”限界”とは?
もう体力の限界。もう無理。ダメ。もう動けない。などなど
部活動や勉強をしているとついつい吐き出してしまう言葉の中で
NO.3の中に入るのではないか。
更に周りがそれを口に出すことによって、俺も私もそうだ。と同調することもあると思う。
以前フルマラソン(42.195㌔)を2回完走したことがあるけど、なんだかんだ限界限界といいながら、動き出す両足。止まってもここに止まるわけにはいかない。後ろからどんどん抜かれ、時間というリミットと共に、迫りくる回収車。もう限界‥。
さて、ここから本題ですが、
・「教育を変えなければ」
・「世界の教育は進んでいるが、日本の教育は遅れている」
・このタイプの教育が始まったのは、18世紀。産業革命の時代に工場で働く人をつくるために作られた教育で、「プロイセン型」と言われています。「質の高い教育を、無料で、世界中のすべての人に提供する」というスローガンを掲げる教育NPO「カーン・アカデミー」で知られるサルマン・カーンは、プロイセンモデルの始まりをこう説明します。
※本文一部抜粋。
教育が問題だ!限界だ!世界から見て遅れている。早く教育を変えないとという大合唱。そして、変えたのがタブレットやリモート授業を取り入れた。「デジタル教育」。確かにPC等を用いることで、どこでも誰とでも繋がれるようになったが、果たしてこれで世界を超えるような教育を打ち出すことができたのでしょうか。できるのでしょうか。さらにさらに日本の教育は変わるのか。
運動や勉強と一緒で限界だ。変えなければということは誰でも言えること。でもここで言えるのは何が限界なのか。フルマラソンでもスタートとゴールがあるように教育どこから始まりどこへ向かおうとしているのか。そこが明確でなければ一部分を変えても全体は変わらない。
では今、教育のどこが限界なのか。そしてどこに向かっているのか
明確にする必要があるのではないか。
また大人たちの視点で変えても授業をするのは先生で受けるのは子どもたち。どの目線で見る視点の自由自在さ。臨機応変さも同時に大事だと思う。
いつまでも雑草の葉っぱだけ抜いていても、生えてるのは当たり前。
今こそ、根本問題を知り根こそぎとり、今だけ自分だけお金だけな社会を抜け出して、明るい未来を作るために大人たちが立ち上がり、誰もが繋がれる教育・学ぶことが楽しくてもっと学びたいと言える教育が必要だ。