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GOI - 誤解を恐れずに言うと-

花粉症の季節になりました。目の痒みには、マイティア・アルピタットが最適でこの時期手放すことができません。痒みがピタッと止まるのでぜひお試しください。ご無沙汰しております、高橋です。

「女性と建築の半世紀」というテーマで、建築家・長谷川逸子さんのインタビュー記事が話題を集めています。70年代から今に至るまで現役で活躍し続ける世界的建築家が、女性が独立することの厳しさや、パートナーを持たずに国際的な舞台にチャレンジすることの厳しさ、などを生々しくもありながら淡々と語られています。
女性と建築の半世紀 - 建築家・長谷川逸子インタビュー  |  建築討論委員会

長谷川逸子さんは、私が大学生の頃にはすでに世界的に活躍されている女性建築家として、専門誌の「新建築」や「GA」で作品を紹介されていました。今思うとそういう紹介のされ方も男性社会の時代を感じますが。。もう20年以上前の話なので記憶がアバウトな部分はご容赦ください。(建築関係には細かい指摘をなさる方が多いので、、)

私の学生時代、長谷川逸子さんといえば私は「新潟市民芸術文化会館」のプロジェクト模型にとても刺激を受けました。当時は流行っていましたが「卵の形」をしたプランの建築にはもれなく魅了をされていたので私の感性もだいぶ偏っていたのでしょう(笑)。卵形ではないですが、同じく女性建築家として当時から注目されていた妹島和世さんの「マルチメディア工房」のプロジェクト模型を雑誌で見た時には、図書館で「ヤバイもの見つけた!」と友人に話すくらい衝撃を受けたことを覚えています(ヤバいというのは理解を超えて、それが良いのか悪いのか判断つかないけど興奮している状態)。

そういった柔らかいフォルムやライン、重力や質量を感じさせないフワッとした構造。それらの表現を総じて「女性的」として捉えていた部分は正直あったと思います。当時の教授陣もそのように説明をされていました。


新潟市民芸術文化会館
(りゅーとぴあ HPより)
マルチメディア工房
(情報科学芸術大学院大学[IAMAS]HPより)


私自身ここ20年ほど振り返っても、建築に限らず、音楽や写真といった他ジャンルでも女性の作家や作品に魅了されることが多かった気がします。誤解を恐れずに言うと、私はそこに「女性であること」も含めて惹かれていて、何か自分とは全く別のものから生まれている何か、という感覚で興味を持っていたような気がします。今でも女性に対してその感覚はあります。

男三人の兄弟(誤解を恐れずに言うと団子三兄弟)の三男坊で育ったからか、無条件に女性が尊いものだという意識を植えられていた気すらします。思春期にキリスト教の洗礼を受けたので、新約聖書の中から受けたそういう影響もあるかもしれません。単純に父親がスケベでお下劣だったのでその影響もあるかもしれません。

自分の話になりますが、私は学生を卒業して、10年ほどアトリエ系設計事務所(←あえてそう言います)に勤めました。ものづくりの苦しさはそこで叩き込まれました。2011年に自称建築家としてスタートして、2017年に二軸で活動したいと思い立ち、レンタルスペースの運営を始めました。法人化して6期目に入ります。スペースはファッションブランドの展示会・受注会が主な利用なので、女性のデザイナーの活動・活躍を間近で見る機会も増えました。昨年からですが撮影スタジオの運営を始めてからは、よりそういった女性が中心となった制作現場を目にする機会も増えました。今はもう建築・建設の現場でも女性の活躍も当たり前になってきてると感じます。設計では特に設備系は女性の設計者が多いですし、現場でも女性の職人さん(塗装業や左官業が多いかな)とお仕事することも増えました。

設計・デザインを依頼してくださるクライアントも、事業パートナー含めて女性の方が増えました。今も進行中のプロジェクトのおおよそ半分は女性からの依頼です。住宅系の打ち合わせもやり取りは基本的に奥様なので、余計にそう感じるのかもしれません。

仕事における自身の立ち位置として、女性の意見を聞いて、それを設計図に翻訳として落とし込み、できるだけ鮮度を保って現場に伝える、ということが業務の割合の多くを締めている気がします。そこに自称建築家としての表現を抑えている葛藤に悩んだこともありますが、今はその翻訳と伝達こそが自身の表現方法なんだと開き直って日々業務に向き合っています。

女性とお仕事をすると、皆、女性を意識しないようにということに意識していることに気づきます。

・女性のために作るけど、そのことをわざわざ主張する必要はない
・ママさんのために作るけど、限定ではなくパパさんにも使ってほしい
・女性でも入りやすく、安心して使えるように

など。もちろん私もそこにならってあまり女性を意識しないように計画を進めていくことに努めていますが、それってなかなか難しいことで、言い換えると全てに対して等価に意識せざるを得ないという八方美人的な矛盾につながります。

新しい事業に取り組もうとする女性と話せば話すほど、そういった「わざわざ考えなければならない煩わしさ」のようなものといつも戦っている印象すら受けます。私のような鈍感なオスには到底気づきにくいかもしれませんが、普段の生活からそのような外圧のストレスや疑問を感じる場面が多いんだろうなと察します。

意識させないことを意識する。気にしないでいいようにするために気を配る。設計も発言もそういった場面が多くあります。そのたびに「誤解を恐れずに言うと、、」なんていちいち前置きするとみんな気にするし気になると思うんですよね。「わざわざそんな前置きするってことは、普段はこう考えてるのね、、」みたいな、いわば話の前提のようなものを共有してしまうことで誤解が生じてしまう、、あるいはその可能性がある。やや難しい話になりそうなのでこの辺りにしておきたいですが、私が目指したいのは、そこには前提すらなく本当の意味でフラットで、ただそこで始まってそこで起きている事象として、ひとつひとつの課題と向き合いそれを表現する。そんな仕事が続けられるといいなと感じる今日この頃でした。

長谷川逸子さんのインタビューの中で、心に刺さった一言があったので最後に引用。

F:最後に、答えにくいとは思うのですが、お聞きします。長谷川さんの作品の建築デザインの中で、ジェンダーもしくは女性であることが顕れていると思いますか。
長谷川:さあ、どうでしょうか。自分の考えを表現したいとやってきました。

女性と建築の半世紀──建築家・長谷川逸子インタビュー
(建築討論委員会)


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