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墨子 巻八 明鬼下(原文・読み下し・現代語訳)「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠

《明鬼下》:現代語訳
子墨子が語って言われたことには、『(世の中に、)昔の三代の聖王は既に死没してしまったという事態に及び、天下は正義を失い、諸侯は力による政治を行っている。』と。これにより、諸国の人々の、君臣上下の者共に恵と忠の行いは失われ、父子弟兄では慈と孝、長に従い、良に正すような行いが失われ、政治ではその正長は統治のことを聴衆することに努力せず、身分が賤しき人は物事に従事することに努力せず、民衆には淫暴・寇乱・盜賊になるものが居り、兵刃、毒薬、水攻め、火攻めにより、無罪の人が道路を行くときに網に掛け、その人の馬車や衣服を奪い、これにより自分の利益とする者がおり、いろいろな悪行を行うことは、これから始まり、これにより天下は乱れた。このようなことの、これが生じた理由はどのようなことから判るだろうか。これはつまり、皆が、鬼神は存在する、存在しないことへの分別に疑惑を持ち、(昔の人が信じていた)鬼神が賢者を褒賞し、また、暴者を処罰することが(今日では)明らかでないことによる。今、もし、天下の人に対して、共に、もし、鬼神が賢者を褒賞し、また、暴者を処罰することを信じさせれば、天下は、どうして、乱れるだろうか。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が言うことには、『鬼神は、元より、存在することは無い。』と。朝夕、天下にその説を(民衆に)教育することにより、天下の民衆に鬼神の存在を疑わせ、天下の民衆、その皆に鬼神の存在の有無の分別への疑惑を持たせ、これによって、天下は乱れた。このために子墨子が言うことには、『今、天下の王公大人士の君子は、真に天下の利を興し、天下の害を除くことが必要だと願うなら、それなら、鬼神の存在の有無への分別は、そもそも明察しないといけないものごとである。』と。既に、鬼神の存在の有無の分別については、それは考察しない訳にはいかないとするとした。それでは、私は、鬼神の存在の有無の分別について明察を行うときに、その分別を説き、どのようにすれば明察することが出来るであろうか。子墨子は言われたことには、『この鬼神の存在が天下に有ると無いとを察知する方法は、必ず、民衆の耳目により鬼神の実態が有ると無いとを知ることにより、基準とすべきものである。真に鬼神の実態を聞いた、鬼神の実態を見たとする判断に迷うのなら、必ずその体験により鬼神の実態は有りとし、聞いたことが無い、見たことが無いとするなら、必ずその体験により鬼神の実態は無いとする。このような方法で、試みにある郷、ある里に入り、鬼神の実態を確認してみよう。古代から今まで及ぶまで、民が生まれてこの方、試みに鬼神の姿を見、鬼神の声を聞いたことが有れば、それならば、鬼神の実態はどうして無いと言えるであろうか。もし、聞いたこともなく、見たことも無ければ、鬼神の実態は有ると言えるだろうか。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が語って言うことには、『天下に鬼神による物事を聞いたり見たりしたことを経験した者は、その人数を取り上げて数えることが出来ず、また、いったい誰が鬼神による物事の有無を聞いたり見たりしたことを経験したのか。』と。子墨子の語って言うことには、『もし、民衆が(昔の人と)同じように見ることと、(昔の人と)同じように聞くことにより鬼神による物事を確認するならば、きっと、昔の杜伯の事例は鬼神による物事に相当するだろう。』と。周国の宣王は其の臣下の杜伯を殺したが杜伯に罪は無かった。杜伯が言うことには、『我が君子が、私を殺して私に罪が無かったのに、もし、杜伯はもう死者だから、その罪の有無を知ることは無いだろうと思うなら、それで恨みは終わる。もし、死んでも、その罪の有無を死者に知ることが有るなら、三年以内に、必ず我が君子に罪の有無を判らせるだろう。』と。その杜伯を殺した三年後、周国の宣王は諸侯を集合させて田圃に狩りを催した。狩りの戦車は数百両、徒歩の者は数千人、人は野に満ちた。昼間、杜伯は白馬に曳かれた装飾の無い戦車に乗り、朱の衣装に朱の冠を着け、朱の弓を執り、朱の矢を手挟み、周国の宣王を追い回し、宣王を戦車から射た。矢は胸に当り脊椎を折り、宣王は己の戦車の中に倒れ、弓袋に伏せて死んだ。この時、周国の人で狩りに従う者でこのことを見なかった者は居らず、この現場から遠くにいた者はこの出来事を聞かなかった者は居らず、このことは書に著して周の春秋に載る。およそ、罪無き者を殺す者は、天帝よりその不祥を得、鬼神はこの不祥の者を誅罰する。この周国の宣王の行いは世に毒をまき散らすようなものである。このような周国の宣王の行いを書の中で解説することにより、この事件を見れば、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。
ただ、周国の宣王のことを書の中に解説することだけで、鬼神が居ることがこの通りとするわけでは無く、昔の鄭国の穆公は、真昼の日中に宗廟の中に居た時、神が居り、神は門より入り、そして穆公の左側に来た。神の姿は鳥のようであり、着ける白き服は比べようもなく美しく、顔の形は正方形であった。鄭国の穆公は、この神の姿を見、恐怖により奔り逃げるが、神が言うことには、『怖れることは無い、天帝は汝の明徳の奉仕を受け、私に汝に寿命を、新たに十九年を賜らわせ、汝の国家を繁栄させ、子孫の数を盛んにし、福を失わないようにさせる。』と。鄭国の穆公は神への再拝稽首の礼儀を行って言うことには、『失礼ながら、神の名前を聞かせて欲しい。』と。言うことには、『私は句芒である。』と。もし、鄭国の穆公が体験した神の姿を見たことにより、それを祥事とすると、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。
ただ、このようなことを書の中に解説することだけで、鬼神が居ることがこの通りとするわけでは無く、昔の燕国の簡公は其の臣下の莊子儀を殺したが、莊子儀に罪はなかった。莊子儀が言うことには、『我が君王が私を殺して、私に罪が無い場合、死人がその罪が無かったことを知らないのなら、それなら、恨みは終わる。死人がその罪が無かったことを知ったなら、三年以内に、きっと、我が君にこの罪が無かったことを判らせるだろう。』と。莊子儀を殺した1年の後、燕国の簡公は祖の祀りに戦車を馳せていた。燕国に祖の祀りがあるのは、ちょうど、斉国に社稷の祀りがあり、宋国に桑林の祀りがあり、楚国に雲夢の祀りがあるのと同じである。これは男女が集まって観るものである。真昼に、燕国の簡公がちょうど祖の祀りに戦車を走らせていたとき、荘子儀が朱杖をふるってこれを撃ち、簡公を車上で殺した。この時、燕国の祀りに従う者でこのことを見なかった者は居らず、この現場から遠くにいた者でこの出来事を聞かなかった者は居らず、このことは書に著して燕の春秋に載る。諸侯は伝え聞いて、そしてこの事件のことを語って言うことには、『およそ、罪無き者を殺す者は、天帝よりその不祥を得、鬼神はこの不祥の者を誅罰する。』と。この燕国の簡公の行いは世に毒をまき散らすようなものである。このような燕国の簡公の行いを書の中で解説することにより、この事件を見れば、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。
