹庭雖有 世中 背不得者 香切火之 燎流荒野尓 白栲 天領巾隠 鳥自物 朝立伊行而 入日成 隠西加婆 吾妹子之 形見尓置有 緑兒之 乞哭別 取委 物之無者 男自物 腋挟持 吾妹子與 二吾宿之 枕附 嬬屋内尓 旦者 浦不怜晩之 夜者 息衡明之 雖嘆 為便不知 唯戀 相縁無 大鳥 羽易山尓 汝戀 妹座等 人云者 石根割見而 奈積来之 好雲叙無 宇都曽臣 念之妹我 灰而座者
訓読 現世(うつせみ)と 念ひし時に 携へて 吾が二人見し 出立し 百枝(ももえ)槻(つき)し木 こちごちに 枝させるごと 春し葉し 茂きがごとく 念へりし 妹にはあれど 恃めりし 妹にはあれど 世間(よのなか)し 背(そむ)きし得ねば かぎるひし 燃ゆる荒野に 白栲し 天領巾隠り 鳥じもし 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 吾妹子し 形見に置ける 緑子し 乞ひ哭くごとに 取り委す 物し無ければ 男じもし 脇ばさみ持ち 吾妹子と 二人吾が宿(ね)し 枕(まくら)付(つ)く 妻屋(つまや)しうちに 旦(あした)しは うらさび暮らし 夜(ゆふへ)しは 息つき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふ縁を無み 大鳥し 羽易(はがひ)し山に 汝(な)が恋ふる 妹し座すと 人し云へば 石(いは)根(ね)割(さく)見(み)に なづみ来し 好けくもぞ無き 現世し 思ひし妹が 灰にいませば
私訳 この世の中のことと思っていた時に、お互いの手を取り合って、私と貴女と二人で見た庭先の堤に立つ欅の木のあちらこちらの枝に春の葉が茂るように、生き生きとした貴女でしたが、そして、頼りのなる若い貴女でしたが、人の生き死にの、この世のことの決まりことに背くことが出来なくて、ほむらの燃える荒野に白妙の布で貴女の遺体を包み隠して、鳥たちのように朝に送り立たせて、夕日のときに葬儀を終えて貴女の身をこの世から隠すと、貴女の形見に残した幼子が貴女を求めて泣くごとに、幼子にしゃぶらせることのできるようなものもないければ、男である私の腋に抱えてあやし、貴女と二人で私と共寝した枕を置く貴女との部屋の内に、または、心悲しく日を暮らし、夜はあれこれ考え朝迎え、嘆くのだけどどうしょうもなくて、貴女を恋しく思っても、再び貴女に逢うこともありえない。大きな鳥のような羽を交わすような山に私が恋しい貴女がいますと人が云うので、岩道を踏み分け苦しみながらも来たことよ。貴女に逢えるという良いこともなくて、この世の人と思いたい貴女が火葬の灰になっているので。
短歌三首
集歌二一四
原文 去年見而之 秋月夜者 雖度 相見之妹者 益年離
訓読 去年(こぞ)見にし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る
私訳 去年二人で見た秋の月。月夜は過ぎて行くが二人で見た肝心の貴女の面影が年ごとに薄れて逝くでしょう。
集歌二一五
原文 衾路 引出山 妹且 山路念迩 生刀毛無
試訓 衾(ふすま)路(ぢ)の引手の山の妹且(い)きて山路思ふに生けるともなし
試訳 葬送の野辺路を通って引手の山に貴女が逝ってしまうと、この後、一人で帰る山路の道中を想うと悲しみに生きている感覚がありません。
集歌二一六
原文 家来而 吾屋乎見者 玉床之 外向来 妹木枕
訓読 家し来に吾が屋(へ)を見れば玉(たま)床(とこ)の外(よそ)に向きけり妹の木(こ)枕(まくら)
私訳 家に戻ってきて私の家の中を見ると貴女と寝た美しい夜の床でいつもは並んでいるはずの枕が、外の方向を向いている貴女の木枕が。
補足として、集歌二一二の歌の原文の「山侄往者」の「侄」は「姪」の異字体です。漢語では兄弟の息子の意味となります。和語の姪は漢語では姪女と記します。なお、近年は新しい訓読みとその解釈から「徑」の誤字として「山路を往けば」と訓みます。また、集歌二一五の原文の「妹且」の「且」は「行く」と云う意味をも持つ漢字ですが、現在の訓読み万葉集では校訂の成果として「置」の誤字とし「妹を置きて」と訓みます。このような事情で西本願寺本準拠の『万葉集』の原文と現在の『校本万葉集』とは違うものであることを承知下さい。
この挽歌群は多くのことを雄弁に我々に語りかけます。
