見出し画像

今年の冬至は特に、来年以降の自分の進む道に大きく影響が出るらしい。
色々な投稿を見ていて、自分でも確かにそんな気がすると思っている。

「どのような世界線をお望みか」みたいな言い方をされているものが多く、今までの自分なら「上から偉そうにしやがって」とさっさとミュートして忘れていたと思う。

世界線だとかパラレルだとかはイマイチわからないが「自分がこれを選んだということは同時に、選ばなかった自分として進んでいく人生もあったんだよな」と考えることが多かった。

「選んだ」瞬間から枝分かれしていくような妙な感覚があって、選ばなかった方の道を、選んだ側から見ることもあった。

選ばなかった側から、選んだ側の道を見ることもあった。

あまり深く観察してこなかったがこれが「枝分かれ」していくということなのかもしれないと思った。

日々の意識できない領域の選択も含めると、絶えず何かを選んだり選ばなかったりして生きてるんだと思う。

全てに意識を向けていると疲れてしまうから、その大半は無意識がうまくやってくれているのだろうと思う。

「風の時代」と言われるようになって1ヶ月ほどだが、この言葉に対する認識によって、その後がグラデーションのように枝分かれしているのだという体感が生まれている。

言葉に対してどのような想いを乗せるかが「周波数」とか「波動」とかそういう話になるんだと思う。

人によってどのような意図で言葉を用いるのかが変わるが、言葉そのものは共通のものだ。

今までは共通の言葉を使っているからという理由で人に近づいていたが、それだけでは不十分であるということを学んだ。

朧げながら抱えていた感覚が12月を境に一気に表面化したような気がしている。

より直接的で具体的に感じられるようになっている。

僕にとってもはや言語は意思疎通を図るためのツールではなく「どのような意図やニュアンスを乗せてるのか」を確認する目印になった。

自分がどのような意図で世界を捉え、どういう想いで発信しているのか。

言葉に乗り切らない想いを汲み取ることで一気に世界は広がった。

重要なのは他者ではなく、他者を基準として展開される雰囲気や振動数のようなもの、いわゆる「気」とかそういうやつだ。

もはや物体を物体として見ることに興味がなくなってしまった。
というより満足した。

脳の使い方を明確に更新していく必要がある。
言葉を扱うのではなく、その周りの何かを知覚するために言葉を基準にして観察するのだ。

口ではいくらでも言えてしまうことを体験したし実際にやってきてしまった。

たくさんの気持ちのいい言葉を集めては並べ、鑑賞することで本来の目的を忘れてしまったこともある。

そういう環境との関わりのおかげで抽出された「向き合うべき課題」によって、今までの自分を全て手離そうと思えた。

「風の時代」
これはただの基準で、その裏にある想いによって自分がどこに位置していて、どこに行きたいのかがわかっていく。

自分が持っているこの感覚を灯りに、望む道を選択していく。

そういう意識で未来を見た時、無数に広がる「道」に一筋の光が見えた。

想いを向けた先が正解というより、行きたいのだから道を示せという感じだった。

いつまでもお客さんでいるんじゃねぇぞと背中を蹴られたような気がした。

僕が進む人生を見守ってくれているあらゆる存在は、きっと僕の行く末がどんなものになるのか楽しみにしているのかもしれない。

思えばいつもそうだった。

助けてくれているというより、僕が決めたことの背中を押すような出来事ばかりがやってきていた。

何か偉い存在ありきじゃないんだ。
自分が居て、そして決める。

そこを応援するように色々な存在が手を貸してくれているんだ。

自分の人生の舵を自分で握ると強く決めている人に、気まぐれ的に幸運がやってくるのかもしれない。

人生は最高のショーだ。
見ている存在全てが楽しめるような、そんな命の使い方をしていく。


いいなと思ったら応援しよう!