ただ、このようなことを書の中に解説することだけで、鬼神が居ることがこの通りとするわけでは無く、昔の宋国の文君鮑の時代、ある臣下が居て、名を𥙐観辜と云う。観辜は以前には厲に仕えており、祩子は儀式で使う威厳の杖を持ち王宮に出向いて観辜に語って言うことには、『観辜、この儀礼の準備はどうしたのか、神事の珪璧の宝物は儀礼の規定を満たさず、御酒や倶物は清らかに造られていない。倶物として捧げる犠牲の家畜は肥えていない。儀礼を行うはずの春秋冬夏、その日程の選択は時期を失っている。さて、お前がこの儀礼を準備したのか。それとも、文君鮑がこれを為させたのか。』と。観辜が言うことには、『文君鮑は幼く、産着の中に居り、文君鮑がどうしてこの儀礼の準備を執り行えるでしょうか。この官臣の観辜が、中心にこの儀礼の準備を行いました。』と。祩子は儀式で使う威厳の杖を掴んだ手を振り上げて観辜を叩くも、観辜を儀礼の壇上に一撃で打ち殺した。この時、宋国の人の儀礼に従う者でこのことを見なかった者は居らず、この現場から遠くにいた者でこの出来事を聞かなかった者は居らず、このことは書に著して宋の春秋に載る。諸侯は伝え聞いて、そしてこの事件のことを語って言うことには、『もろもろの祭祀を敬い慎まない者は、鬼神はこの敬慎しない者を誅罰する。』と。この宋国の観辜の行いは世に毒をまき散らすようなものである。このような宋国の観辜の行いを書の中で解説することにより、この事件を見れば、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。
ただ、このようなことを書の中に解説することだけで、鬼神が居ることがこの通りとするわけでは無い。昔、齊国の莊君の臣下に、いわゆる、王里國と中里徼と言う者が居り、此の王里國と中里徼との二人は、訴えることがあったが三年経っても、莊君は判決を下さなかった。莊君は訴えた中里徼を以前から殺そうと思っていたが、中里徼に罪が無いことを恐れ、それで中里徼を赦そうと思った。他方、罪が有るのに無罪にすることを恐れ、そこで使いの者を立て、一匹の羊の犠牲を神に供えて、齊国の神に神明を受けることを提案し、王里國と中里徼との二人はこれを許諾した。神臺に溝を刻み、犠牲の羊を切り、その血を溝に注ぎ、王里國が先に訴訟の辞を読み、既に終えた。中里徼が訴訟の辞を読み、それが未だ半ばのとき、犠牲の羊は立ち上がり、中里徼に触れ、中里徼の足を折った。神は神臺から去り、中里徼を枯れ木のように立ち枯らし、中里徼を、神明を受ける神臺に崩れ斃した。この時、齊国の人の神明の儀礼に従う者でこのことを見なかった者は居らず、この現場から遠くにいた者でこの出来事を聞かなかった者は居らず、このことは書に著して齊の春秋に載る。諸侯は伝え聞いて、そしてこの事件のことを語って言うことには、『官位俸禄を求めても先に誠実な行いをしない者は、鬼神はこの不誠実な者を誅罰する。』と。この中里徼の行いは世に毒をまき散らすようなものである。このような宋国の観辜の行いを書の中で解説することにより、この事件を見れば、つまり、鬼神が居ることを、どうして疑うことが出来るであろうか。このようなことで、子墨子が語って言うことには、『深い谷、広々とした林、奥深く物静かな土地に、そこに人は居ないところと思っていても、行うことは正さない訳にはいかず、行いの現れには鬼神が居り、鬼神はその行いを視ている。』と。
今、鬼神の存在を無いとする説を執る者が言うことには、『民衆の耳目の情報は、どうして、それにより鬼神の有無の疑惑を処断することに足りるのか。いかに、天下の高邁な君子になることを願ったとしても、だからと言って、民衆の耳目の情報を信じる者がいるだろうか。』と。子墨子の言うことには、『もし、民衆の耳目の情報により、それが信じるには足りないとし、その信じられないとする判断により、鬼神の有無の疑惑を処断することは出来ない。知らないのか、昔の三代の聖王、堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王のような者は、彼らの事績により法とすることに足りるかどうか。この疑問について、中人より上の身分の者、皆が言うことには、『昔の三代の聖王のような者は、その事績により法とすることが出来る。』と。もし、昔の三代の聖王の事績により法とすることが出来ないとするなら、それでは、しばらく、試みに上代に聖王の事績を見てみよう。
昔、武王が殷を攻め紂王を誅罰した時、諸侯とともに天下の祀りを分かち合った日に、その諸侯との関係が親しき者には内祀りの儀礼を受けさせ、関係が遠い者には外祀りの儀礼を受けさせた。このことから武王は必ず鬼神を祀ることにより鬼神は存在すると為した。この鬼神は存在すると為すことにより、殷を攻め紂王を誅罰し、諸侯に対してその天下の祀りを分かち合った。もし、鬼神が存在しないのならば、つまり、武王はどのような祀りを分かち合ったのだろうか。ただ、武王の事績をそうだとするだけではなく、聖王が配下の者を褒賞する場合、必ず、祖廟において行い、咎人を誅罰する場合、神を祀る社において行う。褒賞することを祖廟で行うことはなぜだろうか。それは褒賞の配分が功績に等しいことを祖に告げるためである。咎人を誅罰することを神に社で行うことはなぜだろうか。それは誅罰の処断を神に聴いたことのとおりであることを神に告げるためである。
ただ、このようなことを著した書が説くことだけを、この通りとするだけではない。すでに、昔の虞夏、商、周三代の聖王といっても、その始めて国を建て、都を営むことを開始する日には、必ず国の神祀りの正壇の地を選び、そこに正壇を置き、それを宗廟とし、必ず、樹木の高く生い茂ったものを選び、立てて正壇左右の叢木とし、必ず、国の中の父兄の内、慈孝貞良の人物を選び、その者を神祀りの祝宗とし、必ず、六畜は優れて肥えて太り毛色に混じり毛のないものを選び、それを神祀りの犠牲とし、宝飾品の珪璧や琮璜は、その時の国の財力を計り程度に合わせて正壇に納め、必ず、五穀は香り豊潤で黄金に熟したものを選び、それにより御酒や倶物を造る。五穀を用いるこの理由があって、御酒や倶物は、年により品質が上下する。年の天候などにより六畜や五穀の状況が変わることから、古代の聖王は天下を治める時、このような理由で最良なもので鬼神を祀ることを先にし、人への配分を後にするとはこのことである。このため、言うことには、『官府の財を使った調達では、必ず祭器祭服を先にして、それをすべて官の蔵に納め、神祀りを掌る祝宗や有司は、ことごとく、朝廷に参列し、神祀りの六畜の新鮮な犠牲の肉は干し肉と同じところに並べない。』と。このようなことで、古代の聖王は政治を行うに際し、示した儀礼を行っていた。古代の聖王は、必ず鬼神に仕えることをもって、王としての務めとし、鬼神に仕えることを国の隅々まで行き渡らせ、また、後世の子孫が知ることが出来なくなることを恐れ、そのために鬼神に仕える記録を木簡や帛布に書き、後世の子孫に伝え残し、或はその木簡や帛布が腐ったり虫が食ったりして絶えて滅して、後世の子孫が木簡や帛布を得るも、その記録が読めなくなることを恐れ、それで記録を盤盂に彫り込み、また、これを金や石に刻み込んで、それにより記録を残すことを重ねた。また、後世の子孫が麕(のろしか)を麒麟と崇め、この邪神を崇めることにより鬼神の祥を受け取ることが出来ないことを恐れた。それで、先代の王の書、聖人の一尺の帛の書、一編の書、これらに語るものに鬼神が載ることは数えきれず、記録を重ねてこれらの物を残し、記録を伝えるためにさらに記録を重ねた。この記録を重ねたのはどういうことだろうか。それは聖王が鬼神に仕えることを務めるためである。今、鬼神の存在は無い説を執る者が言うことには、『鬼神はもともと存在することは無い。』と。それでは、この者の話は聖王の務めに反する。聖王の務めに反することは、つまり、君子たる者の取るべき道ではないことになる。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が言うことには、『先代の王の書、一尺の帛の書のみならず、一編の書、これらに語るものに鬼神が載ることは数えきれず、記録を重ねてこれらの物を残し、記録を伝えるためにさらに記録を重ねたとは、また、どのような書にこの鬼神のことがあるのか。』と。子墨子の言うことには、『周書の大雅に鬼神のことがある。』と。大雅に言うことには、『文王の魂が天上に在ったとき、天、顕われ、周は古き国と云うけれど、その天帝の命はこれ新たなり。このように周の国は天下に顕われないだろうか、天帝の命は嘉からむであろうか。文王の魂は天上天下を行き来し、天帝の左右に在った。麗しき文王、天帝のご下問は止まず。』と。もし、鬼神の存在が無いのであれば、それでは文王は既に死に、その霊魂はどうして天帝の左右に居ることが出来るであろうか。このことが、私が周書に鬼神のことが載ることを知る理由なのだ。
