亡くなるお手伝い
前置き:善く生き、善く逝く社会を
株式会社Clinic Restaurantとして目指し掲げるビジョン。
善く生き、善く逝く社会のために医療・福祉のある飲食店「クリニックレストラン」という形を目指している。
亡くなるお手伝い
逝く(=亡くなる)準備をしている人たちがいて。
否、生まれたその時から我々は逝く準備をしているわけで。
そこに1人の人間として関わり、生き(逝き)遂げることをサポートする。
これは「亡くなるお手伝い」であろう。
そんな関わりをさせていただいた方が、亡くなられた。
「朝一番でATMまで歩いて行って記帳をする習慣をもう一度」という本人の希望。
道の悪さ、車通りの多さなど安全面もあり行かせたくない家族の心配。
在宅療養においていつだって起きうる「誰が主語なのか問題」。
この時も本人を真ん中に置いた僕にとって、答えは迷うことなく「行かせる」の一択だった。
行ける時に行かせなければ。
できたはずのことが「やり残したこと」「やらせてあげられなかったこと」として残れば、みんなそれぞれに後悔が残ってしまう。
誰にとってもよくない結果になる。
いつどうなるか分からない。だからなるべく早く。
「行きたいけど行かせてもらえない」という本人のSOSを聞いてから、本当は家族の力で解決してほしくて、少しずつ声かけをし始めて1ヶ月後のことになってしまったが状況を変えることが自分の役割だと直感した。
「それなら僕と一緒に行きましょう」と言い切った。
当日は出勤前の7:30にお宅へ。
8:00のATM記帳に合わせて、本人も予定が決定してからずっと楽しみに指折り数えていたとのこと。
数年ぶり、手術を境にできなくなっていた日課を取り戻せることに本人はノリノリで、ばっちりおめかしされて戦闘態勢で出迎えくれた。
出かけようとしたとき「私も一緒に行ったほうがいいですかね」という家族を「ぜひ一緒に行きましょう」とお誘いする。この旅はなるべく多くの人で共有し、全員で達成したほうが絶対に善いと思ったから。
この片道150mの旅は本人の満足と「できた」事実と共に幕を閉じた。僕の中に1つのモヤモヤを残して。
ぎりぎりのバランスで成り立っている高齢者の身体。
葬式、結婚式、お出かけetc。直後に高齢者の体調を崩していく外出イベントたち。
今回のATM散歩はそれに該当するかも知れない、と実施前から思っていた。
「この旅が、最後のひと推しになるのではないか」
その不安はカルテのメモに「下腿浮腫や息切れ、疲労によるその他症状出現ないかは注視を」という記載とともに残された。
その4日後から体調変化が始まる。
意識レベルの変動や、自立歩行の減少。
「やはりそうなったか」と思わずにはいられなかった。
いずれ訪れることになる状態低下。
因果関係なんて求めても仕方ないかもしれない。
本人が手に入れたいと思った経験を一緒につくった。その達成感とともに季節の変わり目が彼の人生を終わりへと連れて行った。ただそれだけのことかもしれない。
何かをやり遂げることは若い僕らにとってもエネルギーが必要なことで、高齢者にとってどんなことであれ目標をやり遂げることは体力を奪うことなのかもしれない。因果の証明はもはやできない。
それでも家族が何と言うか、怖かった。
「行かせたからだ」
そう言われることを恐れた。
義務感のようなものに動かされ、逝かれた当日に挨拶へ伺うことにした。
きっと10日前に一緒に歩いた彼に手を合わせることができるだろう。
加えて「あの散歩がひょっとすると」という僕の中にあるものを伝えて、家族がどう解釈しているのかを知りたかった。
必要であれば謝らなければならないと思った。
移動の最中、家族も含めて一緒に歩いたあの穏やかな時間を思い出し、同時に恐れを抱えて心は揺れ動いていた。
挨拶に伺った先で、心配は杞憂だったことを知らされる。
歩いた思い出を嬉しそうに話し自慢していたこと、「さらにその先の散髪屋まで行きたい」と次の目標を述べられていたこと、経験を通じて体力の低下を自覚したとつぶやいていたこと、家族への感謝を述べられていたこと。
元々聡明で潔い方だとは感じていたが、本人の人生が納得とともに終わりを迎えるために必要なヒントを、あの短い散歩が提供できたのかもしれない。
そして何より嬉しかったのが、散歩を終えた自宅前での晴れやかな表情を納めた写真が、遺影に使われるとのこと。報われた気がした。
「行かせなければならない」と思い提案して、1週間後に少し早起きして迎えに行ったあの日の30分の散歩は、大きな力を持っていたかもしれない。
家族の口から伝えてもらえたあの経験に対する「ありがとう」。そして僕が恐れた「あれが原因では」という言葉の不在。
本人と家族に救われる結果になった。
やっと安堵できた。
静かに眠る彼に手を合わせた時。決して長くない関わりだったけれど「お誘いしたことは間違っていなかった、のかもしれない」といういまだ疑心暗鬼ながらも大きな経験を得る関わりをくれた彼の人生への感謝、そして彼がつくってきた家庭の懐の大きさへの感謝。
涙をこらえた。ありがたい涙だった。
僕の携帯に入っていた当日の写真や動画をお渡しして、お暇した。
これからも続いていく介護者だった方々の人生、関わった方々の人生、それらも合わせて彩らなければ「善く生き、善く逝く社会」は訪れない。
その点では僕すらも報われなければならないのだろう。
サービス業は人を喜ばせる仕事。
店に立ち考える「どうすれば楽しんでもらえるか」「どうすれば満足してもらえるか」「どうすれば納得してもらえるか」。
それらは訪問診療や看取りにおける親和性が極めて高いと感じてきた。
最善への一手は足し算のこともあれば、引き算のことだってある。
ナイチンゲールは「看護は芸術であり科学である」と言った。
“看”取りのプロセスだって芸術であり、また科学できるものだろう。
芸術的要素のある30分の散歩だったと思う。
それは科学し何かを一般化できるものだと肌で感じる。
人の「逝く」を看る、そこで得たものは店で営まれる今の「生く」に還元され、店で得たものはさらに次のより善き「逝く」へ役立てる。
それが僕がこの人生ですべき仕事なのかもしれない。
関わりをもった人が旅立つ経験。
振り返るとこの4月からの約半年間の経験で全く無いでもなかったことに気づいて「みんな逝っちゃうんだな」とつぶやいてみる。人はいずれ死ぬ。その死をどうしていくかを考えなければならない。
夏が終わって秋が来るんだな、と当たり前にまた1年が流れていく(そしてまた来年もあると思っている)ことに気づいた。
彼の「逝く」の上に立つ僕が、また今週も今の「生く」を迎えるため店に立つ。