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『スプートニクの恋人』を読んで①生きにくさとその脱却

村上春樹さんの『スプートニクの恋人』の中で、太文字になっていた「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」。この文章から、生きにくさについて少し感じたことを書いていこうと思います。



私たちは都合よく物事の側面を捉えている

すみれは「自分が知っていると思っていることについて考えることをやめてしまうと、予期せぬ裏切りに遭う。それくらい知っていると思っていることの裏には知らないことが存在している」という意味で表現していました。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

村上春樹『ノルウェイの森(上)』,講談社文庫,p54

『ノルウェイの森』でもこのように書いてあります。私たちが認識している世界には、2つの事象が分け難く同居し、私たちは一枚の壁で仕切ることで上手く把握しています。浮気する方が悪い、浮気される方にも問題がある。どれも内包し合ってるなかで、上手く切り取りながら付き合っていかなければなりません。


相手のすべてを知ることはできない

好きな恋人がいたとします。2年ほどお付き合いをして仲もよい関係性。ただ何年も一緒に時間を過ごすものの、恋人のすべてを知ることはできません。どれだけ自分のことを物語ってくれようとしても、事実の確証が100%ではないからです。恋人はある総体の一部として認識し、記憶します。しかし、その記憶の整合性については担保されず、少しずつ歪曲した記憶として定着していくため、ますます恋人のことを深く過去を知ることが難しくなってしまうのです。(私含め誰においてもそう)


「自分=他人」と「自分≠他人」

私たちは相手のことを目で見て、聞いた情報で捉えます。つまり私というフィルターを通して相手を再定義していきます。一方、自分自身のことは、他者のレンズで構成された私と自身が抱く価値観によって自分と認識します。

私が見ている相手と相手が認識している自分自身に一致が起きないことが割と問題になりうるなと思ったりしました。このズレが、幼少期や自己形成期に直面してしまうと、自身をうまく認識できず「私はこういう人だ」と軸を持ちづらくなってしまう可能性があるなと。

私はA、だと思っているものの、他の人からしたらBという人が複数いた場合、Bの層が厚くなる分Aの支持層である私は自己認識の不安定さを覚えます(それでもAを貫く強い方もいらっしゃるのでそこはご理解)。

このように、世の中の事象どころか、身近な人間関係においてもはっきりした物事が少ないことで、多くの支持を正当とする私たちにとっては、自分らしさの指針を持つことがなかなか困難になっているように感じます。


思考することの重要性

だからこそ、すみれのやっているように思考することが大切なんだと思います。自分が考え、定義をしたり物事を捉えたり。そういった自分の認識世界を形成することによって、至るところから言葉の矢が向かってくる世の中において、自分自身を守ってくれます。世界の再定義、生きにくさの脱却はここから始めると少しでもいい方向に進むと思います。


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