また、周書にのみ鬼神のことがあって、商書に鬼神のことが無ければ、それではまだ鬼神の存在を規定のこととするには足りない。そこでしばらく試みに、上古の時代を商書に見てみよう。言うことには、『ああ、古代に夏朝があり、未だ禍が無かった時代、百獣・貝・虫から飛ぶ鳥に及ぶまで、道徳にしたがわないものは無い。まして人の顔を持つもの、どうして心を異にするだろうか。山川の鬼神、また、無理に安寧を破ることは無い。もし、共に誠実であれば、これにより天下を共に誠実であることに人々を合わせ、下界の大地を共に誠実であることに保つ。山川の鬼神が無理に安寧を破ることが無いその理由を推察すると、鬼神は、禹王を補佐し禹王が天下の事業を行うことを為させたのである。このことにより、私が商書に鬼神のことが載ることを知る理由なのだ。
また、商書にのみ鬼神のことがあって、夏書に鬼神のことが無ければ、それではまだ鬼神の存在を規定のこととするには足りない。そこでしばらく試みに、上古の時代を夏書に見てみよう。禹王は誓書に云うことには、大いに甘の国と戦う。禹王は左右六人に命じて、戦車から下りて誓の言葉を中軍に聴かせて言うことには、『有扈氏は、五行の教えを侮辱し、三正の行いを怠棄し、天はこれにより有扈氏の命を断絶した。』と。そして、言うことには、『日の有る内に、今、私は有扈氏と一日の命を争う。そこで、お前たち卿大夫庶人よ、私はお前たちの田野や領土、そのような土地が欲しいわけではない。私はお前たちと共に天罰を行うのだ。(三人乗りの)戦車に乗る者の左の者が左側を攻めず、右の者が右側を攻めないのは、命令を聞かないようなものだ。戦車の中央で馬を操る者の、お前が馬の動きを操れないのなら、命令を聞かないようなものだ。』と。有扈氏との戦いにより、禹王は祖廟にて褒賞を行い、神祀りの社で誅罰を行った。褒賞することを祖廟で行うことはなぜだろうか。それは褒賞の配分が功績に等しいことを祖に告げるためである。誅罰することを神に社で行うことはなぜだろうか。それは誅罰の処断を神に聴いたことのとおりであることを神に告げるためである。このために、古代の聖王は、必ず、鬼神の名の神託により賢者を褒賞し、暴者を処罰することを行い、この背景により、褒賞は必ず祖廟において行い、誅罰は必ず神を祀る社において行った。このことにより、私が夏書に鬼神のことが載ることを知る理由なのだ。このため、上古には夏書、その次は商や周の書、その数多くが鬼神のその存在を語り、存在を語る記事を重ね、これを後世に伝えるためにまた重ねた。このことは一体どういうことであろうか、それは聖王が鬼神に仕えることを務めるためである。このような書の説くことがらにより鬼神の存在を見れば、すなわち、鬼神が存在することは、どうして疑うことが出来るであろうか。古代において言うことには、『吉日、丁卯、周代の祝の社方は、社において先祖祖考の祀りを行うことを勧め、それにより寿命は延びる。』と。もし、鬼神の存在が無いならば、周代の祀りを司る祝の社方が、どうして寿命を延すことが出来るであろうか。
このようなことにより、子墨子は言うことには、『嘗て、このように、鬼神は適切に賢者を褒賞し、暴者を処罰した。』と。この賢者を褒賞し暴者を処罰するという、国家の統治の根本のこのことを国家に施し、この施政を万民に施し、誠実に国家を治め万民に利を与える根源はこの統治方法である。もし、賢者を褒賞し暴者を処罰することが統治の方法では無いとするならば、このことにより官吏の治政や行政府は潔白清廉ではなく、また、男女に立場の区分はいらないとするこのものごとを、鬼神はそれを監視するだろう。また、民は淫暴・寇乱・盜賊を行い、兵刃・毒薬・水攻め・火攻めにより、罪無き人を道路に留め、その人の車・馬・衣装を奪うことで自分の利益とするものごとを、鬼神はそれを監視するだろう。この鬼神に常に監視されていることにより、官吏の治政や行政府は、無理に潔白清廉ではないことをせず、善行を見てわざと褒賞しないことはせず、暴力を見てわざと処罰しないことはしない。民は淫暴・寇乱・盜賊を行い、兵刃・毒薬・水攻め・火攻めにより、罪無き人を道路に留め、その人の車・馬・衣装を奪うことで自分の利益とするものごとは、鬼神に常に監視されていることにより止むだろう。このことにより、静穏な世に乱を放つことは起こらず、鬼神の明らかなる存在を規範として、鬼神の照らすところは、ものごとを為す、その一人にあり、その鬼神に常に監視されていることにより鬼神の誅罰を恐れ、このことにより天下は治まる。このため、鬼神の照らすところは、物静かな場所・広大な沼池・山林・深谷の区別をするわけでは無く、鬼神の照らすところは必ずものごとを為す者を知る。鬼神の誅罰は、富貴・衆強、勇力・強武、堅甲・利兵の区別をするわけでは無く、鬼神の誅罰は必ず世の中で強者とされる者に勝る。もし、鬼神の誅罰は世の中の強者に勝るわけではないとするならば、例えば、昔の夏朝の桀王は貴いことに天子となり、富は天下にあった、上に向かって上帝を謗り、鬼神を侮り、下に向かっては天下の万民を咎め侮った。上帝に元山において夏朝の帝の王桀の行いを討伐する兆しがあり、ことここに至って、天帝は、そこで、湯王に対し天明による天罰を桀王に降すことをさせた。湯王は戦車九両により鳥陳鴈行の陣形を執り、湯王は帝が乗る輿に乗り、夏朝の軍勢を駆逐し、湯王の軍勢は郊逐に進撃し、武勇の人、推哆大戲を虜とした。これにより、昔の夏朝の王桀は、貴いことに天子となり、富は天下にあり、武勇強力の人に推哆大戲が居り、大戲は生きたままの虎を割き、指先だけで人を殺し、殺す人民の数は兆億人、この大戲の武勇は殺す人により沼池や山稜を埋め尽くすほどであったが、それでもこの大戲の武勇をもってしても、鬼神の天誅を防ぐことは出来なかった。これが、私が示す、いわゆる、鬼神の誅罰は、富貴・衆強、勇力・強武、堅甲・利兵の区別をするわけでは無いとは、是なのである。
また、このことだけを鬼神の照らすことがらとはしない。昔の殷朝の紂王は、貴いことに天子となり、富は天下にあり、上に向かって上帝を謗り、鬼神を侮り、下に向かっては天下の万民を咎め侮り、長老を捨て去り、幼児を殺し、罪無き人を拷問し、妊婦の腹を割き、庶民老人独夫独婦が生活に困窮し泣き叫んでも、それを王に報告することは無かった。ことここに至って、天帝は武王に対し天明による天罰を紂王に降すことをさせた。武王は天命により戦車百両、武勇の兵士四百人を選び、庶國節を討つに先だって殷朝の軍備の備えを窺い、殷朝の軍勢と牧野で戦った。武王は費中と悪来を虜とし、殷朝の軍勢は命に背き散り散りに逃げ去った。武王は敗走する殷朝の軍勢を追い、王宮に進撃し、萬年梓株の間で紂王を討ち、紂王の遺体を赤環に繋ぎ、その遺体を白旗に載せ、それを示すことで天下諸侯に紂王を誅罰したことを示した。
これにより、昔の夏朝の王桀は、貴いことに天子となり、富は天下にあり、武勇の人、費中、悪来、崇侯虎らは、指先で人を殺し、殺す人民の数は兆億人、この者どもの武勇は殺す人により沼池や山稜を埋め尽くすほどであったが、それでもこの者どもの武勇をもってしても、鬼神の天誅を防ぐことは出来なかった。これが、私が示す、いわゆる、鬼神の誅罰は、富貴・衆強、勇力・強武、堅甲・利兵の区別をするわけでは無いとは、是なのである。
