工場と私
私は大学で、機械工学を学び、最初に入った会社は工作機械メーカーだった。
大学で教授に「ここ、どう?」みたいな感じで勧められて、大した興味も無かったが、他に行くところも無かったので入社を決めたのだ。
その会社は、マシニングセンターやら、レーザー加工機というのを作っていて、最初は設計として、研修していたのだが、どういう訳か、使いもんにならんと判断されたのか、途中で営業技術という部署に配属になり、レーザー加工機のテストカットや、顧客への操作指導などを担当するようになった。
レーザー加工機とは、簡単にいうと、真空に近いガラス管のなかをレーザーガスという特殊なブレンドをされたガスを高速で循環させ、電圧を掛けると、目に見えないレーザー光線が発生して、その光を特殊な鏡で反射させ、これまた特殊なレンズで集光する事で、鉄を一瞬で溶かすくらいのエネルギーを発生させて、アシストガスと呼ばれるガス(酸素やら窒素やらエアーやら、いろいろ)で溶けた加工物を吹き飛ばしながら切断して行くものである。
こう書くとなんかとても難しい感じだが、簡単にいうと、太陽の光を虫眼鏡で集めて、黒い紙を燃やすのと、原理は同じだ。
そのレーザー加工機で、顧客が、こんな物切れませんか?とか、どのくらいの厚さまで切れますか?などの依頼を受けて、色々条件を変えながらトライしてみたり、納入されたレーザー加工機を現地で調整してきちんと使用できるようにしたり、現地でオペレーターとなる人に操作方法を指導したり、というようなことを仕事としていた。
最初に入った会社は一年経たずに潰れてしまった。
そこで、その会社の親会社が新潟にあり、そこに編入するか、退職金をもらって地元で再就職するか、選択を迫られたのだが、私は、能天気に「一回県外へ行くのも良いかな?」くらいの気持ちで、地元の福井から唯一新潟へ転勤を決めたのだ。一緒に働いていた先輩や上司は元々新潟から出向で来ていた人達だったので、地元へ帰るようなものだった。
私は、新潟で独身寮に入り、レーザーの仕事を続けた。
仕事は、まあまあ忙しく、日本各地へ日々出張して、操作指導したり、トラブル対応をしたりしていた。
時には香港に納入されたレーザー加工機の調整と操作指導で10日くらい香港に出張になったりもした。
日々色々な人に会い、色々な所へ行った。
それなりにやりがいはあったし、良い経験になったと思う。
しばらくすると、だんだん日本の景気が悪くなっていき、仕事の内容も、新しいレーザーの導入に関するものは減り、これまで売ったレーザーのメンテナンス業務が主体になっていき、担当の営業とも折り合いが悪く、仕事自体がつまらなく感じられるようになって来た。
親会社本体の経営も、下降線をたどり、いよいよ分社化して、それぞれの部門を他の会社に売却するという流れになっていった。
仕事がつまらなく、嫌になっていた私は、もう地元へ戻ろうと考え、退職した。
親会社は、その
直後に無くなり、いわゆる倒産状態になった。
今思えば、そのまま仕事を続けて、別会社の社員となってレーザー加工機部門で働くという選択肢もあったのだが、その時の私の気持ちは、もうそこになかったので、全く後悔は無い。
地元に帰った私は、実家から通える距離の工場に就職した。
その会社は船の中でも使われるポンプを製造していた。
私はNC旋盤という機械につかまり、部品を加工する部署に配属になり、くる日も来る日もポンプの部品を作り続けた。
新潟での仕事と違い、毎日が変化なく単調に流れて行き、ひたすら同じような部品を作り続けるのに
ほとほと飽きてしまった私は、1年も経たないうちに、再び退職した。
今思えば、仕事に楽なものなどなく、どんな仕事をしていてもつまらないと思う事は出てくるものなのだが、若く未熟だった私は、一旦嫌気がさすと、すぐにそこから去って、全く新しい事を始めたくなってしまう性分だった。
ポンプの会社を辞めて、直後に、私は結婚した。
無職で結婚したのだ。
あの当時は、本当にいい加減に生きていて、後先の事も考えず、怖いもの知らずだったと思う。
確か、4月に結婚して、8月まで何もせず、ぷらぷらしていた。
やっと次に就職したのは、新潟に本社があるホームセンターの物流倉庫だった。
この時初めて、私は製造業から離れ、職種を全く違う物流に変更した。
製造の仕事は、嫌いでは無かったのだが、それにこだわると、再就職する時に、勤務地が限られてくるのと、好景気、不景気の影響をもろに受けてしまうというのを感じていた。
時代は急激に変化していて、日本で造る物があまり売れなくなっていき、身の回りのものはほとんど中国製というのが顕著になっていったのもこの頃だと思う。
2度目の就職先の会社に、頑張って勤め続けるのも良かったかもしれないが、当時の私は、毎日機械の前に立って、ほぼほぼ同じような部品を作り続けるのに飽きてしまっていたのだ。