まず、集歌二一三の長歌に「緑兒」の表現があります。現在では嬰児と書き「みどりこ」と訓むこともあります。大宝律令の規定では三歳未満の幼子を意味しますが、おおむね、産まれたばかりの乳飲み子の表現と考えて良いと思います。従いまして、この引手山の妻は人麻呂の自宅に乳飲み子を残して死んだ妻となります。人麻呂が夜な夜な通う「妻問ひ」の女性ではありません。また、集歌二一三の歌の末句「灰而座者」から、この女性は当時としては高価で最先端の火葬と云う埋葬方法が取られています。さらに、集歌二一二の歌で「妹乎置而 山侄往者」と詠いますから、人麻呂の兄弟親族も多く葬儀・火葬に参列しています。およそ、人麻呂の自宅に専用の閨を持つこの妻は家刀自のような立場であったと考えられます。まず、夜の妾女ではありません。ここから、引手山の妻は子を産んだ嫡妻であったと考えられます。
次に、葬送の行列で妻の野辺送りの風景を「白妙之天領巾隠」と詠っています。人々は人麻呂の妻の棺を白い栲の布で覆い、担いで野辺を行きます。日本書紀 大化二年(六四六)の埋葬に関わる詔に「凡王以下小智以上之墓者、宜用小石。其帷帳等、宜用白布。庶民亡時、収埋於地。其帷帳等可用麁布」とありますから、妻の葬儀に白布を使う人麻呂は確実に官位十二階制度で云う小智以上の身分の官人です。歌が詠われた時代は天武天皇が施行した官位階級制度の時代ですので薄葬令で云う官位十二階制度ではありませんが、元となる薄葬令の詔は生きていた行政命令と考えます。およそ、人麻呂一族は、一部で噂されたような遊行詩人が属す庶民階級ではありません。
また、火葬・散骨と云う埋葬方式に注目しますと、歴史における火葬の最初は文武天皇四年(七〇〇)の道照和尚の火葬とされています。従いまして、引手山の妻は文武天皇四年以降に死亡したと仮定することが可能でしょう。
このように死亡・埋葬の時期を仮定しますと、万葉集の歌から面白い推定が可能です。ここで、人麻呂は大宝元年(七〇一)の文武天皇の紀伊御幸に同行していますが、大宝二年(七〇二)十月の太上天皇(持統)の伊勢御幸には同行していません。ところが、慶雲三年(七〇六)の暮れから慶雲四年の初春の間に亡くなられたと思われる石田王の挽歌を代作したとの伝承が残っています。丹生王が詠う石田王への挽歌では「狭丹頬相 吾大王者」と敬称され、石田王は天皇や皇太子級の表現となっています。人麻呂は、そのような高貴な人物の挽歌を代作したのではないかとの伝承がありますから、その当時、人麻呂と朝廷の首脳部との良好な関係は保たれていたと考えられます。従いまして、大宝二年十月の太上天皇(持統)の伊勢御幸に同行していないのは、人麻呂の妻の死による服喪中だったためではないかとの推測をすることが可能です。一方、大宝二年七月の文武天皇による吉野御幸の折、人麻呂がその吉野で出雲娘女への挽歌を詠ったとしますと、引手山の妻の死亡時期は大宝二年八月から九月頃のことではなかったとの推測が可能となります。こうしますと、歌が示す夕陽の力強さや木々にまだ緑葉が残る感覚から、引手山の妻は大宝二年八月頃、産褥のために死亡したのではないかと死亡時期の範囲を絞ることが可能となります。ちなみに大宝二年八月一日は、新暦では九月一日です。夜を明るく照らす八月十五日でも新暦九月十五日ですので、まだまだ、残暑厳しい時期です。長歌の句「蜻火之燎流荒野尓」が詠う季節感に相応しいと考えます。
もう少し、歌の表現から推測を行いますと、長歌に「大鳥羽易山」と云う句があります。難しいのは「易」と云う漢字の意味合いにおいて、当時の人々が理解したのは「羽を交わす」か、「羽を休める」かのどちらでしょうか。この「羽を交わす」ですと矢羽を交換するようなイメージが湧き、これですと、物部氏の祖である饒速日命と神武天皇との天羽々矢の神話に繋がります。つまり、石上神宮付近の山=国見山と云うことになります。一方、「羽を休める」ですと、大鳥が羽を休めたような山と云うようなイメージが湧きます。およそ、地上に降りた時の羽を広げたようなイメージとし、三輪山を中心に巻向山と龍王山が連なる様子を表現した言葉と解釈となります。ただし、漢字の「易」の字には「容易」と云う意味合いから「たやすい」と云う意味はありますが「(羽を)休める」と云う意味はありません。そのため、羽を広げると云う従来の解説の根拠には弱いものがあります。