また、魯大夫禽鄭の言葉に、『鬼神の照らすことがらを鬼神の統治の方法と言い、小さな宝石を得ても、それを小さいとしてはいけない、尊祖廟を滅亡させたとしても、それを大きなこととしてはいけない。』と。つまりこのこととは、鬼神が褒賞することがらは、褒賞するには小さいとすることなく、これを褒賞し、鬼神が誅罰することがらは、誅罰するには大きいとすることなく、必ず、これを誅罰すると言う。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が言うことには、『考えて見ると、親に利を与えることに忠にはならず、また、孝子となることに害ではないだろうか』と。子墨子の言われたことには、『古代に、今の時代で考える鬼神があった、これ以外ではない、天に鬼神は居り、また、山水にも鬼神とされるものが居る、また、人が死んで鬼神となるものが居る。今、子がその父親に先だって死に、弟が兄に先だって死ぬ者が居り、このようであって欲しいと願っていても、このようなことではあるが、天下の故習を固持する者が言うことには、『先に生まれる者は先に死す。』と、もし、このような事であれば、つまり、先に死ぬのが父親でなければ、つまり、母親で、兄でなければ兄嫁となる。今、御酒と倶物の儀礼を行うことは清らかであり、それにより祭祀を敬い慎む。もし、鬼神について本当にその存在が有るのであれば、このことは、死した者の魂である鬼神への祭祀には父母姒兄を参列させ、この人たちに儀礼の後の御酒・倶物・犠牲を飲食させるものであるから、どうして、このことが厚利とならないのであろうか。もし、鬼神について本当にその存在が無いのであれば、このことは、つまり、祭祀での御酒・倶物・犠牲を準備する財を使うことがらに費用を費やしただけとなる。自分から、その祭祀での御酒・倶物・犠牲の費用を費やすということは、特別にこの御酒・倶物・犠牲の物をどぶ川に飲食させ、捨てるためではなく、内にあっては宗族の人々を、外にあっては郷里の人々を、その皆を誘い集い、共に祭祀での御酒・倶物・犠牲を飲食することが目的なのである。鬼神に対してその存在は無いだろうとしても、この宗族の者や郷里の者と共に祭祀を催すことは、それもこのことにより、談笑を交え人々を集い、そして親密の感情を郷里の人々の間に得るべきものである。
今、鬼神の存在は無いとする説を執る者が言うことには、『鬼神はもともとその存在が有るはずがない。だから、鬼神のためにその祭祀の御酒・倶物・犠牲の財を使うわけではない。私は、今、その祭祀の御酒・倶物・犠牲の財を使うことを惜しむわけではない。しかし、その祭祀を催すことで得ることがらとは、貴方にあっては、一体、何なのだろうか。この(親に先だち亡くなった、儒教では不忠となる子の弔いの祭祀は)上にあっては聖王の書の記述に逆らい、内にあっては民人の孝を行う子の行いの規定に逆らう。それでありながら、天下の上士になろうと願っても、このことからすれば、上士になることへの道ではない。』と。このことについて、子墨子の言うことには、『今、私が祭祀を催すことは、ただ、祭祀の御酒・倶物・犠牲の物をどぶ川に飲食させ、捨てるためではない。上にあってはこの祭祀により鬼神の祝福に交わり、下にあっては祭祀により談笑を交え人々を集い、そして親密の感情を郷里の人々の間に得るためである。もし、鬼神が存在するのなら、それなら、祭祀に私は父母弟兄の参列を得て、御酒・倶物・犠牲の物を食べさせるだろう。つまり、これらのことは、どうして、天下の利事にはならないのか。』と。
このことから、子墨子の言うことには、『今、天下の王公大人君子が、真に天下の利を興すに当たり、天下の害を除くことが必要だと思うなら、鬼神は鬼神が存在するように扱い、君子の鬼神への尊敬を民に明らかにしないわけにはいかない、これが聖王となる者の道であるからである。』と。
 
注意:
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。
 
おまけの独り言
ブログでの掲載での文字数制限で分割した都合があり、簡単に本篇の本旨を説明します。
墨子が明鬼下篇で示す鬼神への態度は「當若鬼神之有也」です。つまり、「君子は民衆の前では鬼神が存在するように振舞え。」です。これが、墨学での天神鬼神への態度です。そして、「當若鬼神之有也」の態度ですから、墨子は鬼神の存在はほぼ無いだろうとの立場で、鬼神の存在が有れば、それを受け入れる立場です。ただし、統治の為には民衆の信仰を利用して、民衆に対し、「鬼神は存在し、鬼神は常にお前たちの行動を監視している」と、信じさせることが有益と考えています。それが、「是以莫放幽閒、擬乎鬼神之明顯、明有一人畏上誅罰、是以天下治。故鬼神之明、不可為幽閒廣澤、山林深谷、鬼神之明必知之。」の文章に示すもので、人はどこにいても鬼神が行動を照らし暴なる行為には誅罰を降すとの説にあります。日本の「お天道様が見ている」の発想の源流のようなものです。墨子の趣旨は、治安統治を警察力以前に民衆の「人前では犯罪をしない、しにくい」という精神的な抑止力に期待するものです。その「人前」に、民衆の信仰から、もっと大きな網として天界の鬼神による監視と言うものを示し、この信仰を為政者は積極的に普及させて民衆の道徳心を養えとします。
ほぼ、時代関係からすると、この「お天道様が見ている」と云う日本での思想は墨子からのものでしょう。全く、身も蓋も無い話ですが、実務的に統治を行うという観点からの、民衆の風習・信仰を如何に利用するからのものしかありません。この観点からすると鬼神の存在の否定を強める孟子以降の儒教は幼稚となります。逆に鬼神の存在を肯定も否定もしない孔子の態度の方が為政としては適切となります。
なお、加えて、「有恐後世子孫不能敬莙以取羊」の文章が示すように、墨子は、「君子は民衆の前では鬼神が存在するように振舞え」と主張しますが、だからと言って、君子は民衆の風習・信仰に引きずられて、麒麟や白亀などの天の吉祥啓示の迷信に迷うなと釘を刺します。非常に功利的な鬼神思想への扱いです。この態度を進めると荀子の思想背景となります。
ちなみに、「莙」の漢字は、現在では水草の「牛藻」という種類と理解することになっていますが、別に「莙」の漢字には「音麕。義同。」の解説があり、この「麕」は「のろしか」のことで、同時に古代では「麒麟、本網麒麟瑞獣、麕身牛尾馬蹄五彩腹下黄高。」と解説するものです。祭祀儀礼の説文の中で「羊」の漢字を「祥也。」と解釈するのでしたら、「莙」の漢字の意味を古代の祭祀儀礼の中に丁寧に探るのが読解者の基本的な作法です。理解できないとして任意に「校訂」をすると、墨子が思想する論旨を見失います。
さて、標準的な明鬼下篇への理解と、本ブログで示した解釈は同じだったでしょうか。

《明鬼下》:原文
子墨子言曰、逮至昔三代聖王既沒、天下失義、諸侯力正。是以存夫為人君臣上下者之不惠忠也、父子弟兄之不慈孝弟長貞良也、正長之不強於聴治、賤人之不強於従事也、民之為淫暴寇乱盜賊、以兵刃毒薬水火、退無罪人乎道路率径、奪人車馬衣裘以自利者並作。由此始、是以天下乱。此其故何以然也。則皆以疑惑鬼神之有與無之別、不明乎鬼神之能賞賢而罰暴也。今若使天下之人、偕若信鬼神之能賞賢而罰暴也。則夫天下豈乱哉。
今執無鬼者曰、鬼神者、固無有。旦暮以為教誨乎天下、疑天下之衆、使天下之衆皆疑惑乎鬼神有無之別。是以天下乱。是故子墨子曰、今天下之王公大人士君子、實将欲求興天下之利、除天下之害、故當鬼神之有與無之別、以為将不可以不明察此者也。
既以鬼神有無之別、以為不可不察已。然則吾為明察此、其説将柰何而可。子墨子曰、是與天下之所以察知有與無之道者、必以衆之耳目之實知有與亡為儀者也、請惑聞之見之、則必以為有、莫聞莫見、則必以為無。若是、何不嘗入一郷一里而問之、自古以及今、生民以来者、亦有嘗見鬼神之物、聞鬼神之聲、則鬼神何謂無乎。若莫聞莫見、則鬼神可謂有乎。