そして、ホームセンターの物流倉庫に就職したのだが、その会社を選んだのも、本社が新潟にあり、馴染みがあったというのも理由のひとつだった。
なんだかんだ、新潟には2年半くらいいたので、私はすっかり新潟が好きになっていたのだ。
私は、福井にある物流センターに入社した。
そこでは、センターが担当する富山、石川、福井、岐阜などの店舗に商品を日々配送する業務をしていた。
私は、DCという、商品を一旦在庫して、店舗から発注が来たら各店舗に仕分けて発送するという役割の部署に配属された。
連日入荷する、長靴や、木炭、ペットフード、灯籠やレンガなど、様々な商品を棚入れし、発注がかかった商品をピッキングといって、数どおり集め、カゴ車に乗せて店舗におくりつづけた。
仕事にも慣れて、同僚とも仲良く働いていて、何ら不満はなかった。
そんな日々が続いたが、新潟から嫁に来てくれた妻が、何とか馴染もうと努力してくれたのだが、やはり、福井にはなかなか馴染めず、孤独を深めていた。
私が仕事からアパートへ帰ると、真っ暗な部屋で毛布をかぶって寝ている妻を見る度に、私は罪悪感に襲われて、妻を抱きしめるのだった。
私はそんな妻を何とかしたいと、会社に希望を出して、新潟本社に転属する事を決意した。
新潟本社は妻の実家からかなり離れていたのだが、それでも同じ県内なら、すぐに実家へ帰る事もできるし、人に馴染めないという事も無いだろうという目算で、私は故郷を捨てて再び新潟に戻った。
今は故人となった父の事も心配だったが、私は妻の事を第一に考え、根っからの楽天的な性格も手伝って、大した躊躇いもなく新潟のアパートに引っ越した。
その後約2年半ほど物流倉庫で働いたのだが、本社の仕事量は福井支社の比ではなく、恐ろしい物量の荷物を日々荷受けして、出荷するのをひたすら繰り返した。そのうち私は、肉体的、精神的に、「もう無理だ。このままだと身体が壊れてしまう」と限界を感じ、またしても退職願いを書くことになった。
その会社を辞める前に私は、しばらく次はなにをしようか考えていたが、元々自分は製造業で働いていたのだし、やはり、物作りがしたいと思い、しばらくブランクがあったので、職業訓練校でもう一度基礎からやり直して、製造業に再就職したいと考えた。
そして私は、失業しながら、お金を貰いながら訓練校に通うことにした。
お金をもらいながらと言っても、大した額が貰える訳ではなく、ギリギリ生活ができるかどうかという感じだったが、私は躊躇いもなく半年間職業訓練校に通い、CADの資格を取って卒業した。
そして私は、再び製造業に再就職した。
今度は新潟市から少し離れた町にある、製作所であった。
そこで、私は最初、レーザー加工機とタレパン(タレットパンチプレス)という、金型で鉄板をさまざまな形に加工する機械のオペレーターとして働いた。
久しぶりの製造で、仕事は楽ではなかったが、やりがいを感じ、一生懸命働いた。
ところがある日、上司から呼ばれて行くと、「今度品質管理の部署で働いてくれ」と言われ、晴天の霹靂だったが、私は、やった事も無い品質管理に転属となってしまった。
前任者が辞めたことによる、欠員補充だった。
私は、納得できなかったが、ここですぐに辞めるわけにはいかないと思い、渋々品質管理の仕事を覚えた。
会社で作られた物が規格通りにできているか測定したり、社内で不良品が出たら対策したり、納品先で不良品が見つかれば、謝ると同時に全数検査を行い、不良品が混じっていないか調べるというのが主な仕事であった。
自分で作った物でない物を管理し、人に頭を下げて、時には相手先の工場に何日も通い、ひたすら検品をやり続ける事もあった。
製造業ではあったが、全く職種の異なる仕事で私はストレスが溜まり、苦しんだ。
不良品対応と、報告書の作成、客先への謝罪、下請けに対する不良品の検品の指示…などなど。対人的な事が多く、何より交渉力が必要とされる仕事だった。
私は何度か上司に「現場に戻りたいです」と直訴したのだが、うまくなだめられてダラダラと品質管理の仕事を、それでも4年ほど続けた。
日々、不良品が発生し、その対応に走り回る毎日を送っていたが、いよいよ不満が爆発して、私はまたもや退職願いを書くことになった。
今になって思えば、家族の事を考えたら、そうそう簡単に仕事を辞める事などできないのだが、私は、自分のやりたい事をとことんやりたいというエゴが強く、生来の飽きっぽさも手伝って次々と仕事を辞めてきた。
誰しも、やりたい事を仕事にできている訳ではないし、何かしらを我慢しながら生活している物だと思う。
こんなにも仕事を転々としてきた私は、もうすっかり妻にも愛想をつかされており、「今度はいつ仕事辞めるんだろう」という不安を与えてきた。
そんな状況の中、私は次に三条市というところにあった、比較的大きな製作所に就職した。
自分的には、生産技術という部署で試作や設計に携わりたかったのだが、経験がほとんど無いという事が原因か、最初の2年間は溶接課に配属され、ひたすら現場で生産の日々を送った。
