承04 「自分」を広げた先に
◆「自分」とは?
前回、異なる、自分と他人の「環世界」とを、「共感」をトランスレーターにして、繋げることを考えました。
ここで考えたいのが、別々の「環世界」を作る「自分」あるいは、「他人」とは、何だろうということです。
「他人」は、「自分」以外の人と考えれば、「自分」とは何か?これが、理解できれば、「環世界」の正体も、はっきりしてくるだろうと思います。
「自分」とは、素直に考えれば、皮膚を境界とする、「自分」という人間個体を指すのだと思います。ただ、それでは、個体から離れた歯、髪の毛、爪は、もう自分でなくなります。さらに、自分が発した言葉、考えも、自分ではないことになりそうです。しかし、他人から、それらを邪険に扱われると、自分への攻撃と感じてしまうのではないでしょうか。つまり、まだ、それらも、何等かの部分で、「自分」に属しているとも言えそうです。
また、細胞はどうでしょうか?自分の中で生きている、最小の単位ですが、これも、「自分」と考えるべきでしょうか?それとも、「自分」の一部、意志を持たない部品と考えるべきでしょうか?
ここで、私が思い出したのが、「はたらく細胞」というテレビアニメでした。この「はたらく細胞」というアニメを見たことがあるでしょうか?
(ここでは、詳しい説明はしませんが、)このアニメでは、我々人間の体の中の細胞一つ一つが、擬人化され、意志を持った、1人の人間のような姿、形を持った、人格として描かれています。つまり、例えば、人間が出血をした時、赤血球が体から外に出て、「死ぬ」こととなります。しかし、我々人間から見れば、小さな出血ならば、さほど気にしないと思います。健康診断の採血のように、人間にとっては有用な事態により、体から出ていく(=死ぬ)といったこともあります。でも、それは、細胞にとっては、「死」となります。
そもそも、人間の細胞は、新陳代謝により入れ替わっています。例えば、血液であれば、100~120日程度で、新しい細胞に入れ替わると言われています。
つまり、細胞の「死」と人間の「死」は、明らかに違います。
では、細胞が、もし、意志を持ち、「自分」のために、と生きるようになったらどうなるでしょうか?生まれ変わらなくてはならない、古い細胞や、傷ついた細胞が、いつまでも生き残ろうと、しがみつくことができたら、どうなるでしょうか?それは、人間である「自分」にとっては、不利益なことになりえます。
そう考えると、私は、「人間」なので、人間としての個体を、無意識のうちに、「自分」と考えていますが、細胞のように、それより小さいもの、あるいは、人間にとっての地球のように、それより大きいものの立場で考えると、「自分」は、大きくも、小さくもなりうる、同じもので構成されていても、様々な「自分」があると考えることができます。「自分」とは、実は、本人の意識により、大きくも、小さくもなりうる概念ではないかと感じます。
◆「自分」を広げるということ
では、「自分」の大きさについて、考えてみたいと思います。
例として、2023年WBCの侍JAPANのチームを例にとって考えてみたいと思います。
あくまでも、テレビなどからの2次情報ばかりで判断するのですが、チーム全員の目標が、「世界一になること」で、しっかりと、意志統一がなされていたことが、最大の勝因だったと思います。
そこが、一致しているので、普段は、チームで4番を打っている人でも、試合に出なくても、チームのために裏方を担ったり、むしろ、試合展開からは、自分は出ない方がいいと考えていたり、それでも、しっかりと準備をして、試合に出る時には、全力で、求められた結果を出す、ということができたのだと思います。
そういう積み重ねが、優勝という結果を引き寄せたのだと思います。
この時、チームの選手、スタッフの一人一人の「自分」は、どこにあったのだろうか?もし、個人にあったとするならば、4番バッターが、試合に出られず、我慢できただろうか、エースが、ほとんど投げられずに、目立つことなく、我慢できただろうか?20人以上ものスターがいて、1人でも不満を、少しでも漏らしたら、結束は、保たれただろうか?