今執無鬼者言曰、夫天下之為聞見鬼神之物者、不可勝計也、亦孰為聞見鬼神有無之物哉。子墨子言曰、若以衆之所同見、與衆之所同聞、則若昔者杜伯是也。周宣王殺其臣杜伯而不辜、杜伯曰、吾君殺我而不辜、若以死者為無知則止矣、若死而有知、不出三年、必使吾君知之。其三年、周宣王合諸侯而田於圃、田車數百乗、従數千、人満野。日中、杜伯乗白馬素車、朱衣冠、執朱弓、挾朱矢、追周宣王、射之車上、中心折脊、殪車中、伏弢而死。當是之時、周人従者莫不見、遠者莫不聞、著在周之春秋。為君者以教其臣、為父者以警其子、曰、戒之慎之。凡殺不辜者、其得不祥、鬼神之誅、若此之惨遫也。以若書之説観之。則鬼神之有、豈可疑哉。
非惟若書之説為然也、昔者鄭穆公、當晝日中處乎廟、有神入門而左、鳥身、素服三絕、面狀正方。鄭穆公見之、乃恐懼奔、神曰、無懼。帝享女明德、使予錫女壽十年有九、使若國家蕃昌、子孫茂、毋失。鄭穆公再拝稽首曰、敢問神名。曰、予為句芒。若以鄭穆公之所身見為儀。則鬼神之有、豈可疑哉。
非惟若書之説為然也、昔者、燕簡公殺其臣莊子儀而不辜、莊子儀曰、吾君王殺我而不辜、死人毋知亦已、死人有知、不出三年、必使吾君知之。期年、燕将馳祖、燕之有祖、當齊之社稷、宋之有桑林、楚之有雲夢也、此男女之所屬而観也。日中、燕簡公方将馳於祖塗、莊子儀荷朱杖而撃之、殪之車上。當是時、燕人従者莫不見、遠者莫不聞、著在燕之春秋。諸侯傳而語之曰凡殺不辜者、其得不祥、鬼神之誅、若此其惨遫也。以若書之説観之。則鬼神之有、豈可疑哉。
非惟若書之説為然也、昔者、宋文君鮑之時、有臣曰𥙐観辜、固嘗従事於厲、祩子杖揖出與言曰、観辜是何珪璧之不満度量。酒醴粢盛之不淨潔也。犧牲之不全肥。春秋冬夏選失時。豈女為之與。意鮑為之與。観辜曰、鮑幼弱在荷繈之中、鮑何與識焉。官臣観辜特為之。祩子挙揖而槁之、殪之壇上。當是時、宋人従者莫不見、遠者莫不聞、著在宋之春秋。諸侯傳而語之曰、諸不敬慎祭祀者、鬼神之誅、至若此其惨遫也。以若書之説観之。鬼神之有、豈可疑哉。
非惟若書之説為然也。昔者、齊莊君之臣有所謂王里國、中里徼者、此二子者、訟三年而獄不断。齊君由謙殺之恐不辜、猶謙釋之。恐失有罪、乃使之人共一羊、盟齊之神社、二子許諾。於是泏洫𠜲羊而漉其血、読王里國之辭既已終矣、読中里徼之辭未半也、羊起而觸之、折其腳、祧神之而槁之、殪之盟所。當是時、齊人従者莫不見、遠者莫不聞、著在齊之春秋。諸侯傳而語之曰、請品先不以其請者、鬼神之誅、至若此其惨遫也。以若書之説観之。鬼神之有、豈可疑哉。
是故子墨子言曰、雖有深谿博林、幽澗毋人之所、施行不可以不董、見有鬼神視之。
今執無鬼者曰、夫衆人耳目之請、豈足以断疑哉。柰何其欲為高君子於天下、而有復信衆之耳目之請哉。子墨子曰、若以衆之耳目之請、以為不足信也、不以断疑。不識若昔者三代聖王堯舜禹湯文武者、足以為法乎。故於此乎、自中人以上皆曰、若昔者三代聖王、足以為法矣。若苟昔者三代聖王足以為法、然則姑嘗上観聖王之事。昔者、武王之攻殷誅紂也、使諸侯分其祭曰、使親者受内祀、疏者受外祀。故武王必以鬼神為有、是故攻殷伐紂、使諸侯分其祭。若鬼神無有、則武王何祭分哉。
非惟武王之事為然也、故聖王其賞也必於祖、其僇也必於社。賞於祖者何也
告分之均也、僇於社者何也。告聴之中也。非惟若書之説為然也、且惟昔者虞夏、商、周三代之聖王、其始建國営都日、必擇國之正壇、置以為宗廟、必擇木之脩茂者、立以為叢位、必擇國之父兄慈孝貞良者、以為祝宗、必擇六畜之勝腯肥倅、毛以為犧牲、珪璧琮璜、稱財為度、必擇五穀之芳黄、以為酒醴粢盛。故酒醴粢盛、與歳上下也。故古聖王治天下也、故必先鬼神而後人者此也。故曰官府選効、必先祭器祭服、畢蔵於府、祝宗有司、畢立於朝、犧牲不與昔聚群。故古者聖王之為政若此。
古者聖王必以鬼神為、其務鬼神厚矣、又恐後世子孫不能知也、故書之竹帛、傳遺後世子孫、咸恐其腐蠹絕滅、後世子孫不得而記、故琢之盤盂、鏤之金石、以重之、有恐後世子孫不能敬莙以取羊、故先王之書、聖人一尺之帛、一篇之書、語數鬼神之有也、重有重之。此其故何。則聖王務之。今執無鬼者曰、鬼神者、固無有。則此反聖王之務。反聖王之務、則非所以為君子之道也。
今執無鬼者之言曰、先王之書、慎無一尺之帛、一篇之書、語數鬼神之有、重有重之、亦何書之有哉。子墨子曰、周書、大雅有之、大雅曰、文王在上、於昭于天、周雖舊邦、其命維新。有周不顯、帝命不時。文王陟降、在帝左右。穆穆文王、令問不已。若鬼神無有、則文王既死、彼豈能在帝之左右哉。此吾所以知周書之鬼也。
且周書獨鬼、而商書不鬼、則未足以為法也。然則姑嘗上観乎商書、曰、嗚呼。古者有夏、方未有禍之時、百獣貞蟲、允及飛鳥、莫不比方。矧隹人面、胡敢異心。山川鬼神、亦莫敢不寧。若能共允、隹天下之合、下土之葆。察山川鬼神之所以莫敢不寧者、以佐謀禹也。此吾所以知商書之鬼也。
且商書獨鬼、而夏書不鬼、則未足以為法也。然則姑嘗上観乎夏書禹誓曰、大戦于甘、王乃命左右六人、下聴誓于中軍、曰、有扈氏威侮五行、怠棄三正、天用剿絕其命。有曰、日中。今予與有扈氏争一日之命。且爾卿大夫庶人、予非爾田野葆士之欲也、予共行天之罰也。左不共于左、右不共于右、若不共命、御非爾馬之政、若不共命。是以賞于祖而僇于社。賞于祖者何也。言分命之均也。僇于社者何也。言聴獄之事也。故古聖王必以鬼神為賞賢而罰暴、是故賞必於祖而僇必於社。此吾所以知夏書之鬼也。故尚者夏書、其次商周之書、語數鬼神之有也、重有重之、此其故何也。則聖王務之。以若書之説観之、則鬼神之有、豈可疑哉。於古曰、吉日丁卯、周代祝社方、歳於社者考、以延年壽。若無鬼神、彼豈有所延年壽哉。
是故子墨子曰、嘗若鬼神之能賞賢如罰暴也。蓋本施之國家、施之萬民、實所以治國家利萬民之道也。若以為不然、是以吏治官府之不絜廉、男女之為無別者、鬼神見之、民之為淫暴寇乱盜賊、以兵刃毒薬水火、退無罪人乎道路、奪人車馬衣裘以自利者、有鬼神見之。是以吏治官府、不敢不絜廉、見善不敢不賞、見暴不敢不罪。民之為淫暴寇乱盜賊、以兵刃毒薬水火、退無罪人乎道路、奪車馬衣裘以自利者、由此止。是以莫放幽閒、擬乎鬼神之明顯、明有一人畏上誅罰、是以天下治。
故鬼神之明、不可為幽閒廣澤、山林深谷、鬼神之明必知之。鬼神之罰、不可為富貴衆強、勇力強武、堅甲利兵、鬼神之罰必勝之。若以為不然、昔者夏王桀、貴為天子、富有天下、上詬天侮鬼、下殃傲天下之萬民、祥上帝伐元山帝行、故於此乎、天乃使湯至明罰焉。湯以車九両、鳥陳鴈行、湯乗大賛、犯遂夏衆、入之郊逐、王乎禽推哆大戲。故昔夏王桀、貴為天子、富有天下、有勇力之人推哆大戲、生列兕虎、指畫殺人、人民之衆兆億、侯盈厥澤陵、然不能以此圉鬼神之誅。此吾所謂鬼神之罰、不可為富貴衆強、勇力強武、堅甲利兵者、此也。
且不惟此為然。昔者殷王紂、貴為天子、富有天下、上詬天侮鬼、下殃傲天下之萬民、播棄黎老、賊誅孩子、楚毒無罪、刲剔孕婦、庶舊鰥寡、號咷無告也。故於此乎、天乃使武王至明罰焉。武王以擇車百両、虎賁之卒四百人、先庶國節窺戎、與殷人戦乎牧之野、王乎禽費中、悪来、衆畔百走。武王逐奔入宮、萬年梓株折紂而繫之赤環、載之白旗、以為天下諸侯僇。故昔者殷王紂、貴為天子、富有天下、有勇力之人費中、悪来、崇侯虎指寡殺人、人民之衆兆億、侯盈厥澤陵、然不能以此圉鬼神之誅。此吾所謂鬼神之罰、不可為富貴衆強、勇力強武、堅甲利兵者、此也。且禽艾之道之曰、得璣無小、滅宗無大。則此言鬼神之所賞、無小必賞之、鬼神之所罰、無大必罰之。
今執無鬼者曰、意不忠親之利、而害為孝子乎。子墨子曰、古之今之為鬼、非他也、有天鬼、亦有山水鬼神者、亦有人死而為鬼者。今有子先其父死、弟先其兄死者矣、意雖使然、然而天下之陳物曰先生者先死、若是、則先死者非父則毋、非兄而姒也。今絜為酒醴粢盛、以敬慎祭祀、若使鬼神請有、是得其父母姒兄而飲食之也、豈非厚利哉。若使鬼神請亡、是乃費其所為酒醴粢盛之財耳。自夫費之、非特注之汙壑而棄之也、内者宗族、外者郷里、皆得如具飲食之。雖使鬼神請亡、此猶可以合驩聚衆、取親於郷里。今執無鬼者言曰、鬼神者固請無有、是以不共其酒醴粢盛犧牲之財。吾非乃今愛其酒醴粢盛犧牲之財乎。其所得者臣将何哉。此上逆聖王之書、内逆民人孝子之行、而為上士於天下、此非所以為上士之道也。是故子墨子曰、今吾為祭祀也、非直注之汙壑而棄之也、上以交鬼之福、下以合驩聚衆、取親乎郷里。若神有、則是得吾父母弟兄而食之也。則此豈非天下利事也哉。