仕事は、キツかったが久しぶりの現場仕事はやりがいがあり、同僚とも仲良く仕事をしていた。
溶接も、初めてやる仕事だったが、鉄と鉄を溶かしてくっつけるという事が面白く、私はすっかり溶接課に馴染んで行った。
そのまま溶接をやっていたら、私はおそらく今でもその会社にいたのでは無いかと今でも思うが、人生はなかなか思うようにはいかないものである。
ある日、生産技術に異動して、レーザー加工機の担当になって欲しいと人事から言われ、私は戸惑った。
最初は生産技術に行きたいと思ってはいたのだが、すっかり現場になじんでいたので、いまさらどうしようという不安の方が大きかった。
異動の理由も、今のレーザー担当者が会社を辞めるから、その欠員補充だったのだ。
前の会社で同じような事があったので、私は警戒しながら、新しい部署に転属した。
私がいた会社では、主に自動車のシートの枠組みを作っており、それを埼玉の会社へ納め、そこから主にホンダ車に載せることになる仕組みだった。
生産技術では、埼玉の会社から新型車の試作データが送られてきて、その部品を試作して送り、何度か変更を繰り返して部品の形状を決定し、上手くいけば、自社で金型を起こして量産に入るという流れがあり、非常に重要な仕事だった。
私は、前任者が辞める1ヶ月前から引き継ぎをしてもらい、レーザー加工機でやっている仕事を覚えた。
ここでのレーザーは3次元レーザー加工機というものであり、今まで私が携わってきた2次元のレーザーとは構造や動きがかなり異なり、一から全て覚えるのに等しいものだった。
3次元レーザー加工機は、アーム状になった部分の先端からレーザーが照射されて、加工を行う物で、水平面より上のあらゆる形状を、アームがグネグネ動きながら加工して行く物だった。
当然、加工データを作るcamというソフトも、3次元データを使用するため、かなりふくざつであり、覚えるのに大変な努力が必要だった。
短期間で、何とか私はレーザーを動かせるようになり、前任者が辞めてしまってからは、会社のレーザー関連の仕事を一手に引き受けるようになった。
簡単に言うと、試作用の2次元形状の物(ブランク)を鉄板から切り出し、それを試作用の金型で成形し、レーザーで穴を開けたり、フチの形状を3次元で切断(トリム)して試作部品を作る、というような流れだった。
試作金型は、生産技術のマシニングセンターで製作していた。
マシニングセンターのオペレーターとして働いていた同僚は、私より2歳ほど歳は下だったが、恐ろしくスキルの高い奴で、おそらく、私がそれまで見たマシニングのオペレーターの中でも、最高レベルの技術を持った人間だった。
仕事が圧倒的に早く、正確だったし、頭の回転が早く、どうやったらその形状の金型を作れるのかという答えを導くのが異常に早かった。
ただ、欠点として、恐ろしいほどに気難しく、自分が気に入らない仕事はやらないというスタンスだった。
そのような職人タイプの人間と、コンビを組まされ、(必然的に組まざるを得なかったのだ)、日々試作部品を作り続けた。
もう1人、金型のデータを作る設計担当の人間がいた。彼は私より5歳くらい歳下だったが、彼もまた金型のデータを作らせたら、右に出るものはいない(私が知る限りだ)優秀な人だった。
そのような超優秀な2人と一緒に3人でチームを組んで、何十種類という(トータルすると100は超えていたと思う)試作部品を作り続けた。
当然試作には納期があり、上手くいかない時には徹夜をする事もざらだった。
残業は100時間を超え、私は次第にノイローゼのような状態に陥ってしまった。
この頃、私は飲むアルコールの量がすごく増え、とうとう痛風を発症してしまうなど、体調不良にもなった。
仕事量も多かったし、マシニングの同僚の仕事のスタンスにも違和感を感じていた私は、とうとう好きだったはずのレーザーの仕事も嫌になり、もうこんな事をくりかえすなら、いっそ製造から離れて介護をやろう、と突拍子もない事を考え、会社を辞める前に、土日で介護の学校に通い、ヘルパー2級という資格(今では無くなり、初任者研修に変わっている)を取得した。
そして、妻の不安や反対?を押し切って私は介護業界に飛び込んだ。
我ながら本当に脈略のない仕事遍歴である。
自分の好きだった製造の仕事に2回も挑戦したが、結果思い通りにならなかったという理由で辞めてしまった。
妻や子供に多くの迷惑をかけてきた。
今では介護の仕事も12年ほどにもなるが続いており、何とか生活できるようにはなってきた。
日々、高齢者の介護をしていて、やりがいはすごくある仕事だが、今でも、これまでやってきた仕事を思い出して自分の人生を思い返す事がある。
一瞬一瞬を、自分のやりたい事を優先して生きてきた私であるが、工場で空を見上げながら働いていた記憶を懐かしく思い出す。
私が本当に作りたかったものは何だったのかなと、ずっと考え続けている。