そう考えると、もはや、このチームは、選手も、裏方も、「勝つ」、「優勝」、「世界一」という目標、あるべき姿で、一致した、一人の「自分」と同等のものであったのではないかと感じます。
おそらく、サッカーやラグビーのワールドカップ代表にしても、いい結果を出した時には、同じことが起こっていたと思いますし、身近でも、親子間、仕事やスポーツなどのチームでも、まれに起こり、みなさんも、経験していることではないかと思います。
あえて、これを、まとめるならば、多くの人は、「自分」が幸せであることを、最優先に求めると思いますが、個人である「自分」を超えて、そこにいる皆の「幸せ」を、より大きな「自分」のものとして考えるようになった時、それが「自分」が大きくなった瞬間ではないかと思います。そして、それが、「自分」を広げることだと思います。
ただ、例えば、親が、子どものことを、「自分」と同一視するような場合もあると思いますが、この際に、注意が必要なのは、親が、「自分」の価値観を、違う価値観を持つ子どもに押しつける形ではだめだということです。その場合でも、親は、自分が考える「あるべき」を押し付けるのではなく、子どもの気持ちに寄り添い、言葉を変えれば共感し、それが、仮に自分と違う考えであっても、尊重できる関係でなくては、子どもを、親の「自分」と同化したことにはならないと思います。
つまり、大きな「自分」を構成する、個々の「自分」、すべての進むべき方向が一致した状態にあることが、より大きな「自分」をなす、必要な条件だと思うのです。
◆その先に、「自分」より大きいものの存在が見えてくる
「自分」を広げてみた時、自分よりも大きなものがあるということに気づくのだと、私は思います。
たとえば、野球選手であれば、自分を大きくしようと試みることにより、自分個人よりも大きなものに、チームがあり、さらには、戦ってくれる相手チーム、選手を含めた野球をする人たちの世界、スポーツを愛する人の世界、それを愛する人、見る人の世界・・・と、より大きなもの、世界に気づくことができるのだろうと思います。
そうした大きな存在に気づくことができた時、それらの存在の中に、動かしがたい、同じ目標を持つことができれば、それら大きな存在は、もはや、「自分」と同じであると扱うことが可能になると思います。なぜならば、自分の「幸せ」、目標と、大きな存在の目指す「幸せ」、目標が同じなのだから、自分のための行動が、より大きな存在とそれを構成する一人一人のための行動となるし、それは、他人(他の「自分」)にとっても同じことだからです。
つまり、自分を大きくしようとすることにより、より大きな存在に気づき、その大きな存在を、「自分」と同一視することにより、より大きなもの全体とそれを構成する個々にとっての「幸せ」を求める行動を、自分のための行動として、自然に行うことができるようになるのではないかと思います。
◆「自分を広げる」ことで、「やさしい世界」が創れる!
「幸せ」はうつります。
大きく広げた「自分」を「幸せ」で満たすことで、自分が「幸せ」になると同時に、大きな「自分」を構成する、小さな他人個人が感じる「幸せ」が、「自分」にうつり、結果的に、さらに「幸せ」になると考えられないでしょうか。
構成する一人一人が、より大きな「自分」を持ち、無意識のうちに、そのより大きな「自分」全体と、大きな「自分」を構成する、小さな個人たちの「幸せ」を考えることができるのが、「やさしい世界」ではないかと思います。
◆「共感」と「自分を広げること」で、「やさしい世界」は創られる
前回は、「共感」で、人(環世界)と人(環世界)を繋ぐことで、「やさしい世界」を創るということ、そして、今回は、「自分」を大きくすることで、「やさしい世界」を創ることを述べました。今考えると、おそらく、これらは、別々のものではなく、前回、「共感」でつなぐことができても、それを悪用することも考えられるという問題点を挙げましたが、もしかすると、「共感」して、異なる「環世界」を繋いだ後、何らかの、しかし、外せないほど重要な共通の思いを見つけて、「自分」化するという作業が重要なのかもしれません。
とすると、やがては、大きい存在が「自分」となり、「自分」を「幸せ」にすると同じ感覚、行動で、全体の「幸せ」を考えることができるようになるのかもしれません。とても、概念的で、理想的な話ではあるかもしれませんが、でも、それができた世界が、「やさしい世界」だと思っています。
◆まとめ
・「自分」とは、実は、曖昧な概念で、考え方、見方によっては、大きくも、小さくもなりうるものである。
・「自分」を大きくすることによって、より大きな存在に気づくことができる。
・「自分」を広げることで、より大きな存在(=「自分」)における「幸せ」、最適を考えることができるようになり、その達成が、個としての「自分」の「幸せ」に繋がる関係ができる。それが、「幸せ」が「幸せ」をよぶ、「やさしい世界」である。
・「共感」と「自分」を広げることは、実は、両輪である。「共感」して繋がり、共通の思いを見つけて、「自分」化し、「自分」を大きくしていくのである。