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「本体視点」からの言語化。

こんにちは。サイキック整体竹内です。
今回は「対話をする」ということがかえって自分の首を絞めることがあるかもという話をしていきます。

施術をさせていただく中で症状や違和感の「言語化」を売りにしているサイキック整体ですが、多くのご縁をいただいてるおかげで「言語化」に対する見方が変わってきました。

元々は「自分に寄り添うため、理解するため」に気になったことや感じた感覚を言葉にすることで客観的に観察したかったんです。

それが進むというか練度が上がってきたことで、自分以外の人であったり、物体であったりと「皮膚より外の諸々」への言語化が可能になってきました。

「本当かどうかわからないけれど、なんかそんな気がする」
この感覚をいかに深く落として、信じて進んでいくかがまだまだテーマな日々が続いています。

そんな中よくいくカフェで、いつも通りお喋りしてたわけですがそこで「話すということがかえって自分の首を絞めることもあるんじゃないか?」と思いました。

というのも僕にとって「対話」とは「自分とそれ以外の違いを明確に認識してそれぞれに道があることに気づくこと、または土足で入らないようにすること」かなと今は思ってます。

同じ場に居たとしても、同じテーマで話をしていたとしても、そこに至るまでの経験とか、環境というのは各々全く違う道を歩んで来たわけです。全てに配慮することは難しくても、せめて「僕はこう思ってますが別にあなたの意見を否定するつもりはないです」という想いは持つようにしてます。

当然それが伝わるかどうかは別ですし、別に絶対に伝えたいとも思ってません。僕側の自己満足として「そう在りたい」という一種のこだわりのようなものですね。

施術という個々人の「無意識」や「魂」に身体を通して触れる可能性があるからこそ、伝わる伝わらないに限らず「僕なりに意識してます」とか「そういう気持ちで生きてます」というのを示したいんですね。

僕はとにかくお喋りで、良い悪いに関わらず勢いに任せて話すぎるきらいがあります。

元々は「理解してほしい」とか「向き合えない自分を誤魔化すため」に口数を多くしてフォローしたり煙に巻くという意図で「言葉」を用いてました。

なので自分の持ってる価値観や思いつきを「理解してもらうため」にあの手この手を使ってどうにかして伝わらないか、と躍起になっていました。

そんな過去の自分を思い出した時にふと「話をするほどどんどん状況が悪くなることもあるかも」と思ったんです。

失敗した〜と思って修正するんだけど、どんどん崩れてって元々どんな形だったかわからなくなった、みたいな経験をしたことはないでしょうか?

自分のことを理解してもらおうと言葉を尽くして近づこうとするほどどんどん相手が引いていくみたいな。

前提として「分かり合えない」ことがわかっていたのに、頭とか感情の方で「誤解を解きたい」とか「挽回したい」とかそういう気持ちに支配されて本来の目的とは違う方向に突っ走ることがあるんじゃないかと。

その環境の中に自分の居場所がないというのは、色々な事情でそこから離れてようやく気づくことが多いです。

結果として、しんどい思いはしたけど離れないとわからなかったな、みたいな話をよく聞きます。

地元の良さは地元を出てやっとわかるみたいな。
地元という「1」しか知らなかったけど外に出たことで比較するための「2」が出てきた。

そこでようやく冷静になって「あっちにはこういう良さがあったのかぁ」と感謝できるんですよね。

理解されないのは自分が悪い、だってその他大勢の人が首を縦に振ってくれないのだから。

実際のところ「井の中の蛙」だっただけの話で外に目を向けてみたら色々な人がいて、自分が見てた世界も、関わる人も「データがなかった」だけなんですよね。

施術に関して言えば「整えるたせいで、かえってトラウマとか過去の課題が出てくる」みたいな可能性もあります。

あえて歪にしたり滞らせていたことで「自覚できない」ようにしていたのに施術によって「流れが整ってしまった」からそれに向き合わざるを得なくなってしまった、みたいなことが起きる可能性があります。

まぁ施術に来ていただくことが決まった段階で「準備OK!行ってこい!」のサインなので上記のようなことは起こりにくいです。

あとは、頭では準備できてないんだけど身体の方で「今行くべきだぞ!」っていう感覚があって「なんかわからないけど受けたいって思ったんです」という具合にご連絡いただく場合もあります。

ここの循環を生むというか滞らせにくくするには「僕の生き方」が重要だと思っています。

目先の利益に釣られて耳障りのいいことばかり言ってると「今はまだ整うべきじゃないのに脳みその方で動いて時期じゃない方を呼びこんでしまう」みたいな。

固めておかないと今の忙しさを越えられないから固めてるとか、時期的に休んでて欲しいからあえて箱の中にしまって気付けないようにしているとか。

身体の意図をいかに五感、六感を用いて感覚的にキャッチするかが鍵だよなぁと思います。

人には人の人生のスピードがあるように「体感」にも「その人にちょうど良い体感」があるのだと気づきました。

施術直後に出た方がいい場合はそうだし、数日経ってからの場合はそうだし。
施術直後に出た方がいいというのは竹内晶貴という人間個人の「ビジネス的視点」からの物言いです。

すぐに効果が出れば、次に繋がって美味しいから、みたいな。
ホメオスタシスを考慮せず、ただ結果のみを追い求めると「体感の出方」の調整をミスって、揺り戻しを大きくしてしまう可能性が出てきます。

要素としては必要でもそれを主観による強制を行うことはルール違反じゃないかなぁって思ってます。

純度を大切にするならば、無意識に投げかけることを第一にしているならば、「施術の体感」もその人にとってベストなタイミングで受け取れるようにサポートするのが良いよなと思います。

ただ、ここも文章だけで表現するのは難しくて「細かいニュアンス」は実際にお会いさせてもらわないとなんとも言えないです。

「ホメオスタシスの揺り戻しのおかげで自分の思い込みに気づける」場合もあるんですよね笑

全てが無意識の示すままに、とまでは言いませんが、最終的には「そう思うんだったらそう」なので、そこを自然に受け取れるようにそれぞれの進み方や道が存在しているという感じです。

なんというか「言語化の限界」のようなものを少し感じていていよいよ言葉で表現するということにも何かしらのテコ入れをしないといけないのかもしれません。

専売特許である「言語化」ですが、以前ほど執着することは減ってるような気がします。

もしくは役割が変わっているのか。

文章による発信はあくまでも「骨組み」とか、サイキック整体という「フレーム」に触れてもらう程度でいいのかもしれません。

「今までの言語化」を手離すときが近づいているのかもしれません。

なんだか書いててワクワクしてきました。
「本体」としての言語化が進んでいるようなそんな感じ。

まだまだ加速していくことができるんだなってウキウキしてます。
イメージはもう光速って感じ。

もっともっと楽しむぞ〜💡

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