ここで、「易」の漢字が持つ「物を交換する」と云う意味合いからの「矢羽を交換する」のイメージを優先しますと、引手山の妻が火葬されたのは国見山の西の麓、西日が当たる場所となります。現在の地名では天理市豊井町付近の丘となるでしょうか。そこからは西方浄土と妻が暮らした柿本氏や櫟井氏の住む布留の里が見渡せる場所となります。
引手山の妻が大宝二年八月頃、死んだ時、人麻呂と妻との間に乳飲み子が残されています。また、『万葉集』には次のような歌があります。歌は、愛しい人が亡くなってさほど時を置かない間に、引手山の妻とともに住んでいた穴師の屋敷から、日ごろ眺めた巻向山に幼子を絡めて詠います。
集歌一二六八
原文 兒等手乎 巻向山者 常在常 過往人尓 往巻目八方
訓読 児らし手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行き纏かめやも
私訳 愛しい児たちが手を巻くという巻向山は変わらずにあるけれで、もう、亡くなってしまった人に行き逢って抱きしめることが出来るでしょうか。
集歌一二六九
原文 巻向之 山邊響而 往水之 三名沫如 世人吾等者
訓読 巻向の山辺響(とよ)みに行く水の水沫(みなあは)ごとし世の人われは
私訳 巻向山のふもとで音を立てて流れ逝く水の水沫のようです。この世に生きている人としての私は。
ここらから推測して、人麻呂には手を合わせ、仏を拝むことを理解する少し大きな幼子と乳飲み子が残されたのではないでしょうか。母親が亡くなった時の、その子の情景が集歌二一〇の歌の「馮之 兒等尓者雖有」の句で示す「子供たちが頼りにした」と詠うゆえなのでしょう。
「柿本朝臣と柿本朝臣佐留の子孫」の章で柿本朝臣佐留と柿本朝臣人麻呂とを同一人物として話を進めました。そこでは仮定として柿本佐留には建石と浜名の二人の子がいたとしました。この建石は神亀四年(七二八)正月に従五位下に叙位し、浜名は天平九年(七三七)九月に外従五位下に叙位しています。浜名が話題としています大宝二年(七〇二)八月の生まれですと、外従五位下への叙位は三十五歳でのこととなります。「柿本朝臣と柿本朝臣佐留の子孫」の章の帰結で、佐留は公務での殉死と壬申の乱の功労などにより和銅元年(七〇八)以降に従三位を死後贈位されたと推定しました。すると、浜名は蔭位の制度から二十一歳の時、従六位下からの出仕となり、三十五歳のとき四回の叙位考課を経て四階級昇り外従五位下を頂いたことになります。非常に順当な叙位となります。
この推論の帰結が成り立つとことを前提とします。次に集歌一二六八の歌が詠われたのが大宝二年から三年頃とし、その時、兄となる建石が七歳前後の幼子と仮定します。すると、建石は持統九年(六九五)頃の生まれとなります。結婚して二、三年の内に最初の子として建石が生まれたとしますと、人麻呂と引手山の妻との婚姻は持統六年(六九二)頃となります。
ここで、これらの推定の検証のため建石の叙位を確認して見ます。建石が嫡子として持統九年(六九五)の生まれと仮定し、浜名と同じ蔭位の条件とします。すると、建石は霊亀二年(七一六)、二十一歳の時に従六位上で出仕することになります。そして、十二年後の神亀四年(七二八)正月に三回の叙位考課を経て三階級昇り従五位下に叙位されたことになります。柿本佐留と柿本人麻呂とを同一人物と考えますと、朝廷に貢献し殉死した長男に対しては順当な扱いと考えます。先に見た「おほきみつのくらい」での検討やここでの推論は、律令制度からの逆算において、さほど無理のない帰結となります。
先に「柿本朝臣と柿本朝臣佐留の子孫」の章では建石の子として市守を例として推論しました。同じ仮定を使用した時、嫡妻引手山の妻の子、建石と浜名にも、その推論は成立すると考えます。
帰結となりますが、当時の風習や律令規定などを勘案すると引手山の妻は、朝臣の姓を持つ春日・櫟井一族の出身で、持統五年(六九一)から六年頃に十五歳前後で人麻呂と関係を持ち、建石が生まれた後に柿本朝臣家に嫡妻(家刀自)として入った。そして、大宝二年(七〇二)八月に浜名を産んだ後、産褥などの病により廿五歳前後で死亡した。また、普段は穴師の里に人麻呂とともに住み、その家の傍には穴師川の土手があった。そして、埋葬は石上の国見山の西麓で火葬された後、散骨された。このような推定が可能となります。
なお、この引手山の妻の人と為りについては、『万葉集』の歌などからも窺い知ることは出来ません。彼女は人麻呂と対等に精神を交わすような立場ではなく、子を生し、柿本家を持統することを託された女性であったと思われます。