いい授業って?
前回は、スタッフの責任について書きました(かなり長文になってしまいました…)。今回は塾の本業と言ってもいいでしょう「授業」について。
子どもたちにとって、
面白くて、
わかりやすくて、
やる気が出て、
ずっと聞いていたくて、
成績だって、ちゃんとついてくる授業。
それが「いい授業」。それが理想であり、それを成し遂げるのが使命。ただし、それはそれは簡単なことでない。
「塾なんだから、成績を上げればいいんでしょ?」もちろん、それはそう。しかし、だからと言って、ただ問題を解かせ、必要なことのみで続けていくとね…。簡単だとは思いますよ。しかし、実際に現場に立っている自分からすると、まぁ、うまくいかないんです。なんでかって言えば、「子どもは知らないことに興味を持って、それを納得したがる」から。大人の側から、すでに決められたことを提示されたところで「そういうもんなのね」ってすんなり納得はできない。だから、授業をしていると「なんでですか?」という声があちらこちらから飛んでくる。
「新潟県は雪が多く降ります」と言えば、「なんでですか?」
「血液は「静脈」と「動脈」で循環する」と言えば、「なんでですか?」
「「be going to」と「will」は同じような意味だよ」と言えば「じゃあなんで2つあるんですか?」(nearとby、untilとtillのときもそう)
「「虫の知らせ」って言葉があるでしょ」と言えば、「あの虫と同じなの?」
と、こんな感じでちょっと具体例を書くだけでも、深く突っ込んでくる質問が多い。しかし、ここが重要。彼らの純粋な質問があるからこそ、教えるこちらも勉強になる。私たちだって知らないことはあるし、幼い時に無理やりにでも「そうなのね」って納得せざるを得なかったものもある。知らない内容の質問だったときは「次の授業までに調べておくね」とはっきり伝えている。
「子どもたちが1わかるためには、教える側は10知っていないといけない。だから、授業準備の努力は終わりが無い。毎年毎年ブラッシュアップしていくんだ」とは、前回書いた先輩の言葉。
無理に通そうとすれば、「勉強って面白くないな」って思わせてしまうし、何より授業の雰囲気が沈む。盛り上がらず、分からず、とりあえず淡々と進んでしまう。そしてわかったようなわからなかったような(結局、わかっていない)状態でその日は終わってしまい、一体何だったのか、となる。私も経験がある。だから「塾でも、教えりゃいいってもんじゃない」ということを痛感した。
今日は英語の前置詞を教えた。atとかinとかwithとかのあれである。それを淡々と紹介したところで子どもたちの集中は続きはしない。
前置詞ってそもそもなんであんなにたくさんあるのか、一つ一つ意味するものやイメージはどういったものなのか、ネイティブはどのようなシーンでその前置詞を使っているのか。そして、授業を受ける子どもたちの年齢でわかる言葉は何か、彼らがわかる文化の中で伝えられることはないか…。
結果、深くまで突っ込んだ授業になる。英語について言えば、中学生に教えるのに、大学受験で使う文法書からこぼれ話を拾ってくることもある。もちろん、その後の問題演習やテストの指導はあるけれども、内容をどこまでも追いかけていく授業で合って初めて子どもたちは興味を持ってくれる。「あー、そうなんだ!」これが「いい授業の始まりの地点である」と思っている。
塾の売りは授業。その授業を支えてくれているのが、実は通う子どもたちだったと思うと何とも不思議なものであるが、その不思議に感謝し、彼らに還元できるものを常々探し続けているのです。