プロジェクトをレンダリングするということ
突然ですが自己紹介をします。私の名前は高橋将章です。愛媛県生まれ、今年で46歳になりました。A型の蟹座です。職業は設計をやっておりまして、建築やインテリア、住宅やオフィスや店舗、規模やジャンルを問わず様々な「空間づくり」に携わる仕事をしています。
「、、、ん?」ってなるし、いまいち意味わかんないすよね。特に後半。設計やってますって何?と、、。多様化が進んでいる社会で自分の職業や仕事の内容を紹介するときに戸惑う人って結構いるんじゃないかなと思います。この自己紹介は例えばでしたが、これに近い状況に直面することが私はよくあるので、今回は私自身の仕事のスタンスについて備忘録的に、まさにnoteとして書き留めておこうかと思います。ここまでのくだりで「うざっ」と思った方は、遠慮せずスルーなさってください。
私は自身の仕事を大雑把に「空間づくりに携わっています。」と曖昧な表現をすることがあります。一般的な言い方をすると空間の「設計」の仕事をしています。設計する対象は、用途や規模問わず、いくつかのプロジェクトを並行して進めています。弊社が元請けになっているものもあれば、設計チームの1社またはひとりとして参画しているものもあります。
中には海外企業との協働プロジェクトもあります。日本国内に建築をつくるのですが、海外本国のデザインチームが彼らのブランドコンセプトに基づいて空間ビジョンを描き「こんなのできませんか?」と我々日本チームに投げかけてきます。我々はその空間ビジョンやアイデアをできるだけ「鮮度」を保ちつつ、日本の法規制や風土、気候に合わせて設計に落とし込む。日本国内の技術者にそれを伝えて形にしていく、いわばデザインを「翻訳」するような作業をして、現場を進行していきます。ローカルアーキテクトやローカルデザイナーと呼ばれます。
国内でのプロジェクトに関しても、協働プロジェクトが多く、最近ではアーティストが空間の総合プロデュースをするというコンセプトで、その企画立案や構想の段階から対話を重ね、その意図を汲んで、また「翻訳」をして施工チームに伝達する。そういったプロジェクトに取り組んでいます。
そんな中、日頃の仕事を進めながら、こういった立ち位置や仕事の運び方について、プロジェクトをレンダリングするという仕事、なのかなと考え始めるようになりました。
レンダリングとは
これまた突然ですが、設計やデザイン業界で「レンダリング -rendering 」という用語があります。これを読んでいただいている中には、聞き慣れている方と聞き慣れていない方がいると思いますが(当たり前)、私は自身でどんなプロジェクトにおいても、意識すべきスタンスは「プロジェクトをレンダリングできているか」と常々考えるようにしているわけです。
進行するプロジェクトの中で、こんな私ですら「建築家の〜」とか「デザイナーの〜」と紹介していただくことがあります。関係者の多いプロジェクトでは「建築担当の〜」とか「内装担当の〜」だったりすることもあります。その規模や関わり方によって認識のされ方がカメレオンのようにコロコロと変わります。私の場合はそのくらいプロジェクトごとにスタンスと役割が違っているのが現状なわけです。
自分で言うのも変ですが、私にはあまり「主体性」がありません。プロジェクトをこういう形で実現させたいという想いとビジョンは、そこに参画するかどうかの判断に必要になるので、初期段階で割と明確にあるのですが、そのビジョンを主張するというよりは、周囲を見渡しバランスを取りながら着地させようとする方向に意識が働きます。そういう意味では全力で空気を読みます。プロジェクトの空気というか風向きを読みながら、関係者と対話をして、プロジェクト全体をレンダリングするとはどういうことか。レンダリングの意味を理解するためには「モデリング」という用語の理解も必要になります。私は説明が下手なので、ここからはAIに代用してもらいますね。↓
<質問>
空間3DCGにおける「モデリング」と「レンダリング」の違いを教えてください。
だそうです。長っ!と思った人のために、私なりに言い換えます。
・モデリングは、空間(対象物)の形を作る作業
・レンダリングは、モデリングした空間(対象物)に情報を加えて解像度を上げる作業 = よりリアルにする作業
なんですね。