是故子墨子曰、今天下之王公大人士君子、中實将欲求興天下之利、除天下之害、當若鬼神之有也、将不可不尊明也、聖王之道也。

字典を使用するときに注意すべき文字
女、同汝 なんじ、の意あり。
與、又施予也。又許也。 あずかる、かかわる、の意あり。
考、成也。猶終也。 なる、おわり、の意あり。
歳、進也。遂也。 すすむ、おえる、の意あり。

《明鬼下》:読み下し
子墨子の言いて曰く、昔の三代の聖王は既に沒(ぼつ)するに至るに逮(およ)び、天下は義を失い、諸侯は力正す、是を以って夫(そ)の人の君臣(くんしん)上下(じょうげ)為(た)る者は惠忠(けいちゅう)ならざる、父子弟兄は慈孝(じこう)弟長(ていちょう)貞良(ていりょう)ならざる、正長は治を聴くに強(つと)めざる、賤人は事に従うに強(つと)めざる、民の淫暴(いんぼう)寇乱(こうらん)盜賊(とうぞく)と為(な)るは在(ぞん)し、兵刃毒薬水火を以って、無罪の人を道路(どうろ)率径(りつけい)に退(の)き、人の車馬(しゃば)衣裘(いきゅう)を奪いて以って自らの利する者は並びて作(な)すこと、此れ由り始り、是を以って天下は乱る。此れ其の故は何を以って然るや。則ち皆、鬼神は有りと之は無きとの別(べつ)に疑惑し、鬼神は能く賢を賞し而(ま)た暴を罰するに明らかならざるを以ってなり。今、若し天下の人をして、偕(とも)に若し鬼神の能く賢を賞し而た暴を罰するを信ぜ使(し)むれば、則ち夫れ天下は豈(あ)に乱れむや。
今、鬼は無しを執る者の曰く、鬼神は、固(もと)より有るは無し。旦暮(たんぼ)、天下に教誨(きょうかい)を為すを以って、天下の衆(しゅう)を疑(うたが)はせ、天下の衆(しゅう)をして皆に鬼神の有無の別(べつ)を疑惑せ使(し)め、是を以って天下は乱る。是の故に子墨子の曰く、今、天下の王公大人士の君子は、實(まこと)に将に天下の利を興し、天下の害を除かむことを求めむと欲すば、故に當に鬼神の有りと無しの別は、以為(おもふ)に将に此れを明察せざる可からざるものなり。既に鬼神の有無の別を以って、以って察(さっ)せざる可からずと為すのみ。然らば則ち吾は此れを明察するを為すに、其を説き将に柰何(いか)にすれば而して可(か)なるか。子墨子の曰く、是の天下に有りと無しとを察知する所以(ゆえん)の道は、必ず衆(しゅう)の耳目の實(じつ)に有りと亡きとを知るを以って儀(ぎ)と為すものなり。請(まこと)に之を聞き之を見るに惑(まよ)はば、則ち必ず以って有りと為し、聞くこと莫(な)く見ること莫(な)くば、則ち必ず以って無しと為す。是の若(ごと)し、何ぞ嘗(こころ)みに一郷(ごう)一里(り)に入り而して之を問はざらむ。古(いにしへ)自り以って今に及ぶまで、民を生じて以来(いらい)、亦た嘗(こころ)みに鬼神の物を見、鬼神の聲を聞くこと有らば、則ち鬼神は何ぞ無しと謂うべけむや。若(も)し聞くこと莫(な)し見ること莫(な)ければ、則ち鬼神は有りと謂うべけむや。
今、鬼は無しを執る者の言いて曰く、夫れ天下に鬼神の物を聞見するを為す者は、勝(あ)げて計(かぞ)ふ可からず、亦た孰(たれ)か鬼神の物の有無を聞見するを為すや。子墨子の言いて曰く、若(も)し衆(しゅう)の同じく見る所と、衆の同じく聞く所とを以ってすれば、則ち昔の杜伯の若(ごと)きは是なり。周宣王は其の臣杜伯を殺して而して辜(つみ)あらず。杜伯は曰く、吾(わ)が君が我を殺し而して辜(つみ)あらずも、若(も)し死者を以って知る無しと為さば則ち止む、若し死して而して知ること有らば、三年を出(い)でずして、必ず吾が君をして之を知ら使(し)めむ。其の三年、周宣王は諸侯と合(ごう)して而して圃(ほ)に田(かり)す。田車は數百乗、従(と)は數千、人は野に満つ。日中して、杜伯は白馬素車に乗り、朱の衣冠、朱の弓を執り、朱の矢を挾み、周宣王を追ひ、之を車上に射る。心(むね)に中り脊(せき)を折り、車中に殪(たお)れ、弢(ゆぶくろ)に伏せ而して死ぬ。當(まさ)に是の時、周人の従ふ者は見ざるは莫(な)く、遠き者は聞かざるは莫(な)く、著(あらわ)して周の春秋に在る。君(くん)為(た)る者は以って其の臣を教え、父(ふ)為(た)る者は以って其の子を警(いまし)めて、曰く、之を戒(いまし)め之を慎(つつし)め。凡そ辜(つみ)ならずを殺す者は、其の不祥(ふしょう)を得、鬼神は之を誅(ちゅう)す。此れ之の惨遫(さんそく)するが若(ごと)きなり。若(かくのごと)き書の説くを以って之を観れば、則ち鬼神が有ること、豈に疑ふ可けむや。
惟(ただ)若(かくのごと)き書の説くを然りと為すに非ずなり、昔の鄭穆公は、當に晝(ひる)に日中(にちちゅう)して廟に處(お)り、神有りて門に入り而して左す。鳥身(ちょうしん)、素服(そふく)は三絶にして、面狀(めんじょう)は正方(せいほう)なり。鄭穆公は之を見、乃ち恐懼(きょうく)して奔(はし)る、神の曰く、懼(おそ)るること無かれ。帝は女(なんじ)の明德を享(う)け、予をして女(なんじ)に壽(よわひ)十年有九を錫(たま)は使(し)め、若(なんじ)の國家をして蕃昌(はんしょう)し、子孫をして茂(さかん)にし、失ふこと毋(な)から使(し)む。鄭穆公は再拝(さいはい)稽首(けいしゅ)して曰く、敢て神名を問う。曰く、予は句芒(こうぼう)為(な)り。若(も)し鄭穆公の身見(しんけん)する所を以って儀と為せば、則ち鬼神が有ること、豈に疑ふ可けむや。
惟(ただ)若(かくのごと)き書の説くを然りと為すに非ざるなり、昔の燕簡公は其の臣莊子儀を殺し而して辜(つみ)あらず。莊子儀の曰く、吾が君王が我を殺して而して辜(つみ)あらずば、死人の知ること毋(な)くば亦た已(や)む、死人の知ること有らば、三年を出でずして、必ず吾が君をして之を知ら使(し)め。期(き)年(ねん)にして、燕は将に祖(そ)に馳(は)せむとし、燕の祖(そ)有るは、當(まさ)に齊の社稷(しゃしょく)にして、宋に桑林(そうりん)は有り、楚に雲夢(うんもう)は有るなり、此れ男女は屬(あつま)って而して観る所なり。日中(にっちゅう)にして、燕の簡公は方(まこと)に将に祖塗(そと)に馳せむとし、莊子儀は朱杖(しゅじょう)を荷(か)し而して之を撃ち、之を車上に殪(たお)す。當に是の時、燕人の従ふ者に見ざるは莫く、遠き者に聞ざるは莫く、著(あらは)して燕の春秋に在る。諸侯は傳へて而して之を語りて曰く、凡そ辜(つみ)あらずを殺す者は、其の不祥を得、鬼神は之を誅す。此れ其の惨遫(さんそく)するが若(ごと)きなり。若(かくのごと)き書の説くを以って之を観れば、則ち鬼神が有ること、豈に疑ふ可けむや。
惟(ただ)若(かくのごと)き書の説くのみ然りと為すに非ずなり、昔の宋文君鮑の時、臣有りて曰く𥙐(しゅく)観辜(かんこう)という。固(もと)より嘗(か)って厲に従事せり、祩子は杖揖(じょうい)して出でて與(とも)に言いて曰く、観辜(かんこ)、是は何ぞ珪璧(けいへき)の度量(どりょう)に満さざる。酒醴(しゅれい)粢盛(しせい)は淨潔ならざるなり。犧牲は全く肥(ひ)ならざる。春秋(しゅんじゅう)冬夏(とうか)、選は時を失ふ。豈に女(なんじ)は之を為せるか。意ふに鮑(ほう)は之を為せるか。観辜(かんこう)の曰く、鮑(ほう)は幼弱にして荷繈(かきょう)の中に在り、鮑(ほう)は何ぞ與(あづか)り識らむや。官臣、観辜は特(こと)に之を為せりと。祩子は揖(い)を挙げ而して之を槁(たた)き、之を壇上に殪(たお)す。當に是の時、宋人の従ふ者に見ざる莫く、遠き者に聞かざる莫し、著して宋の春秋に在る。諸侯は傳へて而して之を語りて曰く、諸(もろもろ)の祭祀を敬慎(けいしん)せざる者、鬼神は之を誅す。此の若(ごと)き其は惨遫(さんそく)に至るなり。若(かくのごと)き書の説くを以って之を観れば、鬼神が有ること、豈に疑ふ可けむや。
