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「愛情」についての考察と仮説。

こんにちは。
サイキック整体です。

今回は施術させていただく中でふと気になった話について。
あくまでも僕個人の感覚の話なので、そこはご理解いただければと思います。

多くの方を施術をさせていただく中で「愛情」に関わる問題というか違和感を感じることが増えました。
僕はそもそも、一般的に使用される「愛」という言葉とか、これが使用される「意図」に疑問があって、あまり使ってきませんでした。

まず「愛」とはなんぞやという話ですが、僕も正確にはわからないです。

その上で進める「仮説」なのですが、まぁ結論をいうと

過去に満足な「愛情」をもらえなかった経験があると、その不足分を別の何かで代替する可能性があるということです。

結構一般的に浸透している解釈かなとは思うのですが、僕なりのエッセンスというか視点が加わった話ですのでお願いします。

僕の中には「魂のイメージ」がありまして、そこが欠けている、もしくはモヤがかかっているような人は総じて「愛情」に関わる何かしらの傷や問題を抱えている人が多かったです。

満月が「心身ともに満たされている状態」なら、三日月とか欠けている月がいわゆる「愛情」に関わる何かがある場合。

じゃあ何で代替するのかというとさまざまありますが特に感じるのは「健康」とか「成功」とかそういう「ポジティブ」な分野を、自身の欠けているところにはめこんでるのではということ。

愛情というものが何かわからないが、「良いもの」であるのはわかる。
じゃあこいつを代替品として使おう、みたいになって「健康」やその他「実現できると良いもの」などを、その欠けたところに当て込んで擬似的に「満月」にするのかなと思います。

健康情報に限らず何かを追及する上で大事なのは「自分にとってのバランスを念頭に置いているのか」ということ。
思考優位にして、良いものがあるから手に入れることを繰り返すことがありますが、これは「物」というか「対象」が変わっただけでやってることは一般的な「薬」を見つけることと変わらないのかなと思います。

有機のものや手作りのものが身体に良い作用をもたらすのはわかります。
物体に乗っかる「想い」を摂取することで「気力」になり各臓器のパフォーマンスを上げるなど、「想い」には多くの役割があります。

ですがそれが「自分にとってどのくらい必要か」を勘定に入れたことはあるでしょうか?

週7日あるうちの何日なのか、その内の何食が必要なのか。
月によって、日によって変わる自身の体内の感覚を考慮して選択しているのかなど。

肉体的な作用がポジティブであってもそれを扱う精神が不安定である場合、果たしてその効果はいかほどなのかと思います。

感謝してジャンクなものを食べるのか
義務感で良いものを食べるのか
みたいな話で、それが自分にとってどっちが合うのかを比較検討した上で選べるのが理想かなと思います。

心の穴を埋めるために代替物を当てこむのは応急措置としては良いです。
でも所詮それは「無機物」なので「温度」は得にくい。

なんというか「人肌」特有の「温かさ」を心は求めているのかなと思っていてそれを欲するために様々な問題が起きるのかなと思います。

実感やその温かさの意味を感じて「満たされている」のではなく
形だけ「埋まってる」だけだと届いて欲しいところに届きにくいと思います。

とはいえ、「愛情」というものがそもそも何かわからない場合、自分にとって「良い」と感じるものをそこに入れるのは当然だと思います。そうやってなんとか前に進んできた事実がある以上、その努力を否定する権利は誰にもありません。

じゃあ「愛情」がわからない人はどうしようもないのかという話で、僕はそんなことはないと別の仮説を立てています。

「愛情」をもらってる、知ってる側が義足や義手のような形でその人の魂に自分がもらった愛情を注ぎ込むことで徐々に慣らしてもらうというのを考えています。

アニメやゲームに「誰かの身体の一部を移植してもらってそれで戦う」なんて描写がありますがそんな感じ。
最初は異物感があっても慣れればそれはもうその人のものになる。

移植された身体を軸に生活することで得た情報は、その人の感性を軸に日々を経験することになるので、少しずつその人色に染まっていくというイメージです。

身体の移植では拒否反応がどうだとかありますが、心においてもここは関わるのかなぁと思います。

義手や義足という形で得る「愛情」は相手のものをもらう形になるので、もらう側が「愛」というものをどのように捉えているかに依存します。

優しくすることが愛の場合と厳しくすることが愛の場合。
そのどちらもあり得るという場合の愛。

初めて見たものを「親」だと思う鳥のように、最初に受け取ったものが自分にとって合うものかどうかは確かに判断が難しいです。

ただまぁ、可能性はゼロじゃないので丁寧に検証していこうと思います。

あくまでも例の1つであり主観の話なので半分オカルトだと思って聞いて欲しいですが、

施術を受けていただいたお客様に上記のイメージと感覚を軸に施術させていただいたところ「普段は人からの影響を受けて体調を崩すが施術を受けた後は光に包まれたようでなんともなかった」とご連絡いただいてます。

イメージの中の魂は「欠けている部分もあればモヤがかかってる部分」もありました。そこに僕が受けたものや温かいなと思った出来事を思い出すようにそこに注いだ結果、今回のケースになったという感じです。

愛というものはなかなか曖昧なものではありますが「天の意」と書いて「あい」と読むなんて話を聞いたこともあるので「自分の経験と心で感じたもの」を伝えるイメージだと良いのかなぁなんて思っています。

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