CG製作工程では普通の話ですが、これをプロジェクトに置き換えて捉えるという話です。仮に「四本足のテーブルを1台作りましょう。」と言っても完成イメージは関係者それぞれで無数にあるわけです。でもその場においては、ひとつの形として四本足のテーブルを実現しないといけないので、関係者でああでもないこうでもないと言いながら、時間と手間をかけてイメージをひとつに絞り込んでいくわけです。「意見がふたつに分かれたのでテーブル2台作りましょう。」というわけにはいかないのです。それを各々の立場の意見に耳を傾け、聞き入れたり、入れなかったり、聞き入れたフリをしたり(同じやん)しながら、複数言語をひとつの言語に翻訳して、そこにあるべき最適解に導いていくという作業なわけです。この翻訳して導くという作業が重要なんだと思います。
これってとても大変なミッションではあるのですが、捉え方次第で実はすごくやりがいがあって重要なポジションなんじゃないかなと思ったりするわけです。ネガティブに捉えると単純に面倒くさいですし「板挟み」になり事故に巻き込まれることもあります。でもポジティブに捉えると「中心に居る」とも言えるわけです。
昔、ある方が「議事録を制する者はプロジェクトを制する。」と説き、私にひたすら議事録を書かせました。参加者が異なる会議や定例で、ある方向性に向かった解釈を前提として、関係者を誘導しやすいように議事録というシナリオを創り上げていくんだ、と。それを台本と化して、関係者それぞれに役割を演じさせる。そういう仕事術でした。
規模に関わらず、私の考えるプロジェクトをレンダリングするという行為は、今で言うchatGPTのプロンプトというものに似てるのかもしれません。空間づくりはプロ集団による技術と経験に基づいた思考の集積と連携だと思うんです。
条件をどのように整理して、翻訳して、伝達(指示)するかによってアウトプットが全く異なるわけです。結局は人が作ることなので、当然「気持ちの問題」というパラメータも孕むわけです。(一応補足しますが、みんなプロなのでやるべきことはしっかりやります。)
CGに携わったことがある人はわかりますが、レンダリングは情報量が多ければ多いほど、その処理(アウトプット)には時間がかかります。それはどんなものづくりでも同じことですが、検討段階では情報量が多い中から取捨選択していくのは良いですが、処理段階では、多ければ多いほど良いということは決してありません。適度な密度というものがあります。やはりいい空間いい場所には、集積された思考の中から取捨選択されて処理された、適度な密度が感じられると私は思います。
では、プロジェクトにおけるレンダリングの醍醐味とはなにか。それは関係者それぞれが、全く異なる次元と解像度で完成イメージをしている中から、それらをひとつの形に向けて情報処理していくこと、だと思います。
例えば、ある空間に大きな窓を計画するとします。ある人はその窓の素材がガラスだったり窓枠が木でできているのかなと「質感」をイメージしている人もいれば、その窓から差し込む光や風といった「現象」をイメージする人もいます。その空間で、窓のそばで自分の大切な人が何気ない日常を過ごすことをイメージする人もいる。その空間のこの瞬間をイメージする人もいれば、そこで過ごす長い年月のことを長編小説のようにストーリーとしてイメージする人もいるかもしれない。(だんだんわかりづらくなりましたね。)
つまりは、長いプロジェクト期間において、誰からどの部分の要素を抽出して、形にしていくか。情報として残していくか。そのレンダリング作業が実はプロジェクトを決定づける大きな働きなのかな、と思うわけです。
アイデアは無数にあります。でも実現する形は物理的にはひとつしかありません。処理できる情報量も限られている。だから読み込む情報の質と量を決定すれば、アウトプットはなるべくしてなる。なのでその情報入力の決定の瞬間に居合わせてかつ判断するということが醍醐味なのではないかと感じるわけです。
今は、プロジェクトに関わる全ての人がプレイヤーとして専門家としての何かを持っています。それを各々が1カ所にめがけて全力投球する。そんなプロジェクトが多いように思います。なのでその飛び交う情報の中を横断しながら、あえて「板挟み」と捉えますが、俯瞰するのではなく挟まれながら行ったり来たりして、包括的に情報を得ながら、アウトプットしていく。
そんなものづくりのあり方が続けられるととても有意義だなと思うわけです。それは「調整」でもなく「翻訳」だけでもない。プロジェクトにおける「レンダリング」なのかな、と。
いろんなプロジェクトや人間関係で板挟みになってしまい思い悩んでいる方には「あー、今これレンダリング中かぁ、、、」と捉えると、少し気が紛れてポジティブになれると思うのでご参考までに。個人的な見解です。