惟(ただ)若(かくのごと)き書の説くのみ然りと為すに非ずなり。昔、齊莊君の臣に、所謂(いわゆる)、王里國、中里徼なる者有り。此の二子は、訟ふること三年而して獄(ごく)断(だん)せず。齊君は謙(かね)て之を殺さむと由(ほつ)すれど辜(つみ)あらずを恐れ、猶(なお)謙て之を釋(ゆる)さむとす。罪有りを失うを恐れ、乃ち使之の人をして一羊を共(そな)へて、齊の神社に盟(めい)を使(し)む、二子は許諾(きょだく)す。是に於いて洫(きょく)を泏(ほ)り羊を𠜲(き)りて而して其の血を漉(そそ)ぎ、王里國の辭を読み既已(すで)に終る、中里徼の辭を読み未だ半(なかば)ならずに、羊は起ちて而して之に觸れ、其の腳を折り、神は祧(ちょう)して而して之を槁(こう)して、之を盟所に殪(たお)す。當に是の時、齊人の従ふ者に見ざるは莫(な)く、遠き者に聞かざる莫(な)く、著(あらは)して齊の春秋に在る。諸侯は傳へて而して之を語りて曰く、品を請(こ)ひて先ず其の請(まこと)を以ってせざる者は、鬼神は之を誅す。此の若(ごと)き其は惨遫(さんそく)に至るなり。若(かくのごと)き書の説くを以って之を観れば、鬼神が有ること、豈(あ)に疑ふ可けむや。是の故に子墨子は言いて曰く、深谿(しんけい)博林(はくりん)幽澗(ゆうかん)に人は毋(な)き所有りと雖(いへど)も、施行(しこう)は以って董(ただ)さざる可からず、見(けん)に鬼神は有りて之を視(み)む。
今、鬼は無しを執る者の曰く、夫れ衆人(しゅうじん)の耳目の請(じょう)は、豈に以って疑を断ずるに足るや。柰何(いかに)其の天下に高君子為(な)らむと欲し、而して復(ま)た衆(しゅう)の耳目の請(じょう)を信じるもの有らむや。子墨子の曰く、若し衆の耳目の請を以って、以って信ずるに足らずと為し、以って疑を断ぜざらむ。識らず、昔の三代の聖王堯舜禹湯文武の若(ごと)き者は、以って法(のり)を為すに足るか。故に此に於いて、中人(ちゅうじん)自り以って上は皆曰く、昔の三代の聖王の若(ごと)きは、以って法(のり)を為すに足る。若し苟も昔の三代の聖王を以って法を為すに足らば、然らば則ち姑(しばらく)く嘗(こころ)みに上は聖王の事を観む。
昔、武王の殷を攻め紂を誅するや、諸侯をして其の祭(まつり)を分(わか)た使(し)めむ曰に、親しき者をして内祀を受け、疏(うと)き者をして外祀を受け使(し)めむ。故に武王は必ず鬼神を以って有りと為す。是の故に殷を攻め紂を伐し、諸侯をして其の祭を分(わか)た使(し)む。若し鬼神の有ること無くば、則ち武王は何の祭(まつり)を分(わか)たむや。惟(ただ)武王の事のみ然りと為すに非ざるなり、故に聖王の其の賞(しょう)するや必ず祖(そ)に於いてし、其の僇(りく)するや必ず社(やしろ)に於いてす。賞すること祖(そ)に於いてするは何ぞや。分の均(ひと)しきを告ぐるなり、僇(りく)すること社(やしろ)に於いてするは何ぞや。聴(ちょう)の中(あた)るを告ぐるなり。
惟(ただ)若(かくのごと)き書の説くのみ然りと為すに非らざるなり、且(すで)に昔の虞夏、商、周三代の聖王と惟(いへど)も、其の始めて國を建て都を営むの日に、必ず國の正壇(せいだん)を擇(えら)び、置きて以って宗廟(そうびょう)と為し、必ず木の脩茂(しゅうも)なるものを擇び、立てて以って叢位(そうい)と為し、必ず國の父兄の慈孝(じこう)貞良(ていりょう)なる者を擇び、以って祝宗(しゅくそう)と為し、必ず六畜(ろくちく)の勝(すぐ)れて腯肥(とつひ)倅毛(すえもう)なるを擇び、以って犧牲(ぎせい)と為し、珪璧(けいへき)琮璜(そうこう)は、財を稱(はか)り度(ど)を為(おさ)め、必ず五穀の芳黄(ほうこう)なるを擇び、以って酒醴(しゅれい)粢盛(しそう)を為す。故に酒醴(しゅせい)粢盛(しせい)は、歳を上下す。故に古(いにしへ)の聖王は天下を治め、故に必ず鬼神を先にして而して人を後にすとは此れなり。故に曰く官府の選効(せんこう)は、必ず祭器祭服を先にして、畢(ことごと)く府に蔵し、祝宗(しゅうそう)有司(ゆうし)は、畢(ことごと)く朝(ちょう)に立ち、犧牲(ぎせい)は昔(せき)と聚群(しゅうぐん)せず。故に古(いにしへ)の聖王の政(まつりごと)を為すや此の若(ごと)し。古(いにしへ)の聖王は必ず鬼神を以って其の務(つとめ)と為し鬼神に厚し、又た後世の子孫の知ること能はざるを恐れ、故に之を竹帛(ちくふ)に書き、後世の子孫に傳遺(でんい)し、咸(ある)は其の腐蠹(ふと)は絶滅(ぜつめつ)し、後世の子孫の得て而して記せざるを恐る。故に之を盤盂(ばんう)に琢(たく)し、之を金石に鏤(ろう)して、以って之を重ねむ。有(あ)るは後世の子孫の、莙(のろしか)を敬(つつ)しみ以って羊(さいわい)を取ること能はざるを恐る。故に先王の書、聖人の一尺の帛(はく)、一篇の書、語(かた)るは鬼神の有るを數(あまた)とし、重ねて有りて之を重ねむ。此れ其の故は何ぞ。則ち聖王は之を務(つと)む。今、鬼は無しを執る者の曰く、鬼神は固(もと)より有るは無し。則ち此れ聖王の務(つとめ)に反す。聖王の務(つとめ)に反するは、則ち君子為(た)る所以(ゆえん)の道に非ざるなり。
今、鬼は無しを執る者の言いて曰く、先王の書、慎無(しんむ)一尺の帛(はく)、一篇の書、語って鬼神之れ有るを數(あまた)とし、重ねて有りて之を重ねるとは、亦た何れの書に之は有りや。子墨子の曰く、周書の大雅に之は有り。大雅に曰く、文王の上(かみ)に在りしに、天、昭(あらは)る、周は舊邦(きゅうほう)と雖(いへど)も、其の命(めい)は維(こ)れ新(あら)たなり。有りて周は顯(あらは)れざらむや、帝命(ていめい)の時(よ)からざらむや。文王は陟降(ちょくこう)して、帝(てい)の左右に在り。穆穆(ぼくぼく)たる文王、令問(れいもん)は已(や)まず。若(も)し鬼神の有ること無くは、則ち文王は既に死し、彼(か)は豈に能く帝の左右に在らむや。此れ吾の周書の鬼を知る所以(ゆえん)なり。
且(ま)た周書にのみ獨り鬼ありて、而して商書に鬼あらずんば、則ち未だ以って法(のり)と為すに足らざるなり。然らば則ち姑(しばら)く嘗(こころ)みに上を商書に観む。曰く、嗚呼(ああ)。古(いにしへ)に夏有り、未だ禍(わざわい)の有らざる時に方(あた)り、百獣(ひゃくじゅう)貞蟲(ていちゅう)、允(も)って飛鳥に及ぶまで、比方せざるは莫し。矧(いはむ)や隹(こ)れ人面、胡(なむ)ぞ敢て心を異(こと)にせむや。山川の鬼神、亦た敢て寧(やす)からざるは莫(し)し。若(も)し能く共允(きょういむ)ならば、隹(こ)れ天下を之に合せ、下土(かど)を之に葆(たも)つ。山川の鬼神の敢て寧(やす)からざるは莫(な)き所以(ゆえん)のものを察するに、佐(たす)けて禹の謀るを以(な)すなり。此れ吾の商書の鬼を知る所以(ゆえん)なり。
且(ま)た商書にのみ獨り鬼ありて、而して夏書に鬼あらずんば、則ち未だ以って法(のり)と為すに足らざるなり。然らば則ち姑(しばら)く嘗(こころ)みに上に夏書を観む。禹は誓(せい)に曰く、大いに甘(かん)と戦う、王は乃(すなは)ち左右六人に命じて、下りて誓(せい)を中軍に聴かせ、曰く、有扈(ゆうこ)氏(し)は五行を威侮(べつぶ)し、三正を怠棄(だき)し、天を用(もつ)て其の命を剿絶(そうぜっ)す。有りて曰く、日中。今、予(よ)は有扈(ゆうこ)氏(し)と一日の命を争う。且(まさ)に爾(なんじ)ら卿大夫庶人、予(よ)は爾(なんじ)の田野(でんや)葆士(ほうど)の之を欲するに非ざるなり、予(よ)は共に天の罰を行うなり。左は左を共にせず、右は右を共にせずは、命(めい)を共(とも)にせずが若(ごと)き。御(ぎょ)するは爾(なんじ)の馬の之を政(ただ)すに非(あら)ずは、命(めい)を共(とも)にせずが若(ごと)き。是を以って祖に賞(しょう)し而して社に僇(りく)せむ。祖に賞(しょう)するは何ぞや。命(めい)を分つの均(ひと)しきを言うなり。社に僇(りく)するは何ぞや。獄の事を聴くを言うなり。故に古(いにしへ)の聖王は必ず鬼神を以って賢を賞し而して暴を罰すと為し、是の故に賞(しょう)は必ず祖に於いてし、而して僇(りく)は必ず社に於いてす。此れ吾の夏書に鬼を知る所以(ゆえん)なり。故に尚(かみ)は夏書、其の次は商周の書、數(あまた)た鬼神の之の有りを語り、有るを重ね之を重ねむ。此れ其の故は何ぞや、則ち聖王の之を務(つと)むればなり。若(かくのごと)き書の説を以って之を観れば、則ち鬼神の有ること、豈に疑ふ可けむや。古に於いて曰く、吉日丁卯(ていぼう)、周代の祝(はふり)の社方(しゃほう)は、社に於いて考(おわり)を歳(すす)め、以って年壽(ねんじゅ)は延ぶ。若(も)し鬼神の無くば、彼(か)は豈に年壽(ねんじゅ)を延す所は有らむや。
