空き缶でしあわせ#27
傲慢と善良を読んだ
この本を読むと、見たくない人間の姿を直視している感覚があった。この本の名前の通り、「傲慢」と「善良」という言葉が作中に何度も出てくる。言葉のイメージは何となくあったけれど、物語の中で改めてこの2つの言葉に出会うと重みが違った。
この作品は、恋愛や結婚、自分の価値や価値観について書かれている。初めに見たくない人間の姿と書いたが、なぜそう思うかと言うと「自分と重なる」部分があったからだ。自分はこんな打算的に生きていない、こんなに小賢しくないと思うが、思い当たる節がやはりある。作中の登場人物が感じている心の中の自分の会話を、どこかで自分もしたことがある気がしてくるし、実際何回かはしていたと思う。
誰かと付き合いたいと思う時、自分で意識的に考えてはいないけれど、自分に見合った相手か、釣り合っているかを考えていると思う。それは傲慢であり、自分軸で物事を考えていないことになる。自分が付き合いたいかではなく付き合うにふさわしいかを考えている。その他にも、いい子でいようとか、私なんかと謙遜することもあると思うが、それは善良である。善良であるが、それと同時に打算的な考えがあるとすれば傲慢だし、純粋にそう思っているのであればすごく善良な人である。
ここまで書いてきて、もう何を書きたいか分からなくなってきた。何度かこの作品を読むことで自分の中の傲慢と善良を理解し、これからの人間関係に活かしていけそうだと感じた。最近読んだり観たりする作品は失踪が多い。そういう巡りあわせの中にいるのだろうと思いながら、今日もあと半日生きていく。