是の故に子墨子の曰く、嘗(かつ)て若(かくのごと)き鬼神の能く賢を賞(しょう)しして暴を罰するなり。蓋(けだ)し本(もと)の之を國家に施(ほどこ)し、之を萬民に施して、實(まこと)に國家を治め萬民に利する所以(ゆえん)は之の道なり。若(も)し以って然(しか)らずと為(な)さば、是を以って吏治(しち)官府(かんふ)は絜廉(けつれん)ならず、男女の別(べつ)無(な)しと為すもの、鬼神は之を見。民は淫暴(いんぼう)寇乱(こうらん)盜賊(とうぞく)を為し、兵刃毒薬水火を以って、罪無しの人を道路に退(とど)め、人の車馬(しゃば)衣裘(いきゅう)を奪うを以って自らの利とする者は、鬼神は之を見ること有り。是を以って吏治官府の、敢(あ)へて絜廉(けつれん)ならずはあらず、善(ぜん)を見て敢へて賞(しょう)せずはあらず、暴(ぼう)を見て敢へて罪(つみ)せずはあらず。民の淫暴寇乱盜賊を為し、兵刃毒薬水火を以って、罪無しの人を道路に退(とど)め、車馬(しゃば)衣裘(いきゅう)を奪い以って自らの利とする者は、此れに由りて止む。是を以って幽閒(ゆうかん)に放つは莫(な)く、鬼神の明顯(めいけん)に擬(なぞら)へ、明は一人に有りて上(かみ)の誅(ちゅう)罰(ばつ)を畏れ、是を以って天下は治まる。故に鬼神の明は、幽閒(ゆうかん)廣澤(こうたく)山林(さんりん)深谷(しんこく)を為す可からず、鬼神の明は必ず之を知る。鬼神の罰は、富貴(ふうき)衆強(しゅうきょう)、勇力(ゆうりょく)強武(きょうぶ)、堅甲(けんこう)利兵(りへい)を為す可からず、鬼神の罰は必ず之に勝(まさ)る。若し以って然らずと為さば、昔の夏の王桀は、貴(とうと)く天子と為(な)り、富は天下に有る、上は天を詬(そし)り鬼を侮(あなど)り、下は天下の萬民を殃傲(おうさつ)す。上帝の元山に帝の行を伐(う)つ祥(きざし)があり、故に此に於いて、天は乃ち湯をして明罰を至(いた)さ使(し)むる。湯は車九両を以って、鳥陳(ていじん)鴈行(がんこう)し、湯は大賛(たいさん)に乗(のぼ)り、夏の衆を犯遂(はんちく)し、之は郊逐(こうすい)に入り、王は推哆(すいし)大戲(たいぎ)を乎禽(とりこ)とす。故に昔の夏の王桀は、貴(とうと)く天子と為(な)り、富は天下に有り、勇力の人に推哆(すいし)大戲(たいぎ)は有り、生けながら兕虎(じこ)を列(さ)き、指畫(しくわく)して人を殺し、人民の衆(おお)きこと兆億、侯(こ)れ厥(そ)の澤陵(たくりょう)に盈(み)つも、然れども此を以って鬼神の誅を圉(ふせ)ぐこと能はず。此の吾の所謂(いわゆる)、鬼神の罰にして、富貴(ふうき)衆強(しゅうきょう)、勇力(ゆうりょく)強武(きょうぶ)、堅甲(けんこう)利兵(りへい)を為す可からずとは、此なり。
且(ま)た惟(ただ)此のみ然りと為さず。昔の殷王紂、貴く天子と為り、富は天下に有り、上には天を詬(そし)り鬼を侮(あなど)り、下には天下の萬民を殃傲(おうさつ)し、黎老(りろう)を播棄(はき)し、孩子(がいし)を賊誅(ぞくちゅう)し、無罪を楚毒(そどく)し、孕婦(ようふ)を刲剔(こてき)し、庶舊(しょきゅう)鰥寡(くわんくわ)は、號咷(ごうとう)すも告ぐるは無し。故に此に於いて、天は乃ち武王をして明罰を至(いた)さ使(し)む。武王は以って車百両、虎賁(こうほん)の卒四百人を擇(えら)び、庶國(しょこく)節(せつ)に先だちて戎(じゅう)を窺(うかが)ひ、殷の人と牧野に戦う、王は費中(ひちゅう)、悪来(あくらい)を乎禽(とりこ)とし、衆は畔(そむ)き百走す。武王は奔(はし)るを逐(おい)ひて宮に入り、萬年(まんねん)梓株(ししゅ)にて紂を折(う)ちて而して之を赤環(せきかん)に繋ぎ、之を白旗に載せ、以って天下諸侯の僇(りく)と為す。
故に昔の殷王紂、貴く天子と為り、富は天下に有り、勇力の人の費中(ひちゅう)、悪来(あくらい)、崇侯虎(すうこうこ)は有りて指寡(しかん)して人を殺し、人民の衆(おお)きこと兆億、侯(こ)れ厥(そ)の澤陵(たくりょう)に盈(み)つも、然れども此を以って鬼神の誅(ちゅう)を圉(ふせ)ぐこと能はず。此の吾の所謂(いわゆる)、鬼神の罰にして、富貴(ふうき)衆強(しゅうきょう)、勇力(ゆうりょく)強武(きょうぶ)、堅甲(けんこう)利兵(りへい)を為す可からずとは、此なり。
且(ま)た禽艾(きんがい)に之を之の道と曰い、璣(き)を得るも小とすること無かれ、宗を滅(ほろぼ)すも大とすること無かれ。則ち此の鬼神の賞(しょう)する所は、小と無く必ず之を賞し、鬼神の罰(ばっ)する所は、大と無く必ず之を罰(ばっ)すと言う。
今、鬼は無しを執る者の曰く、意(おも)ふに親の利に忠ならず、而して孝子と為(な)るに害せむか。子墨子の曰く、古(いにしえ)の今(いま)の鬼(き)と為り、他に非ず、天に鬼有り、亦た山水の鬼神(きしん)なるもの有り、亦た人の死して而して鬼(き)と為るもの有り。今、子が其の父に先だちて死し、弟が其の兄に先だちて死する者有り、意(おも)ふに然ら使(し)むと雖(いへど)も、然れども而して天下の陳物に曰く先に生(うま)るる者は先に死すと、是の若(ごと)くは、則ち先に死する者は父にあらずば則ち母、兄に非ずは而して姒(じ)なり。今、酒醴(しゅれい)粢盛(しせ)を為(な)すことを絜(やく)し、以って祭祀を敬慎(けいしん)す。若(も)し鬼神をして請(まこと)に有(あ)ら使(し)むれば、是は其の父母(ふぼ)姒兄(じけい)を得て而して之に飲食せしむるなり、豈に厚利に非ずや。若し鬼神をして請に亡き使むれば、是は乃ち其の酒醴(しゅれい)粢盛(しせい)の財の為す所を費(ついや)すのみ。自ら夫(そ)の之を費(ついや)すは、特(こと)に之を汙壑(おがく)に注(そそ)ぎて而(しかる)に之を棄(す)つるに非ずなり、内には宗族を、外には郷里を、皆得て具(とも)に之を飲食するが如(しかり)なり。鬼神をして請(じょう)に亡(な)からしむと雖(いへど)も、此の猶(なお)以って驩(かん)を合せ衆(しゅう)を聚(あつ)め、親(したしみ)を郷里に取る可し。
今、鬼は無しを執る者の言いて曰く、鬼神は固(もと)より請(じょう)に有ること無し、是を以って其の酒醴(しゅれい)粢盛(しそう)犧牲(ぎせい)の財を共(きょう)せず。吾は乃ち、今、其の酒醴(しゅれい)粢盛(しせい)犧牲(ぎせい)の財を愛(おし)しむに非ず。其の得る所のものは臣(し)に将に何ぞや。此の上(かみ)には聖王の書に逆ひ、内には民人(みんじん)孝子(こうこ)の行(こう)に逆ふ。而(しかる)に天下の上士為(た)らむとするも、此れを以って上士為(た)らむ所の道に非ずなり。是の故に子墨子の曰く、今、吾が祭祀を為すや、直(ただ)、之を汙壑(おがく)に注(そそ)ぎ而(しかる)に之を棄(す)つるに非ず、上には以って鬼の福(さいはい)に交じり、下には以って驩(かん)を合せ衆を聚(あつ)め、親(したしみ)を郷里に取るなり。若し神有らば、則ち是に吾は父母弟兄を得て而して之を食(く)はせるなり。則ち此れ豈(あ)に天下の利事に非ずや。
是の故に子墨子の曰く、今、天下の王公大人士君子の、實(まこと)に将に天下の利を興(おこ)すに中(あた)たり、天下の害を除くを求めむと欲せば、當(まさ)に鬼神の有るが若(ごと)きにし、将に尊明(そんめい)せざる可からずなり、聖王の道なればなり。

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